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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

第一章(一話~五話)

第一章  「その男」

 (第一話)

 仏暦2548年 三月三日、羽田はドンムアン空港に居た。

 来年の秋には新空港が開港するというタイ政府の発表があるが、それ
を本当に信じている者は少ない。
 羽田は人混みの喧騒から逃れるように、北側出口で待っていた。
 外の気温はおそらく三十度を越えているであろう。煙草を吸いたいという
欲望すらも削ぐような熱気が、人々の皮膚にへばりつく。


各航空会社の便の運行状況を示すモニター画面によれば、その飛行機
は既に到着済みとなっていた。
 大阪からの飛行機であるので、「KANSAI」と書かれたビニール袋を抱
えた者が出て来れば目安となるはずである。
 社用の客なら、部下の井川に迎えにやるのが常であったが、その人物
だけはいつも羽田自身が迎えに出ていた。

---(もう何年の付き合いだろう・・・)

 そんなことをぼんやりと考えていると、聞き慣れたダミ声が、人混みを掻き
分けるように飛んできた。
 視線を戻し探し求めるが、その人影はまだ見えない。

---羽田ちゃん、着いたでぇー。

 周りのことを気にする欠片もないその無遠慮さにはもう慣れていたが、見
知らぬ者は皆、その声の主の姿を探している風であった。
 旅行者の山の中から、その男が満面に笑顔をたたえて、手を振りながら
羽田の元にやってくるのが見えた。
 いつも通り、皮の黒鞄を肩から斜め掛けにして、片方の手でしっかりそれ
を守るように抱えている。
 男の頭は既に綺麗に禿げ上がっており、襟元に少し申し訳なさそうに残
っている毛を後ろ撫でしながら、こちらに向かって歩いてくる。

---(相変わらずだな、おやっさん)

 羽田は俯き加減で苦笑いを隠した。
 男の名は鈴木靖男。
 大阪で鉄工所を経営する、所謂、「中小企業の親父(オヤジ)」である。
禿げた頭は照り輝いているが、屈強な顔に刻まれた皺の多さはその男の人
生を物語っていた。

 昨年、タイに金型製造工場を出し、その視察の為に、毎月タイにやって
来るのであった。大阪の彼の会社は、見栄えは零細企業の体であるが一
歩工場内に入ると、最新のNC制御の工作機械を何台も導入し、その設
備投資だけでも十億円は下らないであろうと見受けられた。
 羽田がその最初のNC工作機械を、鈴木の会社に売り込んだのであった。
つまり、今の関係はその時から続いているものであった。

 年齢はおそらく還暦前であったろうか、詳しくは覚えていない。というのもそ
の男の仕事に対する執念と商売人としての魂は、その男から年齢を想像さ
せないでいる凄みがあったのだ。
羽田はこの男に出会って、自分の人生観が変わったと信じている。

 「視察」というのは、昨年工場が立ち上がった年だけのことで、本当のとこ
ろは違う。
 本人の弁を借りて言えば---命の洗濯、ということである。
 つまり女遊びのために毎月やって来るのだ。
 あの黒鞄の中に今回は幾らの金を忍ばせてきたのだろう。この男の「遊び」
に使う金の量は昔からよく知っていた。北新地で一晩に五百万使ったと豪語
していたのを思い出す。
 そのくせ、鉛筆一本買うのも自分のハンコ無しには買わせないという徹底ぶ
りで、伝統的なワンマン社長であった。

 先月、バンコクを後にする時、鈴木が自慢げに羽田に言っていた。

---今回は、よぉー銭、使こたなぁー。一週間で三百万のぉーなった。

 日本の飲み屋で使う三百万円とはワケが違う。タイで使うその銭量がどれ
だけのものかは、ここで飲んで遊んだ者にしかわからないだろう。
 しかし、バンコクでその男の所業を目にする日本人の評価は厳しい。

---馬鹿な日本人・・・同じ人種と見られるのも恥ずかしい。

 羽田はそうは思わない。
醜いまでに出張った腹周りや、脂ぎった顔、そして既
に加齢匂を漂わせるその男の外見からは、確かに「金に物を言わせるエロ親父」
と称されても仕方ないであろう。
しかし、この男・・・金を使わずとも女を誑し込むものを持っているのだ。

---金を使って何が悪い。自分で稼いだ金じゃないか。

 そんな捨て台詞を吐いてバンコクの夜の街を闊歩する種の日本人とは違う。
 ただ、その男が為す「現実」を目の当たりにしてきた羽田にとっては、人にそれを
信じ込ませることなどは無意味なことだと思っているし、ある意味稀有な存在であ
るその男の横で、人生の奇跡を眺めている方が余程楽しいことだと思うのであった。

---さぁー、今回はどないな遊びするかいのぉー、羽田ちゃん。

 嬉しそうなその男の顔を見ているだけで、羽田も幸せな気分になった。
 鈴木を自らの社用車に乗せると、ほどなく運転手は行き先を確かめることもなく
車を出した。

---運ちゃんも心得たもんやなぁー。

 鈴木がしたり顔で一人ごちていた。
 その柔和な顔は、彼が工場内で仕事をする時には決して見ることが出来ないも
のであり、彼の仕事に対する厳しさを身をもって知らされていたので、自分の企業
人としての基礎は、この男から学んだと思っていた。

