出演者たちに愛されて〜METライブビューイング「西部の娘」
火曜日は、METライブビューイング第3弾、「西部の娘」を見てきました。 見応え、聴きごたえありました。一番の発見はやはり「作品」についてかな。インタビューに答えていた歌手たちや指揮者(アルミリアート)が口をそろえて「最高の作品」だというんですね。カウフマンは「プッチーニ作品のなかで最高」だというし、ヒロインを歌ったウェストブロックは「一番好きな役。歌手になった頃からずっと歌いたかった」というし、アルミリアートも素晴らしい作品だと。まあ、多少はリップサービスもあるかもしれないけれど、精緻でよく書き込まれていて引き込まれる、というような意見は共通していました。 まったく個人的な、そしてひょっとしたら乱暴なたとえで恐縮ですが、「西部の娘」は、ヴェルディ作品でいえば「オテッロ」や「ファルスタッフ」にあたるオペラなのかもしれません。よく書き込まれていて、ドラマと音楽が完全に一致していて、だからドラマから浮き上がるようなメロデイを持ったアリア(たとえば「トスカ」の「歌に生き、愛に生き」のような)がない。第3幕のジョンソンの有名なアリアだってそう。「オテロ」の「柳の歌」みたいなものといえばいいでしょうか。旋律美を多少犠牲にしても?ドラマ優先にしたのかもしれないな、と。プッチーニ作品のなかでは、次の「三部作」とならんで今ひとつ人気がないのはそのせいなのではと改めて思いました。けれどプロ?通人?玄人?筋の評価は高い。それも「オテッロ」や「ファルスタッフ」に似ています。 もちろん音楽はとても野心的です。「蝶々夫人」や「ボエーム」の名残みたいな音楽も聴こえるけれど、「トゥーランドット」の先駆けのような音楽もたくさん(第3幕の複雑な合唱など)。第2幕の幕切れのポーカーをするところの音楽の凄みと緊迫感といったら! あと個人的には、キャラクターがプッチーニ作品のなかではわりとなじみやすいかな。ミニーも、いわゆるプッチーニ・ヒロインに共通する夢見る夢子さんのような乙女である部分と(そういう部分にはミミのような音楽が当てられている)、「自分」が何をしているかちゃんとわかっているしっかり者の部分があって、魅力的です。 今回の歌手たちは、インタビューを通しても演唱を通しても、みなそれぞれ役柄に共感していることがよくわかりました。 ミニー役のウェストブロック、ワーグナー・ソプラノとして有名ですが、繰り返しですがこの役が大好きとのこと。現実離れしたワーグナーの役より、こういうほうがきっと感情移入しやすいんでしょうね。ときどき金属的な音色になるのがやや気になりましたが、迫真の演唱。第3幕最後のジョンソンの助命を乞う一同への語りかけは感動的でした。 お久しぶりライブビューイングのカウフマン。うーん、素敵ですね、やっぱり。第2幕、ミニーとのキスへ至るまでの演技を見ていたらこちらまでドキドキ。本を手にベッドに腰掛けた彼女の肩から首に手を回したり。そうやって少しずつ距離を縮めていく。以前、カウフマンの大ファンだというあるエレガントな老婦人が、部屋に大きなポスターを貼っている、だってあの彼に迫られたらどんなに素敵かと思うもの、とおっしゃったことを思い出してしまいました。前は彼の、こもった、ドイツ的な声がイタリア・オペラにはむかないとずっと思っていたのですが、昨年6月にロンドンで見た「オテロ」で感銘を受け。今回も、それはもちろんイタリア・オペラらしからぬ声ではあるけれど、前よりはずっと柔軟になっているし、これはこれでありかも、という気持ちになりました。上手いんですよね。気持ちの細やかな表現とか。彼にしかできないものをたくさん持っている歌手なんですね。それは、やはりスターの証拠でしょう。 ジェリコ・ルチッチのいかにも悪漢づらしたランスもはまっており、脇役たちの丁寧な演技も好もしかった。 ジャンカルロ・デルモナコ演出のこのプロダクションは、1992年にドミンゴ/ダニエルズ/ミルンズの顔合わせ、スラットキンの指揮で上演されたものが映像化されています。ヒロイック(時としてちょっと過剰)なドミンゴと、繊細で悩める男のカウフマン。同じ演出でも、ヒーローの役作りはだいぶん違います。それはそのまま、当時と今の「オペラ」の好みの反映のようにも思います。今の時代なら、カウフマンのほうが近しく感じられそうです。案内役はスザンナ・フィリップス。「アイーダ」の時のイザベル・レナード同様、アメリカ期待の美人ソプラノ。ひところより随分痩せてきれいになりました。ドレスもおしゃれ。質問の話題も豊富で、適性ありそうです。