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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

(二十一話~二十五話)

       (第二十一話)「言葉の表情」


 久しぶりに訪れる『K』であったが、気恥ずかしく思えてしまうのは
日本人特有の「遠慮」というものなのか。
 チーママがドアの奥で出迎えてくれたが、その視線が興味本位なもの
だと穿って考えるのも自分だけなのかと、呆れる加瀬であった。

 いつものBOX席でトイを待っていると、その前をジョイが他の客と腕を
組んで通りすぎていった。
 しかし、すぐにジョイだけが戻ってきて腰をかがめる様にして加瀬に
話しかける。

---加瀬さん、お久しぶりです。どこで浮気してたんですか?
---トイに相手にしてもらえなくてね、拗ねてただけだよ。
---そう言えば、あの子、最近贔屓のお客さん見つけたみたいですよ。
  盗られちゃっうわよ、ボヤボヤしてたら。

 その「贔屓の客」が肥田であることは知っていたし、当のジョイの昔
の客であったことも同様である。
 だから、加瀬はちょっと反撃してやりたくなった。

---盗られる・・・ねぇ。お互い気を付けようね。

 ジョイの眉が少し伸び上がったのを確認すると、加瀬は自分の大人げ
無さを知り、付け加えてフォローした。

---まぁ、君は何処に出してもお客はつくから心配ないか。
---加瀬さんなら、大満足なんだけどなー。

 流石に慣れたもんだと、感心する加瀬を置いて、ジョイは客のもとへ
戻って行った。

 そのタイミングを見計らったように、トイが席に着いた。
 以前、日本に一時帰国した際に土産で買って帰ってやったコロンの匂
いが、加瀬の記憶を呼び醒ませた。
 その白く透き通る頬に右手を沿えたくなったが思いとどまり、グラス
を取る手に変えた。

---キツゥーン。

 そう言ってトイは加瀬の胸奥深くに顔を埋めた。こういう場合、女の
方が正直でありつまらない意地などなく、素直に振舞えることに少しば
かり驚きを覚えたが、夜の仕事をする女なら、それぐらいのことは朝飯
前のことだと思い直すことにした。

---ほんとうに?

 そう切り替えして相手の言葉を待ったとしても、おそらく同じ思いを
するだけであり、無言でトイの長い黒髪を撫でた。そしてその間、肥田
との関係について問い正すか否か迷っていた。

---加瀬さん。お話があります

 そう言って身を起こし、加瀬の右手からグラスを取り水割りを作り直
そうとするトイを、疑念と期待の入り混じった思いで眺めていた。
 細くしなやかなトイの指が艶っぽく見えたのは、やはり自分もこの女
にSEXを求めているのだなと、加瀬を納得させるのである。

---もう、たぶんご存知だと思いますけど。。。

 そう切り出したトイであるが視線はテーブルに伏せられたままである。

---私、最近、加瀬さんもご存知の肥田さんに贔屓にしてもらっています。
  そして。。。

 そう言ってから言葉を切った。
---そして?

 その先を催促する加瀬に、初めて視線を合わせようとするトイであっ
たが真っ直ぐ受け止めるには、重いものを感じた。

---正直、困っているんです。私の面倒を見てあげるからって。。。
---返事はまだ?
---ええ、本当は即座にお断りするつもりだったんですけど。

 その先はトイに言わせることもなく察しはついた。
 つまり、(断りたかったのに、そう出来ずにいたのは貴方のせいよ)と
いうことであろう。

---断れよ。簡単じゃないか

 ぶっきらぼうに言い放った。
 しかし、それはトイには嬉しい言葉であった。そして自分の思いを乗せ
て加瀬に問う。

---加瀬さん、私を守ってくれますか?

(守る。。。)というのが何を意味しているのか、全て得心したわけでも
なかったが、加瀬には失われた時間を埋めようとする焦りが働いていた。

---俺は、お前を守る。だから、そんな話しは断るんだ、いいな?