---おやっさん、取り敢えずホテルでシャワーでも浴びて、それからの「出撃」って
  ことでどうでしょう。
---おうっ、そやな。そうしよ、そうしよ。

 この男の関西弁は、どこに行っても変わらない。取引先の日本を代表する自動
車メーカーの購買部長に会うときも、新地のママを口説く時も、そしてここタイの飲
み屋の女を相手にする時も,すべて同じ。
 広島の中学を卒業し、裸一貫で上阪して今の会社を持つまでに、数十年の苦
労の時を重ねてきた「たたき上げ」であった。だから、時には広島訛りも混じる。
 その男に、羽田は仕事と女を教えてもらったのだ。

 車は、首都高速を『スクンビッツ]で降り、SOI22の『クインズパークホテル』を目指
して走る。いつもそこが定宿だった。タイ国鉄の踏み切りを渡り、スクンビッツ通りに入
った。

 陽の九割がたが姿を消そうとしている時の幕色は、瑠璃橙色・・・。

 羽田は車窓からその色の空を仰ぎ見ながら、 道端の屋台で焼くガイヤーンの煙
と、その後ろにそそり建つ摩天楼とのミスマッチこそが、ここがタイだと実証しているよう
に、今更ながらに思った。

 車は、Soi22の角を曲がり、ホテルのエントランスへと滑り込んだ。

                                   (第一話 了)

(第二話)

 さてこれから、という時間になって、鈴木は仕事の話を持ち出した。
この男の悪い癖というのか、時間や人の都合など考えていない性格には、時々、羽田
も閉口することがあった。

---羽田ちゃん、「こっち」に入れる新しい機械やけどな・・・
---はぁ、先月注文頂いた、アレですか?
---あれ、ナンボやったかな。
---確か、機械本体だけで九千万だったと思いますが。注文書、FAXさせましょうか?
---いや、ええんや。で・・・羽田ちゃん、ナンボにしてくれるんや。
---えっ・・・?

 既に、正式の注文書を手にしている物であり、当然ながらネゴも終わっているはずで
あった。

---鈴木社長、勘弁してくださいよっ。それはないっすよ。

 当然、仕事の話の折は、「おやっさん」とは呼ばず、「鈴木社長」であった。

---もうちょっと、頑張りぃーな。
---いや、もう上に稟議書も上げて全てスルーした物件です。もう今更無理ですよ。
---そうか・・・無理か。

 鈴木は不服そうに口を尖らせ、煙草を咥えた。

---分かった。ほな、こうしよ。機械の「据付費」、無償にしときぃーな。
---そんな、アホな・・・ 。    (まさか・・・?)
 
---羽田ちゃん、ナメたらあかんぜよ。去年立ち上げの時、同じ機種をアンタとこから買う
  たわな。
---はい、確かに。
---あの時の見積もりの「据付費」、五十万やったけど、今回のは、百万になっとる、なん
 でやねん?条件に変わりはないで、まさか為替レートがどうのこうのとか言うんはやめと
 きや・・・ん?羽田ちゃん。

 (やはりこの男には勝てない)----そう思い知らされた。

 長年の付き合いで、注文書が入ってからでも平気でネゴをし直すという、この男の仕事
の「流儀」を思い知らされていたので、こっそりと、「据付費」を上乗せしておいたのである。
 それが、バレたのだ。

---すみません、社長。・・・前回通りの五十で、勘弁して下さい。

 そう言わざるを得なかった。鈴木に対しては、あと五十万円のネゴ代を残しておきたかっ
たが故の幼稚な細工であり、悪くすれば前回より五十万安く売らねばならないという最悪
の事態もあり得る。
 今までの経験で、目先の金額にはかなりシビアであるが、その割には過去の経緯とかは
意外と忘れていることが多かったので、バレルことはないと踏んでいたのである。


---そうか。まぁー、アンタとの仲やしな、今回はマケとくわっ。

 目の前の鈴木という男は、何事も無かったように、一瞬鋭く研ぎ澄まされた眼光を鞘に
収め、元の「おやっさん」に戻っていた。
 羽田が、空恐ろしく感じた理由は、「今の今」になってこのネタを持ち出すことであった。
 おそらくは、「見積書」を出した時から、判っていたはずである。
 そういう意味では、総額で百万円の値引きをさせられても「イヤ」とは言えない立場に追
い込まれていたわけで、大きな「借り」を作ってしまったと思った。
委細全ての仕事の「流儀」がこんな風であり、普通の営業マンなら、とっくに根をあげてい
るであろう。事実、鈴木の会社に物を売り込みに来て、笑顔で帰った者はなかった。

 しかし、その峠を越してこの経営者と付き合うことになると、相手への便宜もちゃんと図っ
てくれる男だと分かった。
 確かに、価格には一円の単位までシビアであったが、機械の性能や新機能に対しては、
その価値を認め、高くとも買ってくれた。

