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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

第三章(一話~五話)

 第三章 「戦い」


 その女は、今までの人生で見たことも無い「世界」を見ていた。

 そこで働く女達は煌びやかなドレスを纏い、日本人の男の酒の相手をしている。
中には、男の手が女の腰に廻され息を感じる様な距離で、媚びるような微笑で
男に何かを囁いている女も居る。

----ああぁ、ウチはスゥードゥーム(体を売る)は無いから心配しないでね。

 見たことも無い人種の女が、「仕事」の説明をしているのを殆ど上の空でその女
達の仕事ぶりをだけを見ていた。

 その仕事の名を『カラオケ』と知ったのは、つい三日ほど前のことだ。

 その女は、故郷のコラートでは土地名士の家に生まれ、なに不充なく暮らしていた。
高校を卒業する頃になると、日本語の勉強をしようと志てバンコクの大学に進むこと
にした。

 その女にとって、日本という国はあらゆる先進技術を兼ね備え、何千年という長い
歴史を持つ国だということなど書物などから知識を得てたいた。何よりも、その国の美
しさに憧れ、いつか日本に旅してみたい、そして学んだ語学力を生かして日系企業に
勤めたい---そんな希望に胸を膨らませていた。

 優秀な成績でタマサート大学の「日本語学科」に進んだ。当時、片田舎に住む
タイ人がバンコクの大学で学ぶことが出来る家柄というのは一握りであった。
 ただ、その女にとっては、それが当たり前のことだと思えるほど、家は裕福であったの
だ。

 その順風満帆な人生が狂った。
 気のいい父親は、人に騙され、身包み剥がれて放り出された。
 それから、その女には未体験なことの連続であった。

 エアコンが各部屋に付いた1LDKのコンドミニアムから追い出され、辿り着いたのは
 足を伸ばして寝るのも不充な部屋。そう、何も無い、部屋。
 そこにうず高く専門書を置き並べ、裸電球のギラギラした熱に額を焦がし、汗だくに
なっては、向かいの家にシャワーを借りにいくような生活。

 父親から預かっていた当座の現金も底を着き、いよいよ、「働く」ということをしなけれ
ならないことに気が付いた。
 しかし、何をどうすれば職にあり付くことができるのか、それを知ることからの出発であっ
た。
 ようやく、小さなレストランの給仕と、通いのメェーバーン(お手伝い)の仕事を得た時
には、手元に100バーツ紙幣が一枚残るだけであった。

 仕事さえすれば、大学にも通え、何とかこのバンコクでやって生けるという風に算段し
ていたその女は、すぐに計算が狂ったこと、いや最初っからそんな算段が無意味であった
ことを思い知らされる。

 大学の事務局から、あと一月後に授業料を振り込まねば、退学処分にすると通告さ
れて、いよいよ途方に暮れた。
 バンコクに知り合いが居た。父親から色々と世話になった人々ばかりであったので、頼
めば、何とか金の工面が出来るかもしれないと、遠いツテを辿って訪ねていった。

 しかし、そこでもその女は、現実の厳しさを思い知らされる。
 皆、確かに父親への感謝の念は忘れていなかった。しかし、それを担保に金を貸せる
ほど彼らも楽ではなかったのだろう。

 皆一応に、下を向くだけであった。
 ただ、その中の一人が戸惑い気味に言った。

----給料のいい仕事がありますよ・・・お嬢さんならきっと大丈夫ですよ。

 その女は、苦し紛れの逃げ口上だと思いつつ、聞き返した。

----どんな?・・・で、幾らぐらいお給料頂けるの?

 男は一呼吸置いて、決したように言う。

----『カラオケ』の仕事です。うまくすれば、一ヶ月2、3万にはなりましょう。

 その女は、その仕事が何をする仕事なのかより、その金量(かねがさ)に目の前のどんよ
りした雲がいっきに晴れていく気分であった。
 その男から、連絡先を書いた紙切れを大事そうに受け取り、来るときとは違う足取りで
帰っていったのだ。

 そして、間を置いて決心が鈍るのを怖がるように、すぐにその店を訪ねた。


----えっと、いつから大丈夫かな?

 ママと呼ばれるその女は、目の前の娘の「商品価値」を一瞥しただけで値踏みしていた。
 
 我に返ったように、小太りの女に向き直り応えた。

----今晩からでもいいです。
----そう・・・じゃ、7時半には店に入ってね。それと源氏名はどうしようか・・・
----源氏名?
 
