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2010.01.29
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カテゴリ:シンガポール生活
前回の記事 の続き・・・・前述のLieutenant Colonel William Farquhar(ウィリアム・ファーカー中佐)やHoo Ah Kay(フー・アー・カイ)、Chew Joo Chiat(チュー・ジョー・チャット)について少しだけ紹介していきましょう。

***

Lieutenant Colonel William Farquhar
(ウィリアム・ファーカー中佐)


カトンに最初にプランテーションを始めたのが、Colonel William Farquhar(ウィリアム・ファーカー中佐)であったことは、前回の記事の通りです。
彼は、長きに渡るマラッカ(Malacca)駐在の経験とリアウ・リンガ王国(インドネシアスマトラ島)についての豊富な知識、そしてマレー語が堪能だった事から、ラッフルズ卿より初代シンガポールの行政官に任命されシンガポールに赴任しました。
彼は着任早々シンガポールリバーの川岸の整備にとりかかるなど、交易拠点となるシンガポールの発展に尽力します。
しかし政策方針をめぐりラッフルズ卿とたびたび衝突し、1823年、とうとうラッフルズ卿によって解任されてしまいました。
彼の在任期間は僅かでしたが、シンガポールの都市化計画の基盤をつくり、河川や港の整備に貢献しました。
しかし彼の功績はこれだけではありません。
現在、Singapore National museum に展示されている「The William Farquhar collection of natural history drawings」という素晴らしい動植物標本のイラストを遺しています。
これらのイラストは、彼に任命された中国人の絵師(作者不明)によって描かれた、東南アジアに生息する珍しい動植物画のコレクションです。
マラッカとシンガポールで見つかった珍しい植物やほ乳類、鳥、爬虫類、魚や昆虫などが描かれた477枚もの標本画は、当時未知の動植物を知る手がかりとなった大変貴重なコレクションでした。
緻密に描かれた美しいイラストは、ボタニックガーデンラバーなら必見です。

実は偶然にも・・・私は彼のコレクションをいくつか既に目にしていました。
以前、このブログでも紹介しました・・・ こちらです!

彼は奥様がマラッカン(マレー人)だったこともあり(彼女との間に6人のお子さんがいました)、現地の生活習慣や文化についても理解が深く人種や階級を問わずとても信頼されていたそうです。
1823年の年末、彼が英国へ帰任する際は、彼の帰国を沢山の人が惜しみました。
彼が乗ったアレクサンダー号を見送る為に、シンガポールに住んでいるほとんどのヨーロッパ人とあらゆる階級のアジア人が海岸へ集まったそうです。
また、途中で寄港したペナンやマラッカでも同様に、多くの人々から熱烈な歓迎をうけたそうです。

今日では、ほとんどシンガポールで過ごす事のなかったラッフルズ卿の方が有名ですが、実は多くの人に愛されたフォーカー中佐の功績があったからこそ、今のシンガポールの礎があると言っても過言ではないのです。

彼の奥様がマレー人という事は、彼の子供達は正真正銘のペラナカン。
あまり長い間ではありませんでしたが、彼らがシンガポールで最後に過ごした場所というのが、ここカトンだったのです。

****

Hoo Ah Kay(フー・アーカイ)

広東省広州の都市、Whampoa(黄埔)で産まれたHoo Ah Kayは、1830年に父親と共にシンガポールにやってきました。
そして彼の父Hoo Keng TuckはBonham Street とBoat Quay のジャンクションの辺りに、肉や野菜、パンを扱う食材店を始めます。
商売は大成功し、幼い頃から店手伝っていた彼は、父の死後この店を継ぎ事業を拡大、Telok Ayer の辺りにWhampoa & Co.を設立し、商人として大成功をおさめます。
1840年頃のWhampoa & Co. での彼は、英国王立海軍との取引で船具商としての地位を確立しました。
彼の出身地であるWhampoa の名がついたこの会社はやがて彼自身を指す同意語となり、いつしか彼自身がWhampoa もしくは Whampoa Hoo Ah Kayと呼ばれる様になりました。

もしかしたら、Clarke Quay(クラーク・キー)にあるThe Coleman Bridge の側にある、Whampoa ice house というピンク色の建物をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
1954年に建てられたこの建物は、その名の通り、、ice-house=氷室です。
なんと、彼はボストンから氷を輸入し、このice-house(氷室)で氷の卸業も行っていました。
製氷技術のなかった時代でしたが、当時氷は大変高価だった為まだ当時のシンガポールでは、彼らのビジネスを成功に導く程の需要はなかったそうです。
しかし彼がベンチャービジネスとして始めた製パン業は(この時代、中華系の人でパン屋さんを営む人はまだいなかった)長く続いたそうです。(1980年代後半ごろまで)

