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カテゴリ:大阪生活あれこれ
大阪ぶらり旅、堺妙国寺前編の続きです
妙国寺には様々な歴史的逸話が残っており、そのゆかりの品が残されています。 中でもひときわ目を引くものがありました。 堺事件で切腹した土佐藩士の遺髪と血染めの三方、切腹で使用した短刀です。 ここ、妙国寺は世に言う堺事件の土佐藩士達切腹の地でもあるのです。 1868年(慶応4年)2月15日、フランスより海軍船が堺の港にやってきて、フランスの水兵たちがボートで堺に上陸しました。 その時、フランス兵たちは街で女性を追い回したりして様々ないざこざが起こったそうです。 その時にこの辺りを警護していたのが土佐藩士達でした。 近隣住民の苦情を受け駆けつけた土佐藩士達は、フランス兵達に帰還するよう伝えましたが、言葉が通じず混乱が起きた為捕縛しようとしたところ、土佐藩の隊旗を奪った挙句逃亡しようとしました。 隊旗を奪われることは藩士にとっては屈辱的な事、、、土佐藩士側が咄嗟に発砲、双方銃撃戦に発展し22名の死傷者(死者は11名)が出てしまいます。 この事件は外交問題にまで発展し、フランス側は下手人斬刑、陳謝、賠償などの5か条から成る抗議文を日本側に提示、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだとされています。 土佐藩側は隊士29名が発砲を認めましたが、岩倉具視、三条実美らはフランス側の要求は無理難題が多く隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し処罰される人数を減らす様要求、フランス側と交渉の結果、隊長以下20名を処罰することになりました。 この時、隊長4名以下の16名はくじ引きで決められたそうです。 そして同年2月23日(3月16日)、妙国寺でこの20名の刑の執行されました。 切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し居並ぶ水兵達を大喝し、立ち会っていたフランス軍艦長アヴェル・デュプティ=トゥアールはその凄惨さに11名が切腹したところで切腹の中止を要請したそうです。 彼の日誌のよると、侍への同情もさることながら、戒めになるどころか逆に侍が英雄視されると感じ帰途における襲撃を恐れたからだそうです。 助命した9名はその後色々ありましたが、ただ一人を除いて明治政府の恩赦により帰郷したそうです。 その一人というのが、橋詰愛平有道 彼は相当悔しかったのでしょう、舌をかんで自殺を図ったのですが死に切れませんでした。 そして彼はその後堺に留まり、1877年(明治10年)に亡くなるまでなくなった11名の墓守を続けたそうです。 今でも子孫の方が近くにいらっしゃり、先日も手を合わせにいらっしゃったところですよ、、とのことでした。 切腹した11名のその後ですが・・・ 当初は妙国寺に埋葬の予定でしたが、伊達宗城の勅願寺(天皇・上皇の発願により建てられた寺院)に切腹したものを葬るのは不都合という意見により、妙国寺向かいの宝珠院に埋葬されたのだそうです。 妙国寺の前に立つ碑 通りを隔てて向かい側が宝珠院(写真左にちょろっと看板が見えますか) ボランティアガイドの方のお話を聞きながら遺髪と血染めの三方(お供え物とかを乗せる台。映画などで切腹をする際に短刀が乗せられているのを見たことがありますよね)を見ると、かなりインパクトがあります。(参考写真:三方) 血染めの三方の実物は妙国寺でご覧ください。 お庭を案内してもらった時に、あの辺りで切腹が行われたそうですよ、、という言葉に胸が詰まりました。 この妙国寺の大蘇鉄とお庭の改修は実は結構最近で、5年前に行われたそうです。 ↑明治時代はこんな感じだったんですね。 戦争で本堂などが焼けてしまったのに、よくぞ無事に生き延びたんですね、龍神様が宿っているからでしょうか。 このお庭は江戸時代より堺を代表する名所として有名でした。 しかし二度の戦火により消失してしまったので、もともとのお庭がどんなものだったのかはよくわかっていません。 5年前の東側庭園の調査の結果、築山を築かない蘇鉄の配植を中心とした平庭平泉回遊式枯山水庭園であることが判明し、調査と検証を重ね江戸時代後期の姿に復元されたのが現在のお庭です。 この時、蘇鉄の地中深くを掘り起こしたところ、立派なひげ根が現れ、同時に鉄屑も発見されたそうです(日こう上人が埋めさせたあの鉄屑でしょうか?!) この大蘇鉄のお庭には桜の木も植わっており、春は桜と蘇鉄の緑のコントラストが大変見事だそうです。 ↑写真左)本堂 写真中央)夜泣きの大蘇鉄 写真右)枝をいっぱいに伸ばす桜 掘り起こした際、この桜の木の根が蘇鉄の根を邪魔していることが判明し、桜には可哀想ですが、はみ出した桜の根を取り除く作業を行うなどの大改修が行われたそうです。 これ以上侵食しないよう地中には囲いがされているそうですよ。 桜の根は反対側に向かって根を張るようになるだろう、とのことでした。 そして、夜泣きの大蘇鉄の伝説、、、なんとも不思議な伝説ですが、あながち嘘ではなさそうです。 蘇鉄の幹は上へ向かって伸びていきます。 生育は大変遅く、1年に2センチほどだそうですから、これだけ伸びるのにどれだけの年月が必要か・・・樹齢1100年以上、、もっとかも?! そして、古くなった幹の中は空洞になるのだそうです。 そして樹液は赤茶色をしているんです。 枯れたて空洞になった幹が風により笛のようにか細く鳴り、雨水なども溜まるでしょうから、切った時は樹液と混ざり赤い液体が吹き出すのも頷けますよね。 いずれにせよ、この大蘇鉄はあの信長や秀吉、そして家康などの天下人と対面した生き証人なんですね。 これからも大切に守っていきたいですね。 帰りには宇賀徳正龍神様にお参りして帰りました。 お寺に神社?!と思ったあなたは鋭い!! 妙国寺は神仏混淆(神仏習合)なんです。 妙国寺について詳細はこちら この後は、ぶらっと歩いて日本に現存する江戸初期の町家 山口家住宅へ向かいます。続きは次回へ
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最終更新日
2015.07.15 11:13:50
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