(守る。。。)という言い回しが、加瀬には心地よく響いた。守るという
動作は普通、「外敵」や「悪いもの」からそれを「守る」という使い方を
するからである。
 肥田の手からトイを「守る」というのが加瀬の男気を刺激したのだ。
 再び加瀬の胸に抱かれるトイの肩を引き寄せ、自分の思いを検証する加
瀬であったが、しかし直ぐに黒い霧が加瀬の男気に立ちはだかる。

---(「守ってくれますか?」とは、また上手く男の気を引いたもんだな)

 どこからともなくそんな「囁き」が聞こえてくるのであった。

---(またお前は、そんなつまらない疑念でこの女を見るのか。何故信じて
   や  れないんだ?)

---(信じる?馬鹿かお前は。所詮、夜の商売の女の言う事を鵜呑みにする
   お前  は、とことんの馬鹿者だってことだ)

 しかし、今度その「黒い霧」に呑込まれてしまっては、二度とこの女を
傍に置いておくことは出来ないであろうと思い直し、トイの肩を抱く右手
に力を込める加瀬であった。

---コープッンカーッ。

 トイが加瀬の胸で小さく囁いた。
 加瀬はその「タイ語」を頭の中で日本語へと素早く変換させた。

---(ありがとう)

 しかし、その変換された日本語は無機質で「意思」を持たないもののよ
うに聞こえたので、その時のトイの表情を見て取りたいという思いが、僅
かに過ぎった。
 



                      (第二十一話  了)



           (第二十二回)「汚れ」


 夜の仕事をする女達の目覚めは遅い。昼過ぎに目を覚まし、まどろみ
ながらテレビを見て起き上がろうともせずベッドの中に居る。
 朝食や昼食は、夕方近くに摂ることになり自然と体にも力が入らず歩
く姿さえも気だるそうに見えてくる。
 一度そういう生活に慣れてしまうと、朝の決まった時間に起きて雨が
降ろうが、暑かろうが仕事に行かねばならない労働者として生きていく
ことなど出来なくなるのであろう。

 トイも大学に通うことが無ければ同じような生活パターンになってい
た。いつのまにか自分もいっぱしの「カラオケ女」となってしまったこ
とに目を逸らしたくなった。
 反面、それは「仕方ないんだ」と自らに言い聞かせては、考えること
を止めて、お気に入りのVCDに見入るのである。

 携帯電話が無言でベッド脇で踊っている。
 相手は肥田であった。トイは逡巡したが、電話に出た。

---トイ?何してるのかな、今夜Bookingいいね?
---ごめんなさい。今夜はお客さんがあります。
---そう。。。

 肥田は不信感を募らせた。今までその日のうちのBookingの申し出を
先客があるからといって、トイから断られたことがなかったので、直感
的に相手が、加瀬だと想像できたのだ。

---加瀬君かね?

 トイは正直に答えるべきかまた逡巡を迫られたが口を突いて出てくる
自分の言葉に、言った端から驚いていた。

---いいえ、違います。先週来てくださった初めてのお客さんです。
---ほぉー、そうかね。わかった。今日は諦めるとするよ。
---ごめんなさい。あのぉ。。。
---ん、何だい?
---怒ってますか?
---そんなことで怒るほど子供じゃないよ、私は。
---よかった。。。

(いつから、私ってこんな風になったの?。平気で嘘ついて。。。)
見えざる者からの冷たい声がしてきた。
(そうね。おまけに機嫌取るようなことまで言って、可愛っ子して)

 身に染みてしまった汚水。それは、石鹸やシャンプーでは洗い落とせ
ないもので、どんどん自分の体を侵食していくようで、怠惰な生活に言
訳するより、更にトイを痛めつけた。


---どうしたの?何か元気ないね

 何も知らない加瀬の笑顔が、またトイの胸を刺した。

---加瀬さん。私の顔見てください。そして、正直に言ってください。
---何を?俺、浮気なんかしてないよ?

 おどけて見せる加瀬であるが、どうやら真剣に懇願していることを察し
 て聞き直す。

---どうした?
---私、嫌な女の顔になってるでしょう?夜の水にまみれた醜い顔でしょ?

 返事に窮する加瀬を制するように更に畳み掛けた。

---私ね、平気で嘘つけるの。お金のためなら男の人の機嫌取ることもする。
  そんな女になってしまったの。
---俺に何か嘘ついているのか?
---違います。それだけは絶対無いです。。。加瀬さんにはそんなこと。。。

 トイは全てを言い終える前に嗚咽して、加瀬の胸に身を投げ出した。
 加瀬は問い詰めることも無く、トイの黒髪を撫で下ろしながら落ち着くの
を待った。
 加瀬の胸の奥でトイは泣き続けた。いつも気丈な女で加瀬には接してきた
ので、顔を上げるタイミングを失ったかのように、ずっとそのままでいた。

---肥田さんだね?

