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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

(第三十一話~最終話)

          第三十一回「男と女」



 エレベーターの中には二人だけというのに、妙な息苦しさを
感じていた。お決まりのように、今の階を示すランプの動きに
視線を留め、息を殺して目的階への到着を待っている。
 トイも、胸の高鳴りが加瀬に気取られはしないかと呼吸をす
るのにも腹の底からせねばならぬのではないかと思っていた。

 ドアが開き、加瀬が先に絨毯張りの廊下に出た。振り向くこ
となくルームキーに示された番号の部屋へと向かう。
 ドアの前で振り向いて見て解ったのであるが、たったの数メ
ートルも歩いていないというのに、加瀬にとっては死刑囚が執
行場所へと連れていかれる時のように長く感じられた。

 部屋に入るとトイは、バックをテーブルに置き所在なげに窓
際まで行き、意味も無く窓の外を眺めていた。
 タニヤ辺りで拾ってきた女であれば、さっさとバスルームに
でも消えていくのであろうが、目の前の女は何者をも寄せ付け
ぬような固い意志を背中に貼り付けているようであった。
 加瀬はテーブル席に腰掛て煙草の箱を探る。はっきり言って
それしかその場の時間を進める手立てが無い様に感じたのだ。
 紫煙が細く天井に昇っていくのを眺めながら、加瀬はここ数
日の間、今日のことに関して熟考を重ねてきた事を反芻し始め
ていた。

---(もし、手を差しのべなかったら?)

 それは、トイを見捨てることであり、その先、その女がどの
ようになろうが一切関知しないことを意味している。いや、つ
まりは、あの肥田の腕の中でこの女は囲い込まれ、そして遂に
は肥田の性欲のはけ口としてこれからずっと体を開いていく女
になる、ということを意味している。

---(それだけは。。。絶対阻止せねば)

『お前はどうなんだ?それ位の金なら出してやれるはずだ』

 そう、それ位の金なら何とでもなる。しかしそれを出してし
まうと、自分はこれから先、この女を抱けないことになるので
はないか。勿論、トイは自分の誘いに応じてくるだろう。いや
それ位の覚悟は夜の仕事をしていれば、「知らない」「出来な
い」では通らないはずであり、むしろそれが自然な成り行きな
のかもしれない。
 兎に角、一度その「一線」さえ越してしまえば、後は男と女
としてごく普通に求め合うことは可能になるはずだ。
 加瀬にとって厄介なのは、その「一線」を越えることが出来
るのだろうかという不安が、ずっと付纏っていたことである。
 いっそのこと、妙な愛だとか恋だとかといったメンタルな物
の影響を受けない、強い性欲があればなどと思ってしまうので
ある。
 
---(首尾よく、トイをベッドに導き入れることに成功したと
   しよう。さて、それから。。。どうする?)

『何を馬鹿なことを言っている。ヤルだけじゃないか?』

---(いや、解っている。出来るかどうか。。。なんだ)

 加瀬はここ数年、商売女を買っていない。いや、取引先の客
を連れて、そういう場所に行かねばならないことは避けられな
ことであり、実際、金を払い買ってはみるが、イザとなるとど
うしても出来なくなっていたのだ。
 一種のトラウマともいうべきものなのか。自分の愛撫により
女としての歓喜の声を漏らす女。しかし、その秘部はその事で
濡れるこのなど有り得ないことを知っていたのだ。
 それなのに、事に及ぶ段になれば何故か濡れている。女の表
情にも待ち切れないとでも言うような「刹那」が漂う。しかし
この時、別の自分が囁くのである。

『全部、演技さ。金の為なら何だって出来るような女さ』

 加瀬のその事に関する思考回路は、いつもそこで先に進むこ
とを拒否し、Downするのであった。

 
 指先に煙草の熱を感じて、現に呼び戻された。灰皿にゆっく
りとそれを揉み消し、自らの息を整えそしてトイの背中にへと
歩み寄った。背中越しに両の手でその女の華奢な体を抱きしめ
た。

