1月の公演から
早いもので、今年も1月が過ぎようとしています。普段、コンサートの感想などは、フェイスブックにあげているのですが(サクッと書きやすいので)、その一部、今月聴いた中で印象に残った公演を、ブログでも共有させていただきます。今月はロッシーニ協会の演奏会、藤原歌劇団「ナヴァラの娘」と「道化師」のダブルビルなどが印象に残りました。日本ロッシーニ協会演奏会今年のお聴きぞめは、没後150年のロッシーニ。期待のメッゾ、脇園彩さんをお目当てに。同じことを考えたひとが多かったらしく、満席でもない浜離宮朝日ホールに評論家の姿が異様に多かったコンサートでした。OさんもMさんもDさんも。。。。Oさん曰く「(ロッシーニ歌手の)レベルの上昇がすごい。ひと昔前とまったく違う」。まったく同感。脇園さんはもちろん圧巻でしたが、テノールの小堀勇介さんも素晴らしかったです。脇園さん、深く、淡く艶めいて、ちょっと温かみもあり、落ち着いた色合いの陶器のような声。知的な色気もあり、ちょっとテレサ・ベルガンサみたいな声?と感じました。技巧が正確なのはもちろん、技巧に表情がある、というか。技巧それ自身が目的なのではなく、それを使いこなしているというか。それこそロッシーニの理想なのかもしれません。そして「身のこなし」が全然違う。これは海外の第一線で活躍しているひとはほんとうにそうなのです。昨日録画で見たニューイヤーオペラコンサートだと、中村恵理さん。ご存知の方もいるように、中村さんはミュンヘンやロンドン、ウィーンなど第一線のオペラハウスで活躍しています。脇園さんもスカラ座やペーザロのロッシーニ音楽祭に出ているわけです。で、そういう方たちは、ただ美しく歌うお人形さんではないんですね。自分から舞台を掴み取っていく。能動的に舞台に参加していける。ひとりでも舞台を作っていける。そういう意志的なものが、内部からにじみ出ている。そこが違うと感じます。たとえばマリア・カラスは、そのような意志的なものがすごく強かった歌手ではないでしょうか。小堀さんは、明るくよく響く甘い声、高音が素晴らしく圧倒的で、イタリア語のディクションがきわめて美しい(イタリア人よりきれいくらいかも)。シラクーザをちょっと若くしたような?あるいは2014年にペーザロで聴いたガテルのような感じでしょうか。ガテルよりやや硬質かな。技術もきわめて高いです。これぞロッシーニテノールという声ですね。日本人でこんな歌手が出てきたのか!と驚愕しました。この2人が聴けただけで、大収穫です。お2人は5月に大阪フェスティバルホールの「チェネレントラ」で共演するらしい。これは行きたいです。しかし、繰り返しですが、ロッシーニ歌手の充実ぶりというのはほんとにすごいものがあります。今日のコンサートは、昨年亡くなったロッシーニの神様「ゼッダ氏に捧ぐ」と題されていましたが、司会の朝岡さんによると、ゼッダ翁がロッシーニ歌手の教育に熱心だったのは、ロッシーニは演奏家次第という部分が大きいから、だそうです。それが実を結んでいる。だから今時は、ロッシーニのオペラは超一流の劇場でなくとも、いい歌手が出てきます。ウィーンにでているような歌手がナポリあたりで聴けたりする。それに対して、ヴェルディの現状(やこれから)を考えるとかなり暗澹とした気分になります。指導者としては指揮者がいいと思うのですが、ムーティ(ロッシーニ歌いだったメーリを立派なヴェルディテノールにしたのはムーティの功績だと思う)の後に誰がいるのか。ヴェルディは歌手だといっても、ヌッチの後に、はるばるヨーロッパまで出かけて聴きたい歌手はいません。カウフマンのオテロやガランチャのエボリ公女はよかったですが、では彼らをヴェルディ歌いと言えるかというとちょっと違うような気がする。ロッシーニ歌い、ロッシーニ指揮者がいるならヴェルディ歌い、ヴェルディ指揮者も欲しいのですが、実はそういないのです。ほんと、ヌッチとムーティの後がいない。ここ数年、いっつも思っていることなんですが、年初にまた確認してしまいました。藤原歌劇団公演フランスとイタリアの「ヴェリズモ」ダブルビル、マスネ「ナヴァラの娘」(日本初演)とレオンカヴァッロ「道化師」。多くの方も書いていらっしゃいますが、大変面白い公演でした。「道化師」は「カヴァレリア・ルスティカーナ」とのダブルビルが定番ですが、今回はどうやら「戦争中と戦後」の同じ村でのできごととして、「ナヴァラ」と「道化師」を結びつけていた(演出のマルコ・ガンディーニによる演出ノート)演出の効果もあり、組み合わせとして成功したと思います。音楽の違いもよくわかりましたしね。「ナヴァラの娘」、50分余の小品ながら、戦場を舞台にし、いろんな要素が詰まったリアル演劇的な物語。生まれ育ちの卑しい女性アニタが、恋人の父親から要求された持参金のために、敵方の軍人を殺して報奨金を手にいれるものの、恋人には誤解され、しかも彼は重傷を負って息絶え、アニタは狂乱する。