---ええか、銭は生かして使こうてこそ、銭や。死に金は一円たりとも使こうたらアカン。

 これがこの男の「銭哲学」であった。
 そして、自らの工場で作り上げた金型については、「正当な評価」をしない者には売らな
いという考え方。
 競争社会の中で、「価格」の占める要素は大きい。それをこの経営者は、製品の品質
と納期を絶対に守るという方針を貫くことで、どんな大きな取引先であろうとも、見積もり
価格を下げることはしなかった。それでも、仕事が舞込んでくる。どこも高くて手が出ない
機械をいち早く取り入れ、時間で勝負した。それによる、「信頼」は木で鼻を括ったような
購買の担当者ですら、自分の元に日参させていたのだ。

---ええもんを、先方さんが欲しい時に納める。これがサービスや。値段を下げるサービス
 は誰でも出来るんや。

 ちょっと、聞けば空々しい「理想論」にしか聞こえないような台詞も、この社長が言えば
本当にそうなのかもしれないと思えてきてしまう。

---せやけどな、それをやり通そうと思たら、寝んと仕事せなアカン。楽して儲けようなんて
  思わんことやな。

 こんな経営訓を、時々聞かされ、そして自分は育てられたと、羽田は懐古する。

---さてと、どっかで腹ごしらえするか。ええとこ無いか?
---エカマイのソイ裏で美味い屋台見つけたんですけど・・・
---おおぉー、エエなぁー。流石、羽田ちゃんや、気が利くっ。

 この男の「美味いもん」というのは、贅沢な物のことではない。はっきり言って、贅沢な物
は食べ飽きているはずである。それよりも、その土地でしか味わえない物を食わせてやる方
が歓んでくれることを、長年の付き合いで知っていた。

「シンハービール」を三本ほど空にした頃、鈴木は頬を桜色に染めながら何か言っている。

---あの子と、もう一回会いたいねんけどなー・・・アカンやろか。

 羽田に聞いているのか、自分で納得しようとしているのかわからない口調だった。 
 しかし、そんな鈴木が可笑しかった。

---何処の子っすか?

 羽田には見当はついていたが、敢えて尋ねる意地悪をしてみたくなった。さっきの仕返と
いうのではないが、今のところソレぐらいしか、この男には勝てない。

---ほれ、前回来た時に、連れってもらった、タニヤの店の・・・
---あぁ、『マイルド』の、ティックですか?
---おお、それそれ。

タニヤの『マイルド』は、タニヤでも随一の高級ラウンジである。在籍しているホステスは全員
Off不可というスタイルで、現地駐在員の「御用達」のような店だった。
 そこのティックというのは、年は三十前であったが、そこのNo1、No2を争う女であった。
 本人申告の二十八という年齢の真偽は別として、今尚、その美形と抜群のプロポーショ
ンを誇り、羽田が聞いているだけでも数人のスポンサーを抱えている。
 その面々と言えば、在タイの一流会社のオーナーばかりだった。

(はっきり言って、高嶺の花だ・・・)

 先月、タイにやって来た折、珍しく、自分から店とホステスの名前を告げて、羽田に案内させ
ていたのだ。
 その時は深く問うことをしなかったが、鈴木があの女を気に入るのが不思議でもあった。
 というのも、自分から連れて行けと言っておきながら、それらしき反応も残さず、先月は帰国し
てしまっていたのだから。

---行きますか、今から。
---どうするか・・・

 こと女の事に関して、この男の優柔不断な部分を見たことが無かったので、ちょっと戸惑いを
 覚えた。

---何を弱気な・・・おやっさんらしくもない。

 しばらく考えている風であったが、吹っ切るようにして口を開いた。

---やっぱし、やめとくわ。今日は、「ラッチャダー」のVIPルームで豪遊とするわ。
---わかりました。じゃ、そうしましょう。

 そうして、車を「ニューペップリー」通りから「ラッチャダーピセー」通りに向かわせた。
 Soi17にあるその店は、バンコクでも有名な大型MP(マッサージパーラ)である。
外観は、知らない者が見ればデパートかホテルと見違えるようなゴージャスな造りとなっているが、
一歩そこに足を踏み入れると、この種の店の独特の匂いが鼻をつき、「特殊浴場」と和訳される
のが相応しい空間となっている。

「金魚鉢」と呼ばれる空間の中に、文字通り赤や黄色の衣装を纏った女達が、媚いて客を誘っ
ている。鉢の硝子に鼻を押し付けんばかりにして中を伺う者、ちょっと斜に構えて視線だけは鋭く
上玉を探す者。いずれも、きちんとした身なりの日本人であった。

 ウザったく近寄ってくるコンシア(タイ人男の案内役)を無視しながら、さっさと三階の「VIP 」へ
駆け上がり「スーパーモデル」の中から三人を選び出した鈴木は、女に埋もれるように消えようと
するのを、耳打ちで、社に戻って仕事を片付けてから帰宅すると伝えて、いつもの通り車と運転
手だけを残してそこを後にした。

 地下鉄の駅の前でタクシーを待つ傍ら、階段を昇り出てくる日本人の旅行者の多さに改めて
感心させられた。
 どの顔も皆一応に、崩れきった顔つきであり、これから享受しようとする快楽の世界への思いだ
けが滲み出ていた。
 それらを無表情で見ている自分が居るのことに慣れきってしまった羽田であった。

 タクシーを捕まえると、「トンロー」の自分のコンドーの所在地を伝えた。
 羽田は、心地の良い疲れから、睡魔が襲って来たが、先程見せた鈴木の気弱な態度が気に
なっていた。

---(いつもの、おやっさんじゃない・・・・)


                                                            (第二話 了)

(第三話)

 翌朝、頃合を見計らってホテルに迎えに行くと、鈴木はロビーで珈琲を飲みながら新聞に目を
通していた。

---おはようございます。よく眠れましたか?