 トイは身じろぎもせず、加瀬にされるがままで目を瞑り息を
波打たせている。
 その女の発する雌匂が加瀬の男を刺激し、久しぶりにクラク
ラとするような性欲が湧いて出てくるのを感じていた。
 このまま全てを終わらせることが出来たなら、昨夜まで付き
纏っていたあの黒い塊のことなど笑い話にさえ出来るであろう。
 加瀬の鼻先にトイの白い耳が、愛撫されることを待っている
かのように徐々にピンク色に染めながら待ち受けていた。

 軽くそこに唇を押し当てた。女の体が一瞬硬直し、そして弓
のように弧を描く。加瀬の男幹は充分に硬さを得ていた。しか
しその先を急ぎたいという欲望と、もっとこの前戯に時間をか
けて、完璧なまでにその女を征服したいという老獪な雄として
の野望が交錯していた。

 トイの肩は小刻みに震え、息の調子が乱れ始めている。

---(いい女だ。。。欲しい、全てが欲しい)

 加瀬の腕が更に強くトイを抱きしめていた。
   

 
                     
                   (第三十一話 了)



           第三十二話「悲しい色」

 強い抱擁を少し緩め、こちらを向かせて唇を合わせようとすると
ほんの少し顎を下向き加減にしてそれから逃れようとするトイで
あったが、加瀬の意思の前に屈する形で、ついにそれを許した。

 商売女であっても体は許しても、唇はそうさせないという女が
居る。おそらく女の世界にあってはそれは特別な意味を持つものな
のであろう。

 加瀬はトイの下唇を何度も吸った。子供がやっと手に入れた玩具
のように愛しみ悦んだ。加瀬の舌が更なる野望を遂げるために女の
それを絡めて離さない。女の息が荒くなり、苦しそうに眉間の皺を
作る。トイは腰の力が抜けていくのを加瀬の胸に任せるようにして
辛うじて立っていたが、ついには抱かれたままベッドに倒れ伏した。

 加瀬は組み伏した女がトイであることを再度確かめるようにその
女の顔を見つめた。

(やっと手に入れた。。。)

そんな思いを隠すように、また唇を合わせ次なる愛撫へと進んで
いった。白い項から首筋へと加瀬の意思を纏った舌が蝶の舞の様に
滑っていく。いつもは見せたことのない女の横顔がそこにあった。
男の愛撫に体の芯が火照りはじめ、どんどんそれは変化していく。
 
 加瀬の所作は荒々しい鼓動を伴って、トイを一糸纏わぬ姿にさせ
た。タイ人としては格別に色白であるトイは、その体もまた男の強
い欲望を掻き立てるに十分なものであった。しかし最後の恥じらい
の証左のように、トイは両の手で胸と下腹部を隠している。
 加瀬は自らもトランクスを脱ぎ捨ていきり立つ男の物をトイの眼
前に晒し、いよいよ征服者として立ち塞がった。

 トイの胸に置かれた左の手を動かし、そこに天を向いて芽を吹く
桃色の蕾を探し当てた。それをゆっくりと口に含む。

---アッ・・・

 微かな反応が加瀬の男を刺激し、その蕾を舌先で弄んだ。ザラ
ついた加瀬の舌が濃密な刺激を与えているはずであり、その証に
蕾は堅さ増し、いよいよ自らの意思では制御できない雌の反応が
そこかしこに顔を出し始めた。

 その舌先の執拗な攻めの手を休めることなく、片や加瀬の右手
はトイの下腹部へと伸びていく。合わせた両の足に更に力を込めて
その侵攻を防ごうととするが、しなやかな加瀬の指はほんの隙間を
見つけて入り込み、どんどん侵食していった。

 トイは初めてであった。いや、SEXの経験はあったものの、かよ
うにも自分の体が変化し判断能力を奪われるようなSEXをされたこ
とが無かったのだ。

 それ故に、自らの女芯が熱く燃え上がり既に十分濡れそぼって
いることが分かっていたので、それを加瀬に気取られるのが恥ず
かしかったのだ。女というものはかようにも濡れ男の物を迎える
のかと、脳の全てを覆い尽くす白い霧の向こうで知った。

