My Catharaunum

2005/08/10(水)05:56

ある韓国人王公族の悲劇

事件事故評論(19)

先だって、景福宮で韓国の最後の王様になるはずだった李玖氏の葬儀が行われましたが、あちらにも国民をあげて王を弔う風習があるのか、二万人もの人が冥府へと送る大行列を作ったのだそうです。李玖氏は運良く畳の上で死ねましたが、戦時中に広島に勤務していた、ある朝鮮人の場合は、そうも行きませんでした。原爆病で三日三晩苦しんで死んだのです。 李グウ―グウは偶からにんべんを引いて金偏をくっつける―公を知っている方は、広島の原爆公園の外に建っている、朝鮮人被爆者の碑を読まれた方か、或いは日韓関係に相当お詳しい方でしょう。この李グウという方、当時日本陸軍の少佐でした。日本に国を取られなければ、彼も朝鮮の王族としてソウルかピョンヤンにいたのでしょうが、植民地の王族という立場は彼にはあまり幸せなものではありませんでした。この当時、朝鮮の王族は王公族という特別の立場にあり、満十八歳になった男子は日本の皇族と同じように任官されました。また、勅許さえあれば(これが身内相手の場合はそれほど時間もかからずに出る)日本の皇族や華族との通婚も可能でした。しかし、国を取られたという思いがありますので、朝鮮の王族たちは、日本の軍人を見ると「倭の賊徒めが、他人の国を泥棒しおって」という朝鮮語を陰で囁いたのだそうです。日本が植民地と資源とを求めて始めた戦争は、朝鮮半島と台湾の領有に留まらず、南方にまで拡大しついに米英と衝突してしまいます。物量にまさる米軍に押されて日本軍が各地で負けて行ったのは周知の事実です。伸びきった補線を突いて中国の共産ゲリラも日本の軍隊を脅かしていました。この状況で李グウ氏も広島にある第二総軍本部の教育参謀として赴任を命ぜられます。戦況の悪化に伴い、本土決戦に備えて軍を分散化する計画が進められていたのです。もちろん、アメリカもこの計画には気づいていました。 アメリカは、原爆投下で戦争を終わらせることが可能だと考えていました。東京に原爆を落したいとも考えていました。東京に原爆を落して皇居と貴族の館をひととおり破壊すれば日本は降伏するという考えは一部の日本研究者にあったのです。が、アメリカはまず西の軍事拠点である広島や小倉を狙いました。小倉には飛行場があったのですが、ここを潰せば日本の航空戦力は限りなくゼロに近づくのです。広島に爆弾が落されたのも、大規模な軍事拠点があったからです。投下時、地上では阿鼻叫喚の地獄図が展開されました。李グウ氏も、日本の戦争で大火傷を負い、衰弱して死んでいったのです。遺体はソウルに送られました。  軍務についていた朝鮮人の王公族の中で、李グウ公だけが被害にあったため、戦後彼は朝鮮人慰霊碑の建立にあたって担ぎ出される結果となりました。朝鮮人慰霊碑も原爆公園の中に建てよという運動はこれまで幾度となく繰り返されています。結局、この運動は一九九三年に実を結び、李グウ公遭難の碑は平和公園の中に移されますが、運動家がひんぱんに口にするのが、朝鮮の宮様も天皇陛下の為に戦って,原爆で死んだのだという趣旨の言葉です。私は、脳が挫折で汚染されているので、朝鮮人の苦しみなど理解はできませんが、ただ、他人の戦で傷つき倒れていった無数の朝鮮人たちのなかに、こういう大貴族や王族がいたのだということを記憶にとどめておいて欲しいのです。その感情にさえ根拠はないけれど。

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