 全てが一からだった。

----チューレンは・・・ティックさんね・・・
----ティックでいいです。
 
 この世界の女にとって、源氏名に自分の本当の名を使うのを嫌がるのが普通である。

----いいの?それで・・・

 女はコクリと頷いた。

  -----------

 テッィクは、雄二の膝の上に手を乗せ、小首を傾け雄二の視線を探していた。
 雄二の方はと言えば、実際は年下の女であるのに、完全に位負けしたように背を小さく
見せていた。

----考えてくれたかな。
----えっ?
----日本行きのことだよ、俺は真剣だからね。
----ごめんなさい・・・急なことだし、それに結婚なんて思ってもいなかったことですから。
----俺じゃ、駄目なのか?
----そんなことありません。けど・・・
----何か心配ごとでもあるの?

 ティックは、雄二の脇の下に頬を埋めるようにして、体を預けた。
 雄二の心臓の鼓動が高くなっていくのを耳元で察した。

----お父さんが・・・放っては行けないわ。
 
 ラウンジ内を流れるBGMがそれを掻き消していく。
 しかし、それは計算されたこと。相手はきっと、聞き直すに違いない・・・

----お父さんがどうしたっていうの?

 ティックは、次の言葉をちゃんと用意している。
 いや、何度か使ってきた手順だ。

 (自分は、こうして・・・こうやって生きて来たのよ。でなきゃ・・・)

 忘れかけていた良心に、そう言い訳する。

 しかし、最近は以前のように何度もそれを「唱える」必要が無くなってきた。
 汚い水に長く棲めば、そこもまた居心地が良くなっていくものなんだと、上辺だけ白い自分
の肌を眺めながら思うのである。


----何でもないの、気にしないで!

 その時、当然ながら雄二は、何も知らなかったし、何も疑うことが無かった。

自分が蜘蛛の巣の虜になっていて、巣の中央に居る者の素顔と、その者の計算通りに事が
進んでいる事を・・・。
 
 うす暗い闇の中で、その者の両の目が鈍く光った。
 

                                                           (第一話  了)

(第二話)

 羽田は、部下の井川を連れタニヤに向かっていた。

 一昨日から、日本の本社よりお偉方がやって来ていたのだ。表向きは「タイ市場視察」で
あるが、誰の目にもそれはタイに骨休めに来ていることは明白だった。

大阪支店時代に、一緒に仕事をした小川もまたその中の一人であった。
 小川は今や、大阪支店長としてその地位を確立していた。もちろん、羽田も中途採用と
いうハンデが無ければ同じように出世コースを進んだであろう。
 羽田は、バンコク支店においてGM(ジェネラルマネージャー)の職にあったが、本社の職位
からすれば「次長待遇」であったので、小川は羽田にとって上席者となる。

 『タニヤプラザ』前で、いかにも今ゴルフを終えて一休みして来たばかりですと言わんばかりの
ラフなかっこうをした小川が、煙草を口の端に咥えて羽田が来るのを待っていた。

----いやぁ、支店長お待たせして、すみません。
----やめてよ、羽田ちゃん・・・気持ち悪い言い方すんなよ。
----いや、やっぱり「小川支店長様」ですから。

 そう言って、白い歯を見せて笑った。

----えっと、部下の井川君です。
  
 井川は、日本の支店長を目の前にして身を硬くしていた。

----小川だ、今日はヨロシクな。
----はい・・・頑張って勤めさせて戴きます。

 井川は、羽田から小川についての「情報」を聞いていたので、その日の「接待」が大変な仕事
になると覚悟していたのだ。
 とりわけ、夜の遊びと酒には滅法強い小川のことを、羽田はそのまま井川に言って聞かせていた。
 
 夕食は『すし幸』で取り、そこで既に井川はかなり酔わされていた。大学時代にラクビー部で鍛
えた小川の身体は「底なし」の形容そのものであった。浴びるように酒を煽り、それと同じ量を同席
者に勧めるのであるから、それを断れない立場の井川はひとたまりもなかった。

----さて、そろそろ出陣するか。

 小川の足取りは軽い。それに付いて行く井川の足取は宙を蹴っているように見えた。

----昨夜は、『愛』でお持ち帰りしたんでしょ?
----ああ、いい子だったな。お泊りしてもらったよ。
----ちなみに・・・幾ら渡したんですか?
----チップ込みで5000だ。足りなかったか?

 羽田は、井川と目を合わせ一瞬押し黙った。

----一緒に行った、山口部長は何も言わなかったですか?
----ん?・・・あいつは俺のことなんざ、放ったらかしでさっさとお持ち帰りしてホテルに帰りやがったんだ。

  そう言って、小川は気を静めるように煙草に火を点けた。

----それは酷いな・・・。あの店の「泊まり」の相場は3000ですよ。チップ込みでも3500もあげれば
  十分なはずです。山口さんは何度かタイで遊んで帰ってますから知ってるはずなんですよね。
----まぁ、いいさ。サービスもあっちの具合も良かったし・・・それに三回ヤッタんだから元は取ってるさ。
----三回っ・・・?