 女の肩がいよいよ浪打を激しくし、腰をくねらせ、その気もな
い抵抗をしてみたりするが、男は既に女の股を割って入り、次の
その時を待っていた。

 加瀬は自らの力を確かめていた。それは確かな硬度を保ちいつ
でも脳幹から発する指令を待ち受けている。恐れていたことは杞
憂であった。やはりこの女が欲しくって仕方なかったので、溜ま
りに溜まった男の欲望は、全ての不安を消し去り、威勢を保って
いたのだ。躊躇うことなく突き進んだ。

---ウッ・・・加瀬さん・・・
 
 その一瞬、雄の本性が爆発し雌を組み伏し征服した充実感が一
気に押し寄せた。その時点で女は男に従属されるものだと雄の本
性は満足感に浸る。

 しかし一方で目の眩むような快感が加瀬の男幹を襲い、たった
今得たばかりの「征服」のポジションを雌の側に譲ってしまうの
ではないかと思うほど不覚をとるところであった。

(この快感・・・)

 加瀬は思った。この女を二度と離したくない。何度もこの蜜の
味を味わっていたいと思った。
 しかし湧き出てくる強烈な快感は自制を振り切り、早さを増し
て一気に駆け上がろうとしていた。

 トイの細い指が加瀬の二の腕に絡み、爪を立てて絶頂が近いこ
とを訴えている。二つの生が獣を祖先としているように、そのシ
ルエットは激しく絡み蠢いた。

 そして遂に熱い白濁の樹汁が女の体奥深くに放たれた。
 トイの細い体が弓なりに撓り加瀬の腕には太く硬い血管が浮き
出ていた。

 紫煙が糸を引き天に昇っていく。加瀬は美味そうに煙草を吸っ
た。
 トイはシーツを体に纏い体を丸めて加瀬に背を向けている。
 加瀬がその愛しい背を眺めていると、それがいつしか小刻みに
揺れて細い嗚咽をを伴って、トイが泣いていことを感じとった。

---どうした?イヤだったのかい?

---・・・

 トイは無言で頭を左右に振るだけであった。そして、そのまま
シャワー室へと消えた。
 加瀬はトイが何に涙したのか知りたかった。いや、得体の知れ
ない不安感が加瀬を襲っていた。

 シャワーを終えると、手早に着替えたトイは元の顔を装って、
加瀬を促した。

---帰りましょう。。。
---泊まっていけないのか?
---明日の夕方のバスに乗らなきゃいけないんで支度しなきゃ。
---そうか、田舎に帰るんだね。
---はい。みんな私の帰りを待ってますから。

 その最後の言葉の裏には、みんながその女の持ち帰る金を待って
いるという冷たい現実が隠されていることを加瀬も知っていた。

---わかった。じゃぁ、これ

 加瀬はかなりの量の紙幣で太った白い大き目の封筒をトイに手渡
した。
しかしそのような金のやり取りは、商売女がことが終えたらする所
作と同じ様に写り、少し気分が萎える加瀬であった。

---ありがとうございます。きっと・・・返しますから。

 
 そう言って、それを受け取るとバッグに大切に仕舞っている。
だがその手が止まり、甲の上に一滴の光るものが落ちるのを加瀬は
見た。

---どうして泣くんだい?

 トイはやっとの思いで身を起こし、じっと加瀬を見つめていた。
 もう一滴、今度はゆっくりと床に落ちた。その瞳は今まで見たこ
とのない悲しい色をしていた。奥深くどこまでも悲しみを閉じ込め
いるような、そんな目をした女を加瀬は強く抱き寄せ熱く唇を吸った。


          ************************


---ごめんなさい佐藤さん。こんな時間に呼び出して。
---いや、いいんだけど。。。何?俺に頼みって。
---これ。。。加瀬さんに返しておいてもらえませんか?

