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クルレンツィス&コパチンスカヤ&ムジカエテルナ、初来日公演の初日に行きました。
すごかった。前半のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。究極の弱音と強音(とくに沈黙のぎりぎり手前で聞こえてくる弱音のすごさ)、あきらかなビート感。自然の秩序に近づこうとするような音響世界。なにより向かい合って踊っているように演奏するクルレンツィスとコパチンスカヤのコミニュケーションがすごくて、さらに彼らの音楽に空気を流れる電流のように瞬時にでも自然に反応する、オーケストラとのコミュニケーションがすごくて、その先に見えたのは「彼らは音楽を介して全人類とコミュニケーションしているのだ」ということでした。オケは名手ぞろいですが、コパチンスカヤの、ピリオド奏法とちょっと似た独特な奏法はやはりきわだつ。アンコール3曲では、クラリネットとデュオして(ミヨー)、コンサートマスターとデュオして(リゲティ)、自分の「声」とデュオして(ホルヘ・サンチェス・チョン)いたコパチンスカヤ。なんという破格。なんというチャーム。 終演後のアフターパーティで、クル様の言葉で「人間同士のコミュニケーションはとても難しい。言葉でコミュニケーションするなんて無理。音楽はそれを可能にする」と出てきたので、演奏とつながってすごく納得しました。 後半「悲愴」。協奏曲では(たぶんコパチンスカヤとのバランスで?)座っていたオーケストラは、彼らの売り物でもある立奏。クルレンツィスとのコミュニケーションはよりストレートになり、彼の手足と化してひとつの生き物になる。下から風が吹き上げてくる崖っぷちを歩いているみたいなよるべなさにさらされる聴き手。音楽の前に自分が丸裸になる感覚。チャイコフスキーの孤独。全人類の孤独。クルレンツィスが、音楽は自分の「ミッション」だと言っていることがよくわかりました。「全身全霊」の捧げ方が違う。次元が違う。 総じて、昨夏ザルツブルクで聴いたベートーヴェンより今日の方が数段よかった。チャイコフスキーは彼にとって、モーツァルト、マーラーとならぶ3人の神様の一人だそうですが、ベートーヴェンは(少なくとも今のところ)違うんだろうな。 こういうのを聴いてしまうと、「つまらない演奏は聴けない。時間の無駄」と思ってしまうのが辛いところです。 聴衆の集中度も最高で、「悲愴」が終わった後、指揮者が落ち着くまでずっと拍手を控えていたのも最高でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
February 11, 2019 08:56:56 AM
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