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2009.05.24
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カテゴリ:その他
昨日ご紹介したフレンチビストロ Le Bistro du Sommelier で、美味しい Onglet Rossini (Bavette de boeuf ? la Rossini) 牛ハラミのステーキ・ロッシーニ風について書きました。

有名なオペラ作曲家でありながら大変な美食家でもあったロッシーニですが、彼がどれ程の美食家(要する食いしん坊)だったかというエピソードがあまりに面白すぎるのでご紹介します。

ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)はアドリア海に面した中部イタリアのペーザロに生まれました。
1792年2月29日、モーツァルトが没した85日後の事です。
少年期にそのたぐい稀なる才能を現し、没年まで活動し続けた(晩年は主に宗教音楽や室内音楽など)ので作曲家としての息は長いですが、オペラの創作は1810~29年の20年間にすぎなかったそうです。
ロッシーニと言うと、彼が23歳の時に作曲したオペラ・ブッファ(喜劇)「セビリャの理髪師」と大作「ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)」が有名です。
作曲家として、そして美食家、料理家としても知られるロッシーニ。
私はその生まれながらの美食家としての生い立ちにハートを鷲掴みにされましたよ。。。

ロッシーニは物心ついた頃からの美食家と言われ、7歳か8歳の時に近所の教会に忍び込んで「聖なるワイン」を飲み干し、幼い頃から豚肉屋に憧れを抱き夢は肉屋の主人になる事だったとか?!(一体どんな子や!?)

面白過ぎ!大好き、ロッシーニ!

幼い頃から母親譲りの美しい顔立ちと美声で天使の様な姿・・・と形容されながら、すでに幼少の頃から小太りで食べる事がとにかく大好きだったそう。

そんな食いしん坊の愛すべき彼ですが、音楽家としての生い立ちも負けず劣らず素晴らしいですよ。
少年時代、父の故郷であるルーゴという小さな町に滞在、そこで教会楽長ジュゼッペ・マレルビ神父にチェンバロの手ほどきを受け、ボーイ・ソプラノとして舞台で母と共演(母親のアンナはオペラ歌手)したロッシーニは、12歳にして優れた弦楽ソナタを6曲作曲して周囲を驚かせ、16歳でボローニャの音楽学校に入学すると、劇場で稽古ピアニストのアルバイトをしながら、作曲の腕を磨いていきました。
ロッシーニがオペラ作曲家となったのは1810年、18歳の時。
デビュー作はヴェネツィアのサン・モイゼ劇場から委嘱されたファルサ「結婚手形」。(フォルサとは一幕のオペラで、時には短いバレエが一緒に上演された)
20歳から21歳の時に作曲したオペラ・セリア(正歌劇)「タンクレーディ」とオペラ・ブッファ「アルジェのイタリア女」でオペラ作曲家としての地位を確立、「セビリャの理髪師」でヨーロッパ中にその名を轟かせる存在に。

「タンクレーディ」に関して面白いエピソードが残されています。(日系ビジネス「大人の音楽と美術 ロッシーニの料理」より)

ロッシーニは初演前々日にプリマ・ドンナから自分のアリアが気に入らないと言われると、宿屋で注文したコメ料理を待つたった4分間に新たなアリア「こんなに胸騒ぎがDi tanti palpiti」を作曲した、というのだ。初演直前に新曲を書いたことは研究者によって確認されているから、この逸話には多少の真実がある。では、4分間で調理できる料理とは何か。私は残りごはんをバターで揚げる「揚げリゾットRisotto al salto」ではないか、と想像する。生ゴメにスープを足して炊きあげる一般的なリゾットであれば、調理に15分を要するからである。



作曲家として溢れんばかりの才能に恵まれながら、美味しい物を追求する事に没頭した彼は、まさに真の美食家。
子供の頃のエピソードからして、筋金入りですよね!?

ロッシーニは28歳の若さで周囲も驚く程の大食漢だったそうで、グルノーブル出身のフランスの小説家スタンダールの書簡(1820年12月22日付)に「ロッシーニは毎日20枚ビフテキを平らげ、すごく太っている」と書かれているそうです。

活動の拠点をイタリアからパリに移したロッシーニはフランス語の歌劇を連作し、1829年、37歳でオペラ「ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)」を発表後、突然オペラとしての引退を表明、グルメ三昧の後半生を送ったとされています。

音楽史の謎の1つとされるロッシーニの突然の引退。

一体、何が彼をそうさせたのでしょうか。
実はこれにはいくつもの伏線があります。

彼はそもそも30歳になったら引退しようと考え、オーケストラのホルン奏者であった父にその胸の内を書き送っていました。

9作のオペラ作品を発表しオペラ作家として大成功していたナポリ時代の後、1822~23年にウィーン・パリ・ロンドンを訪れると、彼のオペラは大人気を博して破格の報酬(終身年金)でパリに迎えられると、彼は前言を翻して向こう10年に及ぶ新作契約をフランス政府との間に結んでしまいます。(1824年11月26日)

そして、パリでも大成功をおさめた彼に悲しい知らせが届きます。
1827年2月、イタリアに残した母が亡くなってしまったのです。
「ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)」発表の2年前の事でした。

死に目に会えなかったロッシーニは心に深い傷を負い、その後の「ギヨーム・テル」の作曲の際、「これが最後のオペラになるだろう」と出版社主トゥルプナに漏らしています。
フランス政府との新作契約を結んだ5年後の事です。(契約はあと5年残っている)

フランスで一体何があったのでしょうか?

文字制限を超えてしまったので、続きは後程・・・


参考資料、参考文献

フランス料理は進化する(宇田川悟 著)
美食のフランス(ジャン=ロベール・ピット 著)
日系ビジネス「大人の音楽と美術 ロッシーニの料理」
死因を辿る―大作曲家たちの精神病理のカルテ(五島 雄一郎 著)
Wikipedia


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最終更新日  2009.05.25 06:25:40
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