 トイは、加瀬から渡された白い封筒をそのまま、佐藤に手渡した。

---何?これ。

---中身は聞かないで下さい。でも大切なものですから大事に預かって
  おいてください。そして、今日から一週間後、いや10日ぐらい経
  ってから渡して欲しいんです。それとこの手紙と。。。

 そう言って、トイは足早に闇の中に消えていった。

 そして佐藤がトイの姿を見るのは、それが最後であった。


                     (第三十二話 了)




          第三十三話「十日後の意味」


 日暮れ時のエカマイバスセンターに、トイは一人佇んでいた。
日頃見る景色と違っているのに驚いていた。それは数年前にここ
で下車して見た景色とは全く違うものであった。

 それから何度となく、ここから乗車しては田舎に帰ったことが
あるが、その時とも違う。
 全ての物に色が無く、表情は冷たい。もう、ここに戻ることは
ないだろうと思い、そのものを受け入れた。

 客も疎らな『ウボンラチャタニー』行きのバスは、静かに動き
出した。通り過ぎてゆくバンコクの景色。それは敗者を無常にも
弾き帰す意地悪き舞台設定。

 歪んだバスのシートに身を深く沈めて、トイは目を閉じた。
 イサーンの地から逃げ出してきたあの朝もこうして目的地への
到着を待った。今度の目的地は双六で言う『上がり』ではなく
重い罰を伴った『振り出し』のようなものだった。

 トイは、沈む心と寒い背中を自分一人で慰めねばならなかった。
 昨夜の加瀬との交わりは、唯一その手助けをしてくれそうに思
えたが、二度とかの男の甘い抱擁を受けられないと思うと、逆に
トイの身を切り裂くのであった。

 トイは全ての業を受け入れることを選んだ。加瀬が提供して呉
れた金を受け入れることは簡単であったが、その先を考えた。
 確かに、かの地で待つ薄汚い男の手から逃れ、自分を大事にし
てくれる男の元に逃げ込みたかった。そうすれば何も悲しい思い
もせずに済み、痛みも受けずこれから先のことは成り行きに任せ
てやって行けたであろう。

 しかし、加瀬と初めて肌を合わせ、女としての悦びを体の奥深
いところで感じた瞬間、それを虚構のものとしたくないという女
としての性(さが)に負けたのかもしれない。
 ズルイ女でいいのなら、金を受け取り、加瀬の愛も受け取れば
良かったのだ。それは誰も咎めはしないであろう。この先、加瀬
の思いに沿って自分も生きていけばいい。今までの自分の人生の
中で見てきた女達の全ては皆、その道を選んだに違いない。

---(仕方ないんだ。)

 その一言で一切の憂いを断ち切り、逞しく生きて行かねばなら
ないことを知っている。

 だが、トイは加瀬との蕩けんばかりの時の共有の後、渡された
金の包みが、思いがけず冷たいものに感じ、我慢しようにも溢れ
て出てくる涙を抑えきれず、無防備にそれを零すことで後ろめた
い何かから、自分を守ろうとしたのかもしれない。

 それを受け取った瞬間、目の前の愛しき男の笑顔が、薄っぺら
な仮面男となってしまうのがたまらなく悲しかった。
 しかし、この時トイの脳裏には加瀬がどんな思いでその金を渡
さなければならなかったのか推し量る余裕がなかったのが、二人
にとっては不幸なことであったのかもしれない。

 トイはラッチャダーのアパートの鍵をジョイに預け、全ての処
分を任せてきた。

---欲しいものあれば持っていってくれていいから、今月中に解
 約して欲しいの。敷金は受け取って使ってくれてもいいから。

 ジョイはトイから事の一部始終を聞かされ、本当にそれでいい
 のかと何度も問い詰めた。

--- 一度くらいは、自分の力でなんとかしたかったの。
---あのスックサンのミヤノイ(妾)になるってことでも?
---・・・。

 微笑を浮かべてはいるが、トイの目は深い沼の奥底から空を
眺めるような、絶望と悲しみに染まった生気無きものであった。

 トイは加瀬からの援助を断つことと、今後彼への連絡も断つ
ことをジョイに告げ、加瀬から問い合わせがあっても決して何
も話さないで欲しいと頼んで行ったのだ。

     ===================

--- トイ・・・一体どうしたっていうんだ?