 加瀬は思考を巡らせ、トイが未だに肥田に断りを入れていないことを察し
 た。

---ズルイ女になりたいのかい?

 トイはゆっくり頭を左右に振った。

---それなら、ちゃんと言いなさい。それは私の為ではなくて、君が君自身を
  失わないためだよ。そうだろ?

 トイは嗚咽を堪えるようにして、寸分の間をこしらえて言った。

---はい。。。ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 トイは厚い加瀬の胸を借りて眠りにつきたくなった。

このまま、この人の胸でねむりたい---そういう女に戻りたかったのかもし
れなかった。

 加瀬は熱く込み上げてくるものを、グラスの氷の力を借りて冷やすよう
にグラスの中身を煽った。
 それは逆に熱く加瀬の胸を焦がした。そして不覚にもその女の肩を強く
抱き寄せ頬擦りをしたくなる感情を抑えきれずにいた。
 

 

                       (第二十二話 了)



             第二十三話「リング」


 加瀬は久しぶりにトイを連れ出して、焼肉を食べようと思った。
トイは豚肉が食べられず、野菜も摂らない。イサーン娘のスレンダー
な体が一層細くなるのを危ぶみ、無理やりにでも牛肉と焼いた野菜を
食べさせねばと、思うのであった。

 タニヤの焼肉店に向かう際、トイは「同業」の女達の様をとくとく
と眺めて、何かに得心している風であった。

---どうしたの?
---私の方が、スワイで。。。ミィー・クワーム・スック

 その零れるような笑顔を見ているだけで、加瀬も幸せになれた。
 行き交う男女は日本人とタイ人女ばかり。その多くは、原型を留め
ることのないくらいフヤケテ壊れた、男の顔ばかりだった。

 女の方は、確かに楽しそうに男の腕を取って、歩いているのだが、
男が、「あっち」を向いている時に、真顔じみた目が時折光る。
 
 トイは美味そうに肉を頬張って、ついでにであるが、野菜も口に運
んだ。
それを見る加瀬の目は、到底その女のTシャツの奥に潜む乳房を、荒々
しく愛撫する男のものではなかった。
 いや、本当はそれを深く望んでいるのであり、組み伏して男と女の
関係を貫きたいという欲望は、焼け焦げた肉片から滴り落ちる肉汁の
ようにギトギトとしたのである。
 それを何故に覆い隠さねばならないのか、窮屈な思いは続いた。

 肉を焼く炭の煙の奥で、トイの指に一瞬の煌きを見た。見慣れぬ指
輪を細い中指に通している。よく見えないが安い物ではないことだけ
は見てとれた。

---(肥田に貰ったものなのか。それを俺との同伴の時に。。。?)

 疑念と嫉妬が噴出す。仮にそうであっても、そういう物は外してく
るのが、ルールであろう。その軽率さに失望を覚えた。
 トイは頭の良い女である。加瀬の顔色とその場の雰囲気を直ぐに読
み肉を裏返す自らの指に光るのものに気が付いた。
 しかし、ほんのコンマ数秒の「間」を置いただけで、直ぐに肉片を
摘む箸を動かせた。
 瞬時の計算が働いたのであろう、要らぬ言い訳は余計に、この男の
高いプライドを挫く。それなら、開き直って装ておこう。それの方が
自然であり、万一にも問いただされたなら、その答えを用意していた。

---ラッチャダーピセーの夜店で買ったの。199バーツ。

 そう言って、あっけらかんと笑い飛ばすのだ。

 それにしても、自分の「失態」には呆れ帰る。よりによって何故、
加瀬との時間にそれを見咎められたのか、口に入れた牛肉片がゴム板
のように感じられた。

 案の定、加瀬の口を突いて出た言葉。

---いつ、肥田さんに断りを入れるんだい?