---あぁ、すっきりや。やっぱりタイは最高やな、羽田ちゃん。

 例のダミ声だが、響き渡るような声の大きさに閉口した。
---この後、工場に行かれますね?
---ああ、そのつもりや。
---私は社長を工場まで送り届けた後、ちょっと仕事が入ってますので、夜にお迎えに上がりますの
  で、工場の方でお待ちください。
---うん・・・
---なんか、不都合でもありますか?
---羽田ちゃん、今、ちょっとええか。


 羽田は、また何か痛いところを突かれるのかと身構えた。

---実はな、今回は呑気に遊んでる気分やないんや。
---なんか、あったんですか?
---雄二や・・・。あのアホが、女にのぼせ上がって、会社の金、使い込みしてるらしいんや。
---せやけど、麟さんが、ちゃんと・・・
 
 羽田も、大阪の出であったので、つい大阪弁が口をついて出てしまうことがあった。

---その高岡からの報告でわかったんや。

 鈴木には三人の息子が居た。長男の健一と次男の雄二は本妻の、そしてもう一人は妾との間に
出来た、麟太郎という息子がいたのだ。麟太郎の母の姓は「高岡」であったので、鈴木の方も、息
子でありながら、「高岡」と呼ぶのであった。
 健一と麟太郎は同じ歳である。健一には大阪の工場で専務職として、跡取りをさせるつもりでいた。
そして、雄二の方は、昨年のタイ工場設立に当たって、麟太郎と共に赴任させていた。
 鈴木も人の子であったのか、出来の悪い雄二を、全てにわたってソツなくこなす高岡の傍で仕事を
させることで、後継者として育てたかったのであろう。

---どこの女ですか?

 羽田は、一呼吸置いて尋ねた。
---『マイルド』のティックや・・・
---えっ・・・

 羽田は、昨晩のことが、腑に落ちた気がした。

---今年の初めくらいに高岡からその報告があって、ほんで、先月羽田ちゃんに無理言うて連れてもろ
  たんや。
---そういうことでしたか、それで昨日・・・
---わしが、あの女に一目惚れでもしたと思たか?
---てっきり・・・
---あほっ、なんぼ「外人」でも性の良し悪しは、匂いでわかるわっ。あの女はアカン、絶対アカン。
---で・・・どうするんです?
---それを、アンタに相談しとんねん。

 羽田は運ばれて来た珈琲に砂糖を入れながら、思案顔を作った。

---分かりました、取り敢えずその件は、私に任して下さい。お金の方は、社長がロックすれば大丈夫
  でしょ。
---すまんな、頼むわ。

 出来の悪い子供ほど可愛い---というが、鈴木はそんなことで経営者としてのの目を曇らせるような男
ではない。

---それと・・・ちょっと気になったんですが。
---ん?・・・なんや
---「スルガ金属」、ご存知ですよね。今年の七月には出てくるみたいですよ。
---何っ?・・・なんでや、どっから聞いたんやっ。
 鈴木の表情が険しくなった。
----「BOI」(タイ投資委員会)の先月の「認定企業一覧」で出てましたよ。
----クソガキがっ!

 羽田も「スルガ金属」については少しばかりであるが心得ていた。「鈴木鉄工」のライバル会社である
が、その規模や設備内容などは鈴木の会社などは到底足元にも及ばない会社であった。
 しかし、「品質の確かさ」と「納期厳守」の営業姿勢で、T自動車関連のボディーメーカーには鈴木の
会社は絶大な信頼があったので、受注額ではほぼ伯仲していた。

----あのな、羽田ちゃん。今、日本でな「スルガ」と戦争してんのや。
----戦争って・・・
----あっちは、ウチの見積もりに対して全て15%引きで受注する言うて、あっちこちで、攻勢に出とんのや。
----そんな、滅茶苦茶な。
----そや、アホな話や。それに乗って競争しても、喜ぶのは客だけやのに。業界のこと何も考えよらん。
----ということは、ココでも社長とこを狙い撃ちに?
----多分な。ウチを潰すことしか考えとらんのや、あの若憎っ。

「スルガ金属」も,先代の社長は、業界の理事として、その相互発展に努めてきた「人物」であったのだが
息子の代になってからは、容赦のない合理的経営を取り入れ、「自社さえ潤えば」という経営姿勢に業
界の長老達からは眉を潜められていた。

----ワシがな、いつやったか、業界の会合であの若憎を吊し上げたことあるんやが、それ以来ワシんとこを目
  の敵にするようになったんや。
----そうですか・・・。けど、負けるわけにはいかんでしょ。何がなんでも・・・
----そやっ、こうなったら全面戦争や。