 加瀬は仕事も手につかず、苛立っていた。電話をしても繋が
らない。最初は呼び出し音があったが、そのうちに、その電話
番号すらも使われていないことになっていたのだ。

---(俺は騙されたのか?)

 あの日、トイを抱いた後に見せた涙の意味が、まだその時の
加瀬には理解出来ずにいた。
 それどころか、深い疑念と憎しみの思いさえも湧き出てきて
自暴自棄な数日を送っていた。

 そんな日々が十日ほど経った後、佐藤はトイとの約束通りに
加瀬を訪ねた。

---これを、トイちゃんから預かってるんですけど。

 佐藤の手に、あの日自分がトイに渡した白い封筒があった。
 加瀬の思考回路が一瞬の瞬きの間にフル回転し、そして残酷
な答えを弾き出していた。

---(まさか、肥田に。。。)

 その時、佐藤はもちろん、加瀬も『十日後』の意味を探るこ
となど無かった。
 

                 (第三十三話 了)



        第三十四回「開かれた扉」



 佐藤はもう一つの封筒を加瀬に手渡した。

---これも一緒に、ということでした。

 佐藤は、その場の空気を読んだのだろう、そのまま目礼だけ
残して立ち去った。
 加瀬は、はやる気持ちを抑えきれず、封を乱暴に破いて一枚
の便箋を摘み出した。

『加瀬さんがこの手紙を読まれる頃、私はウボンに戻っている
 ことでしょう。黙って連絡を絶つことの理由をどうか問わず、
 私を許して下さい。
 トイにとって加瀬さんはかけがいの無い人であったことだけ
 は分かって下さい。短い間でしたけど、色々な幸せをトイに
 与えて下さったことに、大きな感謝の気持ちを伝えます。
 どうか、お元気で、そしてお仕事の成功を、遠くから祈って
 おります。

            キツゥーン      Toi  』

 ほんの数行だけのその便りを、何度も読み返した。きっと何
か手掛かりになるようなことが書かれているはずだと思った。
 しかし何度読み返しても、深まるのはチクチクと刺すような
胸の痛みだけであり、歳がいもなく零す涙の量が多くなるだけ
であった。

---(何故?どうしてなんだ、トイ・・・)

 加瀬には何もかも理解出来なかった。加瀬はその夜、あの日
の出来事の一部始終を頭の中で反芻してみた。それは、そのど
こかにこの謎めいた事の理解を助けるものがあるはずだと思っ
たのだ。しかし、ゲームのようには上手く探し出せなかった。
 ゲームならば、きっと探し出せるように仕掛けてあるもので
ある。
 つまりはこれはゲームなんかではなく、冷たい現実なのだと
悟るしかなかった。
 詰まる手を解決するために、加瀬は部下である佐藤に、恥を
偲んで電話をして尋ねた。

---夜分遅くに・・・すまんな、佐藤君
---いえ、とんでもないです。まだ寝る時間ではないので。
---さっそくだけど、あの二つの封筒を、君はいつトイから預
  かったんだい?

 佐藤は、正確な日付を思い出すために、少しの間を置いて
 答えた。

---ちょうど十日前の日曜日だったと思います。
---十日前?・・・どうして今まで・・・

 そういって加瀬の口調は少し荒くなる。

---それは、トイちゃんが、そうして欲しいと・・・
---そうなのか、すまん。

 少しの逡巡を終えて

---君、ジョイちゃんの携帯番号を私に教えてくれないか。

 佐藤からそれを聞いた加瀬は、間を置かずジョイに電話しよ
うとしたが、時計の針が、まだ彼女が仕事中であろうことを教
えていたので、その手を止めた。

---(どうして十日後なんだ?)