 トイ自身、とっくにそれは決心していたことであるので、少し気色
ばって言った。

---今、ここで肥田さんに電話してもいいです。

 加瀬はその勢いに圧され、一息置いて言った。

---いや、それは失礼になるから、一両日中でいいから、ちゃんと会っ
  て話しをしなさい。

 大人の物言いをしたつもりであるが、明らかにトイに位負けしてい
る自分が、面白くなかった。
 それと、事のほか、目の前の女のしたたかな「強さ」に新鮮な驚き
を感じていた。

(女は、修羅場に強い。)

 そう思いながら軽く肩を窄め、眉を引き上げてオドケテ見せた。

---美味しいですね、このお肉。

 また天真爛漫なその女の笑顔がそこにあった。

 しかし、そのトイの指に通されたリングは誰の力をもってしても外
せぬ物になるのであった。


                      (第二十三話 了)



         第二十四話 「父の入院」


 トイは、肥田に対して早く「断り」の返事をしなくてはいけなかった。
先日、加瀬と食事を共にした時にも釘を刺されている。
 タイミングを見計らっているというより、やはり切り出しにくかった
のである。加瀬が目の前に居てくれなかった「空白の時」に、肥田は随分
自分の支えになってくれたことを、トイは良く理解していた。そして貰っ
てしまった高価な指輪も、それを何といって返せばいいのか、正直気が滅
入るのであった。
 しかし、そうだからといって、肥田の「オファー」を受けるつもりは毛
頭無かった。
 そんなことで、幾日が経って、そろそろ決断せねばと思っていた矢先に
田舎の母から電話が入った。

---ポー(お父さん)が良くないのよ。入院する必要あるの。
---そんなに悪いの?
---一度、こっちに帰ってこれないかい?

 帰って来いという母の申し出は、それは父親の入院代が何とか成らない
かと、言っている風に聞こえた。
 父親は、寡黙で実直に農作業に従事して、自分たちを育てるために頑張
ってきてくれたことは知っている。しかし、例に漏れなく、深酒や喫煙の
習慣は、タイの深田舎の男たちのそれであった。それ故、六十の半ばより、
心臓を患い、何度か病院に走ることがあった。

 トイには歳の離れた姉がいて、すでに嫁いで子供ももうけていた。その
姉でさえも、トイが自らの卵巣腫瘍の手術代の75,000バーツをどこから手
に入れたのか何と無く察していたので、自分の息子が急遽入院するはめに
なった時、めったにかけてくることのない電話を寄越したのである。

---ねぇーお願い。何とかならない?トイが働く店のBossに頼んでみてよ。

 トイは、加瀬から融通してもらった手術代の出所を、仕事先の日本人ボ
スが貸してくれたということにしていたのである。

---もう、私だって頼めないわよ。まだ幾らも返してないっていうのに。

 そんな、姉との話を思い出しながら、この母親からの電話も同じことな
んだろうなと、思っていた。
 しかし、自分にとって父、母は絶対の存在であり、「何とか」できるも
のであればせずにはおかれなかった。
 そして、取り合えず様子を伺うことも含めて帰郷することにした。

 帰郷のことを、加瀬には店で告げた。

---そう、気を付けて帰っておいで。

 そう言って、加瀬はトイの手に五枚の千バーツ紙幣を握らせた。加瀬に
すれば、十三時間も片道かかるバスでの帰郷をやめ、飛行機を使いなさい
とでも言うような金額であった。
 加瀬はタイ人の両親への深い敬愛の念と、それがためにはあらゆる自己
犠牲も可能であることは知っていたが、日本人として理解し難いものだと
も思っていたのである。

 トイは加瀬に貰った金には手を付けず、腰や背中が痛み、到着した時に
は声も出ないほど疲れきるバスでの帰郷を選んだ。
 エカマイのバスセンターで長距離バスの出発を待っている時、肥田から
電話があった。

---何してるの、今?