 鈴木を「チャチュンサオ」の工場まで送り届けると、玄関で踵を返そうとしたのだが、それを高岡が制する
ように、呼び止めた。

----おはようございます。羽田さん
----あぁ、おはよう、麟さん
 
 高岡は、羽田を兄貴分のように慕っていたので、自然と言葉遣いも高岡が、羽田に敬意を払う形となり
鈴木もそれを黙認していた。

----今週、羽田さんのお時間のある時で結構ですから、「飯」でもいかがですか?
----あー、いいよ。こっちから連絡するよ。

 高岡は、鈴木の妾の子であったが、母方の血を引いたのか地道に努力するタイプで、苦学の末に大阪
の有名国立大学の工学部を出ていた。
 母親の方は、「北新地」のどこかのママをしていたらしいが、鈴木に乞われて「日陰の女」となったらしい。
 その母親というのが、身の程を弁えて鈴木の子を、女手ひとつで育てたということだけ鈴木から聞かされて
いた。しかし、息子が大学を卒業するのを見届けるように、子宮癌で他界していた。
 
 その夜、鈴木の了解を得て羽田は単身で「マイルド」を訪れ、ティックを指名した。しかし、当然ながら
「売れっ子」がゆえに、先客が帰るまで十二時近くまで待たされた。

----ごめんなさい。羽田さん、お待たせしちゃたみたいで。
----いや、いいんだ。「売れっ子」の君のことだから仕方ない。
----羽田さんに指名されるなんて光栄だわ。タニヤ(ここ)じゃ、羽田さんは人気者だもの。
----さすがプロだな、口が上手い。

 手馴れた手つきで「水割り」を作るその女は、夜の女としては「最高級品」だと思った。日本人好みの
色白で、目鼻立ちはしっかりしており、タイ人女にしてはバストも豊かであった。もちろん、どれも「本物」
だとはハナから信じてはいないが、どちらにせよ素地が悪ければ、ここまでの一級品は出来上がらないで
あろう。

----どうせ、すぐ分かることだから、正直に話すけどね。
----はい・・・・・・

 愛くるしい大きな瞳が羽田を吸い込むように捉えた。

----スズキさん、知ってるね?
----どちらの・・・ですか
----ああ、どう言えばいいんだろ・・・

 日本人の「姓」で「スズキ」が多いという意味なのか、それとも、三十過ぎの若い方の「スズキ」と言う
べきなのか、まだ羽田にもその判別ができずにいた。

----君を贔屓にしてくれるお客さんで、「スズキ」さんているんでしょ?

 その女の表情が一瞬変わったのを見逃さなかった。

----その、質問にお答えしなきゃいけませんか?
----それは、君の自由だ。俺はポリスじゃないしね。

 女は少し、考える風であったが、平静を装って羽田に向き直った。

----知っていると思います。「ユウジ」さんじゃないですか?
----そうだ、スズキユウジ さんだ。
----羽田さんのお友達なの?
----そんなとこだ。
----で・・・?

 正直、羽田もその先をどう「攻め」ればいいのか、考えていなかった。取り敢えず、女の「真意」を確か
ればと、そう思ってやってきたのだ。

----「タダ」のお客さんかい?
----はい、私のお客さんです。それだけですけど。

 凛と背筋を伸ばし、何からも逃れようとしないその視線は、正直、意外であった。
----彼は、そうは思ってないようだけど。
----それは、お客さんの自由です。どう思って頂くか・・・は

 流石に、タニヤ(ココ)で長く仕事をしているだけあって、腰が引けるどころか、圧倒さする様なプロとしの
誇りのようなものを感じた。

----(どう思うか、客の自由か・・・ふっ)

----じゃ、彼がココにもう来なくなってもいいね?
----それは、いいですけど、それって、彼が決めることでは?
----そうだ・・・な。

 羽田は、これ以上話しても無駄だと思った。

----よし、この話はこれでお仕舞いだ。悪かったな、変なこと聞いて。
----マイ・ペン・ライ カ-
----ところでさ・・・君を落とそうとすれば、どんな手を使えばいいんだろうね。
----落とすって・・・、ミヤノイに成れというお話?
----沢山のオファーがあるだろ、君なら。
----はい。

 羽田は、行きがけの駄賃に、その女の「条件」を聞いてみたくなった。

----今、君が乗っている車も、君が住んでるコンドーも、君が買ったものじゃないだろう?
----ええ、買ってもらいました。でも、それだけです・・・
----それだけ?
----はい、それだけです。
----先方さんには、見返りは、ナシ?
----大方の殿方が望んでらっしゃる「見返り」は、与えたことありません。
----それで、よく納得できるもんだな、不思議だ。
----私に、買って下さるのは、お客さんの自由でしょ?。私は、何も「約束」などしたことありません。

 完璧なプロだった。二の句も出ないというのはこのことであって、同じ男として普通なら腹がたっ
てきても当然なのだが、不思議とそういう感情にならなかった。

 その女にエントランスまで見送られ、背中でホステス達の挨拶の声を聞く。

----コーブクン・マァーカー

 冷たい響きと共に、やり所のない思いが襲ってきた。

 ただ一方では、ティックを額面通りに「性悪女」と判定していない羽田であった。

                                                           (第三話 了)

(第四話)