 その謎はジョイがあっさりと、そして冷酷に解いてくれた。

---彼女は、肥田さんの元に走ったんだね?
---違うわっ!それだけは違う。

 ジョイは従姉妹という関係の前に、女としてトイを庇った。

---加瀬さんは知らないの?肥田さんは来月、日本に本帰国する
  ことに決まったのよ。だから、そんなはずはないの。
---じゃ、何故?・・・なんで、黙って俺の前から消えるんだっ!

 ジョイは電話の向こうで押し黙っていたが、やがて意を決し
たように語り始めた。

---あの子には口止めされていたけど、貴方だけには分かってや
  って欲しいから話すわ。

 加瀬は一部始終を知った。スックサンという男の事。
 それが故に、十日後という「間」の意味。
 全ての謎が解けた。 


 十日の間、加瀬が時を潰している間に、トイはその男の物に成
っていたということである。トイは、理由を知った加瀬なら必ず
ウボンまで自分を連れ戻しに来るだろうと考えたのだろう。
その封じ手に『十日後』という、もっとも冷酷な手段を取ったの
だ。

---しかし、なぜ・・・その男を選んだというんだ?
---それは、加瀬さんが考えてあげて。それがトイにとって唯一
  の救いになるでしょうからね。

 しかし、加瀬にとって、たった今突きつけられた現実の重さに
抗しきれず、それを突き詰めようとする気力など湧いてくること
な無かった。
 重い現実---その女が、もはや自分の元には帰らない女になっ
 てしまったということ。見たことも無い薄汚い男の手で、身も
 心も汚された女になってしまったということ。

---普通、じゃないわっ。普通なら、こんなこと有り得ない、絶対。

 ジョイはそう言い残して電話を切った。

 たった今、数分の間に開かれた謎の扉は、加瀬を暗く深い闇の
中へ吸い込み、出口の無い闇の世界へと突き落とした。
堕ちていく我身は、もがき抵抗することも忘れいつ見えるとも知
れない闇の底を探っているだけであった。

 しかし絶望の淵で一条の光を求め、心は叫ぶ。

---嘘だろっ!? お願いだっ、トイ、そう言ってくれっ!!

      ********************


 あれから幾日、いや何ヶ月が過ぎたであろうか。

 若い男ならともかく、円熟した男は、心深くに癒えることのな
いであろう傷を抱えていても、それを一つの人生の機微として額
の皺に刻み込んで生きていくものだと、加瀬は自らに言い聞かせ
ていた。

 バンコクの地にも雨が消える季節が巡ってきて、街の所々に飾
られた年の瀬を示すイルミネーションが、行き交う人々の心をノ
スタルジックにしている風であり、家路を急ぐ彼らのシルエット
を車窓の窓から眺めている加瀬が居る。

 数日前、携帯の待ち受けメロディーもクリスマスソングに変え
た。

街に流れるそれで無いことは携帯がポケットの奥で踊っているこ
とで判った。

---もしもし?
---・・・
---ハロー?
---加瀬さん・・・ですね?

 聞き覚えのあるその声は、ジョイのものであった。

---あのね、トイがね・・・トイが・・・。
 

                    (第三十四話 了)



          最終話 「微笑み」


 薄っぺらなマットレス一枚だけが敷かれたアパートの部屋。
 テレビも冷蔵庫も、食器の一つもない。
 陽が落ち開け放たれた窓の向こうから、クリスマスソングらしき
音色が聞こえてくる。

 トイは、天井を仰ぎ見ながら思った。

---そっか・・もう少しで『X’mas』なんだね。関係ないけど・・・

 一ヶ月前にウボンから戻り、取り敢えずスティサンで安アパート
を探した。家賃2500バーツ。敷金は家主に頼み込んでしばらく
待ってもらうことにした。今度こそ本当に自分一人でのスタートで
あった。

