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加藤浩子の La bella vita(美しき人生)

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April 5, 2014
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 今回のジェノヴァ訪問、書いてきたようにバッティストーニ&カルロ・フェリーチェ歌劇場管弦楽団のコンサートが眼目でしたが、私にとってジェノヴァといえば、何と言っても「シモン・ボッカネグラ」の町です。

 よく知られているように、シモン・ボッカネグラは14世紀に実在したジェノヴァ総督。有力貴族が抗争を繰り返していたジェノヴァ共和国で、初めて平民から選出されて総督になった人物です。とはいえジェノヴァ人の協調性のなさはつとに有名だったようで、貴族間の争いがひどいため平民から総督を、という流れになったようですが、そこで また平民対貴族という対立ができてしまったそう。だからジェノヴァでは抗争が絶えなかった。同じ海運を武器に発展したヴェネツィア共和国が団結が強かったのとは対照的だったようです。このあたり、塩野七生さんの「海の都の共和国」に詳しく書かれています。

  オペラのシモンはとても魅力的な人物(少なくともそのように描かれている)です。恋人を思う青年であり、長じては和解を重んじる政治家にして、娘に愛情を注ぐ父親。けれど実在のシモンはかなり生臭いひとだったようで、政争にまきこまれていったん辞職し、ミラノ公国の助けを借りて復帰。その後は対立貴族に強面でのぞみ、恨みをかって毒殺されました。決して、オペラのように、「争いをやめて平和を」と訴える人物ではなかったらしい。オペラでは次期総督に指名するガブリエーレ・アドルノも敵で、和解どころかシモンの功績を歴史から消してしまったそう。オペラに出てくる貴族の娘との恋愛や、娘との生き別れはもちろんフィクションです。歴史オペラなんて、そういうパターンが多いし、そうでなければ面白くならないのですが。。。(史実にかなり忠実な「2人のフォスカリ」が、オペラとしては地味なように)。

 とはいえ、オペラ「シモン・ボッカネグラ」のファンとしては、ジェノヴァで「シモン」の足跡巡りをするのは夢でした。シモンの「生家跡」とか、「墓碑」があるという話はきいていたものの、これまでは訪れるチャンスがなかったのです。

 で、今回、行けました。生家跡と墓碑。

 勇気がいったのは、生家跡のほうです。というのは、生家跡があるという「マッダレーナ通り」が、治安が悪い、ときいたことがあるからでした。

 ジェノヴァ、これまで何度か訪れていますが、最初の訪問の印象は正直、最悪に近いです。学生時代ですからもうウン十年前になりますが、 駅から町のなかまで歩いて行く道が、どんどん雰囲気が悪くなっていったことをよく覚えています。ちょっと脇道に入ると、人っ子一人いなくて、ヘンな話ですが小便臭いのです。一緒にいた友人が、「ジェノヴァって、こわいところね〜」と呟いたのを覚えています。

 2度目の訪問の印象も、あまりよくありませんでした。駅そばのビルにあったペンションは、魔法使いのおばあさんのような女性が経営していて、ヒーターの上をさわると指が埃で真っ黒になりました。翌朝、列車で南仏に抜けたときにはつくづくほっとしたものです。

 その後、町の一部が世界遺産になったり、欧州文化都市を経験したりして、旧市街の一部はかなり整備されてきたこともあり、またオペラもあるので、ここ数年は何度か来ているのですが、「マッダレーナ通り」は未踏のままでした。けれど今回、ホテルで地図を見たら、目抜き通りの「ガリバルディ通り」と並んで走っているし、旧市街の中心部ではあるのです。

 「ここ、危ない?」

 ホテルできいてみたら、

 「全然大丈夫よ」

 まさか、という表情で返されたので、では行ってみようか、という気になったのでした。

 マッダレーナ通りは、ガリバルディ通りから10数メートルかそこらの距離にありました。 脇道を入り、(港の方向なのですが)、ちょっと坂を下る。2本目の、それなりに賑やかな道。

 でもね、変なんです。雰囲気が。昼間なのに。

 見覚えがありました。ウィーンのある大通りで見かけた光景です。「立ちん坊」のお姉さんが、あちこちに立っているのです。昼間なのに。

 その時、思い出しました。あるガイドブックに書いてあった一行。「娼婦街である」。これだったか。 

 ちょっとすくみましたが、めげずに上を見上げました。きれいに修復されたガリバルディ通りと同じ街とは、それも目と鼻の先とはおもえないはげ落ち、汚れた壁。その高いところに、「シモン・ボッカネグラが生まれた」という小さなプレートが見えたのです。

 満足でした。写真を撮り、すぐにその場を去りました。「墓碑」にもゆきつきたかったので。

 「墓碑」の場所は心配なさそうでした。博物館の名前がありましたから。旧市街の端、城壁沿いの道を歩いてゆくと、ちょっと開けて、修道院がありました。その一角を利用した博物館です。

 「シモン・ボッカネグラの墓碑を見たいんですけれど」

 係員にたずねたら、「二階だよ」と教えてくれました。7ユーロ。他の展示物にはほとんど興味がなかったけれど、まあいいか。

 シモンは、横たわっていました。大理石でできたお棺のうえに、腕枕をして、左側を向いて。やはり大理石の顔立ちはさほどはっきりしていませんでしたが、 心なしか、無念にゆがんだ表情が浮かんでいるように感じられました。

 無念。

 「シモン」を作曲しているときのヴェルディにも、ひょっとしたらその想いがあったかもしれません。

 「シモン」は初演後24年をへて改訂されています。今上演されているのは、改訂版のほう。かなり大幅の改訂ですが、一番大きな変更は、初演版ではシモンの総督就任25周年記念祝典の場だった第1幕第2場が、議会の場面になったことです。音楽もほぼ全面的に書き換えられました。ここでのシモンは、争いをやめて和平を主張する、かっこいい政治家です。ヴェネツィアとの戦争を主張する議員たちに、シモンは言います。「ヴェネツィアもリグーリア(ジェノヴァ)もイタリアだ」と。この政治家としての面は、改訂版で付け加えられたものです。 

 けれど、14世紀当時、「ヴェネツィアもジェノヴァもイタリア」などという考えは、一般的だったのでしょうか。とてもそうは思えません。16世紀にチェーザレ・ボルジアやマキアヴェッリが空想した、ひとつの「イタリア」だって、結局は絵空事だったのですから。

 たぶんここには、改訂版当時のヴェルディ(とおそらく改訂版の台本作者のボーイト)たちの考えが投影されています。改訂版が生まれたのは1881年。その20年ほど前、イタリアは「統一」されました。けれど実情は、「統一」などまったくされていませんでした。それどころか今にいたる「南北問題」が口をあけ、政情はきびしかったようです。ヴェルディも、統一イタリアの混乱を憂える気持ちを手紙で吐露しています。シモンの訴えは、ヴェルディの訴えだったのではないか、と思えるのです。

 ヴェルディはジェノヴァが好きでした。避寒地としてたびたび訪れており、彼が住んだ建物の一部は今でも残ります。お気に入りの店だった1828年創業のカフェ「クライングーティ」では、彼が命名した甘いクロワッサン「ファルスタッフ」が名物になっています。ジャムが入った、ほんのり甘いクロワッサンです。

 ジェノヴァで、ヴェルディは自分の「シモン」と出逢い、自分のメッセージを託したのではないか。。。そう思えてならないのです。

  

  

 

 






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最終更新日  April 6, 2014 05:10:11 PM


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