 その日、羽田は仕事をキリのいいところで切り上げ、トンローの『日本村』の中にある焼肉屋に向
かっていた。
 高岡麟太郎とそこで夕食をする約束であった。

 階段を昇りきると、店の窓越しに高岡の姿が見えた。

----待たせちゃったかな?
----いえいえ、お忙しいのにすみません、羽田さん。
----何言ってんのよ、毎月一回はこうして飯食ってるじゃない。

 店は、平日だというのに満員に近かった。客の中には、近くのカラオケの女を連れての同伴中と思
しき男が数人見てとれた。
 おそらく彼らは単身赴任に違いないだろう。何故なら、日本人駐在員が多く住むその地域で、妻
子ともにバンコクにやって来ている男は、絶対と言っていいほど、そんな「危険」な場所で女と会うこと
などしないからだ。

----どう?仕事の方は。
----ええ、やっと従業員も落ち着いてきて、何とかやって行けそうな手応えを感じてきたとこです。
----そうか・・・っと、取り敢えず乾杯とするか。

 ビールグラスの重なる音が、店内の喧騒に打ち消されるように、微かに響いた。

----羽田さん、『マイルド』には行かれたんですか?
----あぁ、行ったよ。で、ティックとも会った。
----どうでしたか、印象というか、羽田さんの目からして・・・
----はっきり言って、彼女は完璧なプロフェッショナルだよ。雄二君が適う相手ではないね。
----やっぱり、そう思われますよね。

 高岡は気の抜けそうになっているグラスの中身に視線を落とし、何かを考えている風であった。

----どの程度の嵌り様なのかな、雄二君。
----店の勘定は全て会社宛の領収書を廻してきます。最近は、お客さんへの付け届けだといってブランド
  物の時計なんかを、『エンポリ』で買ってきたり・・・。
----あの女に渡してんだな。
----たぶん、そのはずです。
----自分の金なら、女に何を買ってやろうが、まぁー彼は独身だし、誰も責めることはできないんだろけどね。
----最初は、そうだったみたいだったんですけど。だんだんエスカレートしていったというか・・・。
----まぁー「資金源」を社長がロックされただろうから、今後はそう派手に金を使えないはずだろうから、そのう
  ち火も消えるだろうよ。
----そうだと、いいんですけどね。

 真顔で雄二のことを心配している高岡という男の心根を、正直、羽田は理解できない部分があった。
 高岡の母親は鈴木の妾であり、その境遇からしてこの男の幼少期は、「本家」との確執があったに違い
ない。現実、この男も母親ともども、本妻からの手厳しい仕打ちを受けていたのを、羽田は知っていた。
 それが故に、「腹違い」の兄弟の間柄は高岡をして、「本家」の人間を決して「良し」とは思っていない
はずなのだ。

----ところで、麟さんは、どうなのよ?いい子いるんだろ?
----いえいえ。私は、ソッチ方面はからっきし駄目なんで。
----そうかな・・・いつだったか、アソーク近くで、女の子と並んで歩いてるの見かけたんだけどな。

 高岡とて、36歳にもなって独身でいるわけであるが、どこか体の具合でも悪くない限りは、女を拒否
する理由が無いはずである。

----きっと、人違いですよ、羽田さん。

 笑って誤魔化そうとするが、羽田にはそれが本心で隠そうとしている風には見えなかった。
 ただ、母親を大事にしていた反面、「水商売の女」ということには極端に嫌悪する向きがあった。
 だから、自分が女として相手する者にも、きっとそういう女は選ばないという考えがあったのかもしれない。

----羽田さんは、最近はどうなんですか?良くモテる人だから、話には事欠かないでしょ?
----いやいや、最近は接待でなきゃ、タニヤなんか足も向かないよ。とっとと、部屋に帰ってDVDでも観てる
  方がよっぽど気が休まるって感じだ。
----一つ、聞いていいですか?
----あぁ、どうぞ。答えられることなら何でも言うよ。
----羽田さん、タイ(ここ)で素人の女性を相手にされたことありますか?

(なるほど・・・そういうことか)

----あぁ、無くは無いな。
----で、どう思われます?
----ん・・・難しいなぁー。タイ人の素人女性に手を出すことほど、厄介なことは無いと思ってるよ。
----どういう面で?
----それは、今、麟さんが苦労しているはずで、一番良く分かってるはずじゃない。

 高岡は、羽田に全て見透かされているのを悟り、諦顔でビールを呷った。

----実は・・・そうなんですよ。困ってるとかじゃなくて・・・とにかく「大変」というか・・・
----いいじゃない、麟さんは独身なんだし、日本に連れて帰ってやれば。
----それも考えているんですが・・・

 羽田は正直驚いた。と同時に、相手の女がどんな素性の者なのかその先を早く聞きたくなった。

----どこの子なの?
----今はシーロムでドイツ系の会社で秘書しています。
----ほぉー。それはまた、上玉を手に入れたもんだな。エリートのお嬢さんかな?
----親父さんは、空軍中佐で、母親の方は、チェンマイの地主の娘らしいです。

 タイでは典型的な「いいとこ育ち」のお嬢さんである。
 故に、生半可な付き合い方じゃ許されない相手ということであり、「大変」だと高岡が言うのは無
理からぬことだと思った。