 扇風機もないその部屋は、夜になっても焼きついたトタン屋根から
熱は失せることもなく、意識が宙に浮くほど暑かった。
 目を閉じ、昼間の仕事の疲労を唯一の手助けに眠るしかなかった。

 そうして眠りの淵に入る瞬間に、いつも瞼の裏に浮かび出て来て、
優しい抱擁をしてくれる男がいる。トイにとっては一日の終わりの
唯一の安らぎの瞬間だった。
 もう二度と現の世界で得られないであろう、その男の肌の温もりは
決して忘れることは出来なかった。

それを毎日手に入れることが出来たかもしれないのを、自らの手で
捨て去り、180度真逆の薄汚い男の手に、自分を投げ出した。
 数ヶ月前のことであるが、一秒たりとも映像のコマを落とすことな
なく甦る。

 トイはその度に後悔の念と戦わねばならなかった。

---(なぜ? お金を受け取ったからって、加瀬さんの気持ちは変わら
  なかったはずよ?どうして、受け取らなかったの?)

 その問いをもう何度自分に投げつけたことか。
 しかし、結果としてあの時は、加瀬の手から逃げ出し、ウボンで待
つ男のもとに走った。
 実際はそうでなくても、加瀬がそう思っても仕方ないであろう。
 もはや、一人の女としてあの男の元には戻れない。
 どんなに批難されようが、罵声を浴びようが構わない。現実として
加瀬を裏切ったことには変わりないのであるから。

 それでも、もし許されるならば一つだけ釈明の場を与えてもらいた
かった。

---(私の心も身体も、あの夜の、あの時のままです・・・加瀬さん)

 あの時救おうとした父の命は、トイがウボンに戻ったその日の夜に
父親自らの手で絶たれたのだった。
 母親宛に残された数行の手紙には、自分の土地を売って金を作り、
病院代と葬儀代に充てるようにということだけであったが、最後の一
行はトイ宛に残されていた。

  『トイ・・・お前の将来を、親の私が壊すのは悲しいことだ。
   どうせお父さんは先に死ぬのだから、これでいいんだよ。
   どうか、幸せになっておくれ。
                    可愛い私の娘 Toi』

 寡黙でいつも家の事は母親に任せ、少しの酒と煙草だけを愛した父
親。それでも最後は、最愛の娘を自分の為に人身御供にすることだけ
は、命を引き換えに拒絶した。
 『イサーン』という土地では、それさえも許される所であったが、
男親として出来る精一杯の愛を呉れたのだろう。

 その日を境に数ヶ月、激しい悲しみと、父親への深い思慕が続い
たのだった。

 やっと、前を見て歩けるようになり、今度も黙って『イサーン』を
出て来た。数年前のような気負いは無かった。

 何とか大学だけは卒業していたのが救いで、ラップラオ近くの中華
系の薬品商社に就職することが出来た。それでも最初のサラリーは以
前のカラオケ勤めからすれば馬鹿馬鹿しくなるような額であったが、
加瀬がよく自分に望んでいた『昼間のちゃんとした仕事』に就くこと
で新しい出発を飾りたかったのかもしれない。

 そしてその生活に慣れた頃、トイはジョイに事の一部始終を伝えた。
トイの父親が死んだことは親戚から伝え聞いていたが、それが自殺で
あったことまでは知らなかったジョイである。


---そうだったの・・・で、加瀬さんには話したのね?
---・・・ 出来っこないでしょ、そんなこと。
---どうしてよ、ちゃんと話せばあの人なら分かってくれるはずよ。
---いいの。あの時そういう道を選んだのは私だから。

 相変わらずの頑固さに閉口するジョイであったが、根気よく諭す。

---好きなんでしょ?今でも。忘れられないくせに。
---・・・
---でも、どうして、あの時加瀬さんの力を借りなかったの?
  私だって少しは分かる気がするけど、あのスックサンに比べ
  たら・・・どうしてか、未だにわからない。

 語気の荒いジョイに比べ、トイは全てを抑え込んだかのような静か
な口調で答えた。

---ジョイ?本当に好きな人に抱かれた後に、お金を手渡されたら
  どんな思いがする? 悲しいでしょ・・・違う?