 肥田は当然、事情を知らない。一通りのことを話すと、肥田は、頬を撫
でるような声で、トイを励ますのであった。

---タイヘンだね。大事にしてあげなきゃいけないよ。お父さんのこと。
---はい。でも。。。

 トイが言葉を選んでいる間に、すかさず肥田は言葉を繋ぐ。

---何も心配しないで。お金が必要なんだろ?ちゃんと相談に乗るから心配
  しないでお父さんの様子見てきてあげなさい。

 肥田の、その言葉の裏に隠されたものが何であるかは、当然分ってはいた
が、トイの心を和ませてくれたのは事実であり、「頼る者」が居ると言う安
堵感が湧いて出てきて、長旅の苦痛が少しでも和らぐと思った。



                     (第二十四話 了)




       第二十五回 「 もう一つの影 」


 父の病状は、医者の弁を借りるならば、取り敢えず一度入院して
精密検査を受ける必要があるということであった。
 今年に入ってから、農作業は一番上の兄が父に代わって従事する
ようになったと、母親が語るようにトイに言った。
 ソンクラーンに帰って以来であったが、やはりウボンの田舎はト
イにとっても故郷であって、とりとめない田園風景でさえも心を和
ませてくれた。

 トイは、母親が居ないのを見計らって、担当の医師に入院代や検査
費用でどれ位かかるのか、尋ねてみた。
 十五万バーツという、気の遠くなるような金額が電話の向こうから
提示され、返す声を失ったものの、表情まで読み取られなかったこと
が救いだと思った。
 その額からして、入院当初には少なくとも半額は「保証金」のよう
な形で事務局に収めねばならないであろう。
 この国にとって、医療費の高さは異常である。高額所得者にすれば
出来るだけ設備が一流で、詰めている医師が優秀である病院を選び、
その為に支払う金は、一種のステイタスのような部分があり、何の躊躇
もなく支払うのである。
 片や、貧困層の人間にしてみれば『30バーツ医療』という制度が
あるにせよ、本当の意味で病気を治すための治療を受けるには、やはり
同じだけの高額な医療費を払わねばならないのである。

 トイは母親に意味がないと知りつつも、尋ねた。

---お金、どうするつもりなの?

 母親は、トイが買ってやったテレビで、韓国ドラマに見入っていて
トイの問いかけに気が付かないでいる。
 いや、むしろそういうフリをしているのかもしれない。
 苛立って母親の視線の前で、もう一度問いかけた。

---どうするのよ、お金。

 母親の目にみるみるうちに涙が溜まり、深く刻まれた頬の皺に添って
流れ出した。

---どうしようもないよ。土地売るしか方法はないね。
---ピーチャイは知ってるの?
---あの子も、そうするしか無いって言ってる。

 兄にとって、いや田舎の家族にとって、田地を売ることは、どういう
ことなのか、トイにもわかっている。
 たちまち収入源を無くすことを意味する。

---売ってしまったら。。。

 トイもその後の言葉を口に出来無かった。
 玄関先で遊んでいる兄の子供の無邪気な笑顔は、この家が抱える問題
など、全く無関係なものに見えた。


 夕食後、兄と姉そして母親が入って、話し合いが始まった。
 しかし、結局いくら話し合おうが結論は同じであることは、皆知って
いるのであり、トイが新たな「提案」をしてくれることを、誰もが待っ
ているのだとトイは思った。

---トイ。。。どう思う?

 父親に代わって家長となっていた兄が、すがるような目でトイに聞く。

---どうって、解らない。そんな大金、どうにか出来るわけないし。

 黙って視線を膝頭に落す兄の肩が、ひどく貧弱に見えた。
 テレビドラマのセリフだけが、静寂の夜に響き流れ出した。

皆が言いたくて仕方ない言葉を、トイが代わって言うことしか、その場
の重い空気を拭い去る手立ては無かった。

---何とか。。。幾らかでも何とかしてみるから。。。

 兄の視線の方向は変わらなかったが、後ろに控えるように座っていた
兄嫁の頬に血色が戻ったように、トイは感じた。鉛のように重い空気が
その場に居る人々の肩から消え流れて行くのも肌で感じた。

 バンコクに帰るバスの中で、トイは眠ることなく考え続けた。加瀬に
相談したら、どう言うだろうか?
 肥田であれば、二の句もなく金は手に入るだろう、しかし。。。
 そのことばかり考え、気が付いた時には、バスはディンデンのゲート
を潜っていた。
 地方から都心への入り口。
 そこを抜けると、地方には無い世界があり、そこから先は別の人格を
持った人間に変わる。
 トイの瞼の裏に、二人の男の姿が交互に映っては消えた。

 しかし、その時のトイには予想もしなかった、もう一つの影が、やが
てトイの前に現れるのであった。
 その男が、トイの運命を変えたことを数年後、トイは知ることになる。


                   (第二十五話 了)
 
 







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