----ああぁーそりゃ大変だな。ある意味、雄二君より凄いかもしれない。
----やっぱり、そうでしょうか?
----本当に好きなら別だが、生半可なものなら、今のうちに別れることを考えることだな。
----・・・・・・。

 高岡は、目の前の黒こげになった肉を、箸でもて遊びながら視線を定めずに考え込んでいた。

=============

 店を後にした羽田は、鈴木社長のことが気になり、電話を入れてみた。

----おおぉ、羽田ちゃんか。高岡とはもう別れたのか?
----ええ、たった今。
----こっちは、ラッチャダーで二回戦目ちゅーとこや。
----そうでしたか。では、ごゆっくりお楽しみください。

 そう言って、電話を切ると運転手にタニヤへ行くことを告げた。無駄だと知りつつ、ティックの携帯に
電話してみた。

----ハロー、サワッディーカァー。羽田さん? 
----ん?・・・繋がったんだ。珍しいねー
----来てくださるんでしょ?
----あぁ、今、タニヤに向かってる。君のBookingが取れるとは思わなかったな。
----今夜は、そういう気がして、誰のBookingも受けなかったの
----まっ、今夜はその言葉に騙されて、歓び勇んでそっちに行くよ。
----(ミイラ盗りが、ミイラか?)

 羽田は、何故自分がタニヤに足を向け、尚且あの女を指名しているのか分からずにいた。

 車はラマ4世通りに入り、クロントイのスラムを左手に見ながら、ルンピニ公園方向へと走っていた。
 シーロム、スリーウォンのビジネス街の一郭に『タニヤ』は存在する。

 ここのネオンは、先程聞いた高岡の相手の女には、どう映っているんだろう----そんなことを思いな
がら、「タニヤプラザ」前で車を降りた。
 ホステス達の身に纏われた安物の香水の匂いが、ナンプラーの匂いと混じって鼻をつく。

----イラッサイマセー

 道端に並んだ女達が一斉に羽田を目掛けて誘い込みを掛けている。
 タイという異国の地でありながら、そこの空間には漢字、ひらがなが殆どの視界を占有していた。

 『マイルド』に向かって歩き出した羽田の携帯が鳴った。
 携帯のディスプレイに浮かぶ相手の名前を確認し、ひとまず、それが鳴り止むのを待った。
 二十回以上もコールが止まない。しかし、それはいつものことであり、慣れていた。
 やがて息絶えたようにそれが鳴り止むと、マナーモードに切り替え上着のポケットの奥深くに押し込
んだ。

----ふっ・・・・・。

 羽田はこめ髪部分の血管を少し浮かせ、ため息一つ吐いて『マイルド』のネオンを求め歩き出した。

                                                           (第4話 了)

 (第五話)

羽田は『マイルド』のティックに対して、特別な感情を抱いているわけではないことは自分でも
よく承知していた。
 しかし、「タニヤ」というバンコクの夜の世界の頂点ともいうべき場所で、一流クラブのホステス
としてプロフェッショナルな仕事に徹するその女を、純粋な涙とともに泣かせてみたいという欲望
に少し駆られていたのかもしれない。
 もちろん、そう簡単な話ではないことは分かっていたが、「そこ」に武者震いするような快感が
存在しているように思え、鈴木雄二のことはなどは、とうに頭の中から消えていた。
 しかし、首尾よく「泣かせた」その後に何が残るかも又よく知っているつもりであったので、馬鹿
なことをしていると、もう一人の自分が呟くのであった。

----羽田さん、奥さんは?
----いるよ。いっぱい
----じゃなくて、日本に居るんでしょ?
----居るんだろうなー、居るはずだ。

 どう答えてもその女が求めている答えにはならないと思い、適当に誤魔化していたが、驚いた
のは、次のその女の反応であった。
 それっきり、何を話そうが、問い掛けようが愛想どころか、黙んまりを決め込んで、アッチの方向
だけを見据えて座っているだけであった。
 結局、その夜はその二言三言の会話だけで終わったのだが、羽田にはその女の真意が分から
ずにいた。
 ただ、帰りの車中で無闇にほくそ笑みが出てくる自分に閉口した。

「トンロー」の自分のコンドミニアムが、闇の中で鬱蒼と茂る木の陰から姿を現した。運転席横のデ
ジタル時計は午前1時を指している。
 窓越しに自分の部屋の明かりが点いているのを確認すると、深いため息を一つ漏らしながら、
先程まで緩めていたネクタイを締め直した。

 ==================

 その朝、社に着くや鈴木から連絡が入った。

----羽田ちゃん、ワシ、今日の昼の便で大阪に帰るわ。
----えっ、 何かあったんですか?
----留守任してきた健一では手に負えん問題が出たようなんや。
----そうですか・・・で、何時の飛行機ですか?
----いや、見送りはエエ。高岡にさせるんで、アンタは仕事してんか。

 心なしか鈴木の声色にいつもの「精気」が感じられなかった。その不安が現実のものになるのは
それから三日後のことであった。
 社で「見積書」作りに追われ、10時を過ぎても帰ることが出来ずにいた羽田のもとに、火急の知
らせと言わんばかりに、携帯電話が勢い良く踊った。

----羽田さん・・・大変なことになりました、社長が・・・

電話の相手は高岡であった。取り乱した風で、言葉の身繕いが乱れている。

----社長が、どうしたって言うんだ?
----大阪の、工場で倒れたって・・・今、電話がありまして。
----倒れたっ?