これらのビジネスで大成功を納めた彼は、今日のシンガポールで良く見かける組合組織(▽△Association:中華系の人々が同郷や同業、近隣の人同士で作った組織。シンガポールに渡ってきた中国の人々はお互いに助け合う為にこの様な組織を作りました)でも大きな影響を持つ様になり、また英語も堪能だった為、遂にはアジア人で最初の立法評議会のメンバーになり、やがて中国人初の最高執行理事会の臨時メンバーにまでのぼりつめます。
19世紀のシンガポールにおいて、彼は中華系の人々の地位の確立と政治への進出に大きく貢献したといえます。
かつて彼が住んだ邸宅は Bendemeer House または House of Whampoaと呼ばれ、セラングーンロードのはずれにありました。
とても広大な敷地には豪華なバンガローやオレンジを始めとした様々なフルーツのプランテーションもありました。
中国庭園は広東の園芸家によって維持され岩石庭園、水族館(池?)、盆栽・・・とよく手入れされたtopiary(装飾刈り込み法の庭園)だったそうです。
また、熊やクジャク、睡蓮やオニバスが咲き誇る大きな池と鳥小屋・・・などのミニ動物園もあったそうです。
ワンポアガーデン、または広東語でNam-sang Fa-un といわれ、旧正月や中秋節などは地元の中国人達の憩いの場となっていたそうです。

この歴史的な建物は、残念ながら1964年のカラン一帯の住宅・産業プロジェクトにより買収されビル開発の為に取り壊されてしまい、今はもうありません。

National Archives で検索すると、当時の貴重な写真を見る事ができます。
彼の写真はもちろん、ワンポアハウスの写真もありますよ、必見です。
こちら、 Hoo Ah Kay

かつてワンポアハウスだった場所は、現在はこうなっています。。。 こちら
現在のワンポアハウスのリンク先に、小さな写真が載っています。
クリックすると現在の姿がよくわかります。

***

Chew Joo Chiat(チュー・ジョー・チャット)
Joo Chiat・・・カトンを訪れた事がある方なら、誰もが一度は耳にした事がある名前です。

現在のJoo Chiat の土地は区画整理の為、Marine Parade(マリンパレード)とGeylan(ゲイラン)の二つに分かれています。
この地名は、このエリアでココナッツプランテーションを行っていた タイクーン(海運王)Chew Joo Chiat からつけられました。
その歴史は、シンガポール南側の海岸線の海域で行われていた貿易活動に遡ることができます。
しばしばヨーロピアンやペラナカンの富裕層と結びつけられ事が多いのですが、実際のJoo Chiat は1920年から1930年代の裕福なカトンに比べると貧しい人々とその多文化が集まった地域と考えられています。

1900年代の初期、この辺りはアラブの富豪アルカフ・ファミリーが所有する土地の一部で、ココナッツプランテーションが行われていました。
交易で財を成し裕福だったChew 氏は、第1次世界大戦(1914-1918)後にガンビール(阿仙薬、ギャンビア)を耕作する為、大きな土地を購入します。(後にココナッツプランテーションにシフト)
かつてのGeylang(ゲイラン)トローリーのバスターミナルからJoo Chiat road を通りTelok Kurau(テロック・クラウ) とChangi Road(チャンギロード)へとのびるSiglap(シグラップ)が彼の所有地だったと言われています。
彼は、彼の所有地に住む人々の利便性の為、Joo Chat Road, Joo Chiat Place,Joo Chiat Lane,Joo Chiat Terrace などいくつもの通りを作り、そしてそれらを無償で惜しみなくで自治体に贈りました。
彼はまた、その土地をshophouseと住宅施設の為に細分化していきました。
1920年~1930年代にかけて、Straits Chinese (ストレイツ・チャイニーズ:海峡華人) の大集団がTelok Ayer(テロック・アヤー)流域からシンガポール東側沿岸へ移りshophouse や住宅を建設していきました。
こうして、Joo Chiat のエリアが形成されていったそうです。

彼に関する画像資料が殆ど見つかりませんでしたが、彼の子孫という方が運営されているブログで画像を見る事ができます。
こちら、Chew Joo Chiat の子孫のブログ My Chew Joo Chiat Story


カトン散策、まだまだ続きます。




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最終更新日  2010.01.30 04:12:08
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