ある意味純愛の物語ながら、あまりにも切ない結末。兵士たちという最下層の男たちからも軽蔑される哀れなヒロインには、どこか「ヴォツェック」の差別された兵士の面影も漂います。物語の展開が早く、いわゆる聴かせどころ」は少ないけれど、聴きながら(見ながら)プッチーニ三部作の「外套」を思い出しました。風景や状況描写を簡潔に効果的に行うマスネのオーケストレーションの雄弁さは、プッチーニに強く影響したと思う。幕切れ、狂乱するアニタに覆いかぶさる鐘の音と「ズッカラーガ(敵将)の動機」はきわめて効果的でした。 アニタ役の西本真子さん、大熱演。これが藤原歌劇団デビューだそうですが、悲しく激しい表情が要求されるこの役を、安定した技術と純度の高い声で、観客に共感を持たせることに成功していたと思います。 「道化師」、聴きなれた、躍動的で外連味のある音楽は、「ナヴァラの娘」と好対照。繰り返しですが、「戦後」になり、村で演劇が行われるようになったという演出の設定が効果的でした。どちらも舞台に置かれた2枚のパネルが中心ですが、あくまで暗く、背景に死骸を思わせる椅子が無造作に積み上げられた「ナヴァラ」に比べ、「道化師」ではパネルが道化芝居の背景として賑やかに飾り立てられ、椅子は生き生きした表情を取り戻して芝居の椅子として使われます。ガンディーニ演出、デパートの化粧品売り場を舞台にした「愛の妙薬」など冴えたのが多いのですが、今回もとてもよかった。とくに「道化師」は、ひとりひとりに性格がある群衆の動かし方が素晴らしい。第1幕の道化師一座来村の賑わいのなかで、結婚式が行われたのは、「戦後」の訪れを改めて強調していました。劇中劇の始まる前のアクロバット(油布直輝)、劇中劇でのぶらさがった料理やデフォルメされた衣装などもおしゃれ。劇中劇での字幕を、その他の場面とちゃんとかき分けていた字幕(堀岡佐知子)も心憎いばかりでした。 歌手はみなさん揃って高いレベルにあったと思いますが、「ナヴァラの娘」同様、ヒロイン、佐藤康子さんの表現力に惹かれました。プッチーニを得意とする佐藤さん、豊麗で深みのある声が「成熟した意思ある女性」ネッダを造形します。ところどころに出てくる決め台詞(「今夜」とか「永遠にあなたのもの」とか)の表情が凄い。コロラトゥーラはちょっと弱かったですが。 柴田真郁マエストロの指揮もとてもいい。以前「仮面舞踏会」などでも感心した覚えがあります。決して煽ることなく、歌手の邪魔をせず、それでいて音楽にこめられた劇性、ニュアンスを余すところなく伝える。いい意味で職人的で、オペラの指揮としてひとつの理想形です。新国立劇場などでも招聘するべき指揮者ではないでしょうか。オケは東フィル。METライブビューイング 「皆殺しの天使」昨日はMETライブビューイング、トーマス・アデス作曲「皆殺しの天使」へ。アデスの新作で、ザルツブルク音楽祭で初演され、昨年11月MET初演された作品です。原作は、ルイス・ブニュエルの同名のモノクロ映画。オペラ「ルチア」終演後、富豪の家に夕食に招かれた、主役のプリマを含めたブルジョアたちが、なぜか客間からでられなくなり、極限状況に追い込まれるという不条理ホラーのようなお話。はじめは気取っていたブルジョワたちが、事態の進行とともに仮面をかなぐり捨て、終末への恐怖にかられながら、あるいは狂乱し、あるいは他人を責め、あるいは情事にふける。水がなければ水道管を壊し、なぜか!現れる羊!を殺して焼いて食べる。 映画を見ていたこともあり、面白く見られました。映画より話の運びもスリリングで、とくにオペラならではの「音楽」の効果がすごかった。指揮もしたアデスがインタビューで、映画には音楽がなく、鐘と太鼓の音くらいしかない、と言っていたのですが、たしかにそうだった!同じ物語でも音楽があると別物になる、というのがリアルに理解できました。アデス、「本作の音楽は幽霊屋敷」と語っていたのですが、まさにどんぴしゃり。事態を悟って一同が呆然とする瞬間に鳴り響くオンド・マルトノの不気味な響きの効いていたこと。音楽的には後半の第2幕のほうが変化に富んで面白く、愛の二重唱があったり、焼いた羊の頭を抱きながら歌う「MET史上最高音」が登場するソプラノのアリアがあったり。物語は、プリマドンナが、この自縛状態に陥った状況を再現することで、皆が自由になるのですが、そこでまた超高音のアリアが延々と続く、というのはまさに「オペラティック」でした。 映画では、脱出できた一同が、教会でお礼の礼拝に出ていたら、また教会にとじ込められてしまう、という結末なのですが、オペラではその状況を、家から出てきた一同が、待ち受けていた家族や友人に囲まれたのも束の間、また大きな門のなか〜多分教会の象徴?〜に、こんどはみんなで閉じ込められてしまう結末。