 高岡の話では、大阪へ飛んで帰ったその日から殆ど一睡もせずに、問題の解決に当たっていた
らしく、社長室で蹲る様にして倒れていたらしい。

----で、様態は?
----今、「集中治療室」に入ったばかりで、詳しいことはまだ・・・
----そうか、わかった。連絡が有り次第コッチにも転送してくれ、何時でも構わないから。
----分かりました。ご心配かけますけど・・・
----何言ってんだ、鈴木社長は俺にとっちゃ、オヤジ同然の人なんだ、だから頼む、情報は何でも
  流してくれ。

 羽田は三日前の朝のイヤな予感が的中したことを、恨めしく思うと共に、仕事が手につかなくなった。

「鈴木鉄工」は経営者に三人の息子が居て、後継者には困らないという、今時の中小零細企業に
しては恵まれていたのだが、そうは言っても現在の「鈴木鉄工」が在るのは、言うまでも無く鈴木社長
の力によるものであり、特に銀行関係などは、その信用は計り知れぬものがあった。
 それ故、羽田の脳裏を真っ先にかすめたのは、その男の様態次第では、大きな問題に発展すると
いう心配であった。
 
 今夜は引き続き、日本からの連絡を待つことで「長期戦」になると見取った羽田は、会社の前の
通りで、遅くまで店を開いている屋台で、腹ごしらえをしておくことにした。
 いつもは、そのスープを残らず飲み干す馴染みのバーミー屋台の明かりが、ヤケに薄暗く感じたのは
先程の「知らせ」によるものであったのだろう。

 チェックビンを頼み席を立ち上がろうとする羽田に電話が入った。
 携帯のディスプレイは「unknown-表示不可能」であった。

----もしもし?羽田さん?
 
 その声は、鈴木の一人娘の真理子のものであった。羽田が「鈴木鉄工」に出入りしていた頃はまだ
高校に入学したばかりであったが、男親に似た娘は美人だと誰が言ったのか、鈴木の最愛の娘であった。

----真理ちゃん?
----はい。麟太郎兄さんから、電話番号教えてもらって・・・
----そうか、で、お父さんは?
----今、意識が戻って、当面の峠は越えたみたいなんですけど・・・
----どうかした?
----ひょっとしたら、「後遺症」が残るかもしれないって・・・先生が。
----そう・・・真理ちゃん、お父さんの傍に居てあげてね。女手は真理ちゃんだけなんだから。
----はい・・・お母さんが生きて居て呉れたらって思いますけど。心配で・・・
----しっかりして、真理ちゃん。

 本妻である鈴木の妻にも三年前に先立たれており、男寡であったので、真理子の存在は大きかった。

 社に戻るエレベーターの中で、その昔、鈴木が自分に真顔半分で言った事を思い出していた。

 「羽田ちゃん・・・アンタにもし嫁さんがおらんねやったら、真理子を貰ってやってくれんか」

 真理子が大学を卒業し、民間の銀行に就職した春の頃のことだった。
 羽田はその頃、自分に妻が居ることを鈴木には話して居なかった。
 ただ、鈴木の目からすれば、何か深い問題を抱えている風であったので敢えてそれを問うことを避けて
いたのかもしれない。
 もしも・・・ということに賭けての「頼み」であったのであろう。
 真理子が羽田を密かに想っていることに感付いていたのかもしれない。

 エレベーターのドアが開くなり、再び携帯電話がポケットの中でその使命を果たさんとしいていた。

----ハロー・・・羽田さん?

 声の主はティックであった。

----あぁ、うん。どうしたの?
----会いたい・・・来て欲しいの。

 ティックほどの女であれば、その日の客やノルマに困ることは無いはずであったので、単なる「営業」では
ないことは計り知れたが、当然そういう気分には成れない。

----ごめんね。今夜は駄目なんだ。
----そう、わかった・・・でも、今夜の私からの電話は「貸し」にしておくわ。きっと、電話頂戴ねっ。
----ああ、分かった。必ずするよ

 潔く引き下がるティックに、他の飲み屋の女には無いものを感じた。
普通なら、執拗に食い下がるか、妬み半分の台詞を聞かされるのが、その手の女の常であったのと、何
よりも、羽田は自分のスペースに無神経にズカズカと入り込んでくる女が苦手であったのだ。

 自分はきっと「家族」などに縁が無いのであろうと、羽田はずっと思っていた。何よりも、年を重ねても常
に自分の「スペース」を第一に考える羽田には、その類のものは自然と寄り付かぬようになっていた。
 そういう意味では「家族愛」などといったものは、きっと自分には無関係のものであり、それについて考え
ることも数年前からしなくなった。

 だから・・・「侵入者」は拒み、同じ様な空気を吸っている者は受け入れるのかもしれない。

 羽田は、「同類」であるが故に肌で感じるものを、ティックの中に観ていた。

                                                            (第五話  了)
 

 




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