直向なトイの、加瀬への想いに力ずくで納得させられたようであった。
 しかし従姉妹として、いや自分も『イサーン』の女であるから、ど
うしてもトイへの誤解だけは解いてやりたかった。

 そして、トイには黙って加瀬に連絡を取ったのだった。


  *******************

 

---・・・

 加瀬の口から言葉は出てこなかった。

---あの子今、スティサンのアパートに居るの。行ってあげて欲しいの。

 ジョイから聞いたトイの連絡先を手帳に書き留めた。しかし、即座に
それを書いた上から殴り消した。

---あの子が・・・私に連絡してこないのは、そうする事で自分を保と
  うとしてるんだと思う。だから・・・私も彼女に連絡を取るのは止
  めようと思う。
---加瀬さん・・・

 二人揃って、どうしてそこまで頑なのか、呆れ果てたジョイであった
が、何故だかそういう二人が羨ましく思えた。

 トイが何故、自分の援助を断ってまでも忌まわしい道を選んだのかと
いう問い掛けは、加瀬自身もここ数ヶ月、ずっと考え続けてきたことで
あった。トイへの疑念は、今日のジョイからの電話で晴れたかもしれな
いが、依然としてその真の「疑念」は明かされぬままであったのだ。

ともすれば、日本人の感覚すれば、タイ人の「タカリ」体質は理解に苦
しむことがしばしばであるが、たかられる側もそれを半ば当たり前のよう
に捉えていて、さほど深刻そうには見えない。
 自分がトイに、以前言ったことを思い出す。

---君のことは面倒見ても、君の親兄弟、親戚は俺には無関係だ。

 その時、トイは軽い相槌を得も知れぬ微笑と一緒に自分に返してきた。
今、思うことは、彼女はその時、所詮日本人には解らない世界だと考え
ていたのだろう。

 極貧に喘ぐ、『イサーン』という土地で生まれ育ち、毎日の食い扶持
に事欠く生活が当たり前のそこでは、子供達は早く大人になり、親の手
助けをし、家計を支えることだけを身をもって教えられ、特に末っ子や
娘などは、邪険に扱われた風で、それを骨身に染みて知っている彼らに
とって親孝行の実践は何よりの自分への喜びの証なのである。

---お前は末っ子なのに親孝行だね・・・

 だとか

---器量良しの娘を持って鼻が高いよ・・・

 などといった、食べ盛りの頃、聞いたことのないような母親の声音を
聞くことで、「自分」という存在を確かめることが出来るのではないか。

さむなくば、「理解」を超えた事がそこには多すぎる。
 しかし、そうして孝行の出来るものはまだ良しとせねばならないので
あって、どんなに頑張っても、どんなに辛い目をしても報われず、あい
変わらない境遇に、たった一言、「仕方ないね」でやり過ごすしかない
者の方が多いのかもしれない。

 そこには涙も枯れ、怒りや憤りの感情も湧くこともなく、「微笑み」
を携えて、己の業に身を任せるタイ人の姿がある。

『イサーン』・・・バンコクの繁栄からすれば、不毛の地かもしれない
がそこを出て、この地にやって来た者には、戻りたくない場所なのか、
それとも、それでも『故郷』なのか・・・

 あと数日でこの国のどの土地にも『X'mas』がやって来る。

 そう・・・分け隔てなく、やって来るのだ。

---ふっ・・・クリスマスか。

 眩いばかりのイルミネーションの光の陰で、年端も行かない子供が、
信号待ちの車のウインドウガラスに鼻頭を押し付けて、違う世界の者に
物乞いをしている。
 
 加瀬はそれを注視出来ずに、目を伏せ、そして口端に強張った
「微笑み」の幾何線を引いて、呟いた。

---仕方ないんだ・・・よな。

                          (完)



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