門が舞台いっぱいに広がり、やはり舞台にあふれんばかりの群衆が、その門に圧倒されてのみ込まれていくような演出が効果的で、ぞおっとしました。(演出はトム・ケアンズ)映画と違う、現在進行形の舞台ならではの効果的でショッキングな結末です。 しかし、現代のオペラって、やたらソプラノに高い声域を設定するものが時々あるんですよね。アデスは「自分が書いているのではなく、書かされている」というようなことをいっていましたが。。。「狂乱の場」でこの世のものとも思えない最高音を連発するのは、どこかドニゼッティ「ルチア」の「狂乱の場」に通じると思えなくもないですが、ドニゼッティはプリマの力量を考えて書いていたと思うので、ソプラノのほうが「とても無理」というのを、アデスがなだめて歌わせる、というのとはちょっと違うかも。あまり高音が連発されても、聴き手もかならずしも聴きやすいわけではない。多少は歌手の歌いやすさや聴衆の聴きやすさも考慮してくれてもいいのではないかなあ。 歌手の方はみなさん熱演で、こんな物語を演じているだけで気が狂ってきそうなのに、破綻なくまた冷静な部分を保ちながら(アリス・クートやジョン・トムリンソンのインタビューで感じました)こなしているのに感銘を受けました。トムリンソンが歌う医師のパートは「ワーグナーのようにドラマティックなバスのために」書かれているそうで、「パートごとに異なる、人物に応じた音楽がある」という言葉にも納得です。アデス、(高すぎるソプラノパートがあったりしても)天才であることはたしかです。展覧会ふたつ「ゴッホと日本の夢」会期終了間際、行ってきました。すごくよかった!浮世絵がゴッホにいかに大きな影響を与えたか、よくわかりました。あれもこれも正体は浮世絵だったか!という感じ。ゴッホが所蔵していた浮世絵も展示され、具体的にどの作品がゴッホのどれに影響を与えたかも並べて展示され、関連性がよくわかりました。インスピレーションの宝庫だったのですね。とくに構図。メサジェの同名のオペラの原作で、「蝶々夫人」にも大きな影響を与えたロティの小説「お菊さん」も展示されてました。これもゴッホの愛読書だったのですね。ロティは蝶々さんのような日本の「現地妻」経験があったひとで、「お菊さん」はこの手の小説のなかで唯一自分の体験に基づいているもの。ゴッホやメサジェやプッチーニにとって、想像力を膨らませてくれる宝庫だったのでしょう。日本に行ったことのないゴッホが、南仏アルルを自分の理想の「日本」と重ね合わせていたという話もとても興味深かった。アルルと日本!ぜんぜん違うけど、それを知ると、もしゴッホが日本に来たらどうなっていたか、興味をそそられます。来なくてよかったかもしれない。プッチーニは日本に来ていないからこそ想像力が羽ばたいたと思うのだけれど、ゴッホもそうかもしれません。それにしても、日本の美術や工芸(古伊万里とマイセンなど)がヨーロッパに与えたインパクトとくらべて、日本の音楽のそれが小さいことを痛感します。「蝶々夫人」や「ミカド」には日本のメロディはいくつもあるけれど、彩であって本質的なものではないし。五線譜みたいな普遍的な「記号」がないこともあるのでしょうけれど。しかしゴッホ作品の生命力ってすごいですね。昨秋感激した運慶もだけど、天才の作品は今作られたばかりのようにいきいきとしています。タッチのひとつひとつにエネルギーがあふれていて、こちらへ向かってくるのです。西のゴッホ、東の運慶。「北斎とジャポニスム」また会期ぎりぎりの滑り込みでしたが、「北斎とジャポニスム」展へ。「ゴッホと浮世絵」に劣らず大変楽しめました。ゴッホもルドンもモネもセザンヌも北斎!北斎はほとんど、印象派の「影の親分」のようです。とくに面白かったのは、日本の花鳥画の伝統が、宗教画や歴史画、人物画を中心に発展し、動植物画を低く見ていたヨーロッパ絵画にとって新鮮で衝撃的だったということ。ヨーロッパ芸術にとってキリスト教の影響がいかに大きいか、改めて痛感しました。逆に、よく知られているように、北斎をはじめとする浮世絵は日本では低く見られ、ヨーロッパで「発見」されて日本に逆輸入されたんですよね。よくあるパターンではありますが。それにしても北斎の構図の新鮮で巧みなこと、線の自在で柔軟で生命力にあふれていること、人物動物への観察眼、どれをとっても圧倒され、感動させられます。西暦2000年のミレニアムに、雑誌「TIME」が、「この1000年に世界に影響を与えた人物100人」という特集を組んだ時、日本でただ一人選ばれたのが北斎だったそうですが、ほんとにその通りじゃないかとつくづく思いました。(展覧会にかぎらずコンサートもそうですが)こういう企画展は面白いですね。「印象派展」も「プラド美術館展」もいいですが、このような企画展には「ものの見方」を変えてくれる新鮮な驚きがあります。どしどしやってほしいなあ。