2010/03/16(火)23:40
歌劇か演劇か~びわ湖ホール「ラ・ボエーム」
行楽日和の日曜日、びわ湖ホールに出かけました。
今回は、講座ではなく、プロデユース・オペラ「ラ・ボエーム」の観賞が目的です。
昨年から定着した、神奈川県民ホールとの共同制作。ベルリン・コミツシェ・オーパーの、アンドレアス・ホモキによるプロダクションをもってきた公演でもあります。
当然、開幕前の関心は、ホモキの演出にありました。
事前にきいた話では、装置はシンプル、休憩なし、最後は男性たちは「出世している」という設定だということで、それはそれで面白そう、とは想像していました。
実際、プロダクションとしては、よくできている、というのが実感でした。
設定は現代に置き換えてあり、ロドルフォたちは認められていない若いアーティスト。第4幕ではなるほどロドルフォはじめ一同は出世しており、ロドルフォは「ミミ」という作品がベストセラーになっている売れっ子作家で、贅沢なパーティを開いています。そこへ、瀕死のミミが転がり込む。最後はロドルフォはいたたまれずに、逃げるようにその場を去ります(ピンカートンみたい!)。マルチェッロもしかり。最後はミミとムゼッタだけが取り残されるのです。なかなかシビアというか、現実的ではあります。
そのシビアで現実的な姿勢を一貫させ、「ラ・ボエーム」を、現代の若者たちのドラマとして説得力をもって提示できたことは、やはりホモキ氏の才能でしょう。
装置らしい装置は第2幕で立ちあがる巨大なクリスマスツリーだけですが、それが場面に応じて飾り立てられたり倒れたりして、その場の空気を代弁していました。
人の動かし方はかなりせわしないですが、音楽との齟齬が感じられないのは、ホモキミ氏が音楽をよく理解しているからだと思います。
ただ一方で、この手のプロダクションは、音楽を考慮して作られていても、どうしても動きを重視するので、音楽に浸りきれないうらみが残ります。
今回、若者たちを見つめる「周囲の視線」のように、台本にない場所に群衆が登場するのですが、それが目ざわりになることがしばしばりありました。
たとえば合唱が主体の第2幕は音楽も動きが多いからいいのですが、第1幕あたりは、なかなかきびしい。
第1幕では、前半のにぎやかな部分を中心に、群衆が絶えずあらわれるのですが、主役たちがこのなかに埋没してしまうのです。
音楽的に存在感を示せればいいのですが、残念ながら男性ソリストは、そこまでのレベルに達していない感じがしました。
核になるべきマルチェッロ役の堀内康雄さんが、練習中に肉離れを起こして降板してしまったので、それも大きかったのでしょう。代役の迎さんは奮闘してはいましたが・・・
とくにテノールが魅力に乏しいのが残念でした。
現地のコミッシェ・オパーでは、どんな歌手でやっているのでしょうか・・・
浜田理恵(ミミ)、中嶋彰子(ムゼッタ)と世界クラスをそろえた女性陣はさすがでした。とくに中嶋さんは貫禄です。出てくると舞台がしまる。すごい存在感です。
いずれにせよ、声に酔う、プッチーニの音楽の甘さに酔う、という楽しみ、イタリア・オペラの楽しみは、このプロダクションにあってはあまり重視されていないようでした。
動きが優先されているせいもあると思いますが、イタリア語はほとんど聞こえてこないというのが実感でしたから。(コミッシェ・オパーですから、現地ではドイツ語でやっているのでしょうか)
「歌劇」より「演劇」なのです。
これを、イタリア・オペラと呼ぶのは、正直ためらいがあります。
もちろんこのようなあり方は、大あり、だと思います。最初に書いたように、プロダクションとしてはうまくいっている、と思う。
ただ、本当なら、これは、コミッシェ・オパーの引っ越し公演でやるべきなのではないか、と思ったのも事実です。
イタリア~ドイツ~日本、と何重にもフィルターをかけるより、(以前のヴェルディ・シリーズのように)イタリア~日本か、日本発信のイタリア・オペラ、のほうが、やはりわかりやすいのではないだろうか。
それはもうさんざんやったから、という声があるのは承知の上で、そう思いました。
いずれにせよ、一見の価値はあるプロダクションです。神奈川公演は、3月27,28の両日です。
追記:やはりベルリンでは「ドイツ語」上演だったようです・・・なので、言葉と音楽の関係は脇に置かれているわけですね。