 井川は酔いを忘れて目を白黒させた。
----相変わらず、元気だなアンタは。
 羽田も、自分と同歳とは信じられないといった表情で、首を振った。

----今夜は、ちょっとゆっくり飲めるとこがいいな、昼間のゴルフで疲れたし。

 再び『タニヤプラザ』前で逡巡する三人であったが、井川が口火を切った。

----それでは、『マイルド』なんか、いかがですか?

 羽田は、心内で舌打をしていた。

(余計なことを言いやがる・・・。)

----綺麗な、オネーチャン居るのか?
----はい。そこは、no-offの店だということもあって、タニヤ(ここ)じゃ一番の綺麗処を揃えているんで
  有名な店です。
----よしっ、決まりだ。そこ行くぞっ!
 
 小川は場所も分からぬまま歩き出した。

----羽田GMは・・・『マイルド』は、ご存知ですか?
----あぁ、一応な。
 羽田は不機嫌そうな表情を押し隠して短く応えた。

 羽田は、小川の先導を井川に任せるように、二人の後を遅れて歩いた。
 店に入り、チーママに顔を合わせない様して小川の大きな背中に隠れるように立った。

----支店長、女の子先にどうぞ・・・。

 井川が慇懃に小川を促す。
 羽田は、考えていた。おそらくこの時間帯ならティックは客に着いているはずだと。
 小川は、初めてとあ思えぬ所作で、ゆっくりと時間をかけて選んでいたが、得心したように指名を
チーママに伝えた。

----あの子がいいな。すっげー美人だな・・・。なっ!!井川。

 大きな手で井川の肩を叩く小川に酔いの欠片も無いように見えた。

----ティック・・・!?

 チーママが女の名前を、そう呼んだのを聞き間違いだと思った。
 羽田は、二人の背中の隙間からホステス達を垣間見て、驚いた。そこには確かにあの涼しい笑み
を携えたティックが座っていた。

 あの夜以来、ティックには会っていなかった。特に、理由は無かったのだが足が向かなかったのである。
羽田は、小川に手を繋がれて席に向かうティックの細い背中を見送りながら、誰でもいいと言わんばか
りに、思いつく「番号」をチーママに伝えていた。

----サワッディー・カァー  メイです。

 目の前の女の容姿を、ようやく確かめることが出来た。さすがに『マイルド』であった。ティックとは違った
美しい女の姿が羽田の視線の中に溶け込んできた。

----ああ・・・ちょっと先にトイレに行きたい。

 その女が羽田の腕を取り、案内する。
 トイレの鏡に映る自分に問うた。

----(さぁーて・・・どうする羽田君?)

 答えの出ぬまま、そこを出ると、メイがおしぼりを持って待っていた。
 ダウンライトに映し出されたその女の横顔は、おそらく歳は22,3歳であろうと想像できた。
 はち切れんばかりの肌が眩しかった。
 羽田に呉れているその健康的な笑顔は、羽田にある一つの「試み」を思いつかせていた。

----君は僕のこと知っているね?
----はい。ティックさんのお客さんでしょ?
----まぁ、そんなとこだけど・・・。君と今夜仲良くすることに・・・君は、何か問題ある?
----別に・・・。お客さんが選ぶことですから。

 はっきりと、そう答えるその女にもこの世界のプロフェッショナルを見た。

 そして、羽田も意味深な微笑をその女に投げかけ手を取って歩き出した。

                                                         (第二話 了)

(第三話)


 羽田はしっかりとメイの手を握り、ラウンジ奥のボックス席へと向かった。
 既に、小川は傍らのティックが痛く気に入ったのか、右腕をその女の肩に廻し悦に入っている
のが伺えた。
 井川も恐らくこの店にお気に入りの女が居たのであろう、隣の女と親しげに話し込んでいる。

----どこ、消えてたのよ・・・羽田ちゃん。

 そう小川から振られて、視線を小川に向けた時に、ゼロコンマの一瞬であるがテイックの鋭い
視線を受けた。そしてその後それは羽田の隣の女にも向けられたように感じた。

----いや、ちょっと小用で・・・
----その子も可愛いねぇー。羽田ちゃんのお気に入りかい?
----まぁーそんなとこです。

 その類の日本語はティックには解せてもメイには解らないであろうという読みが働いた。

----それにしても、支店長も手が、いや目が早いと言うか・・・超別嬪ですね、その子。
----ん?・・・そうだろ、『愛』なんぞに居る女とは格の違いを感じるな。

 傍らのティックは、その会話を解せないといった顔で受け流している。
 それを見て、羽田は更に畳かける。

----どうです?・・・口説いてみてわ。
----だな。No-offの店の子を口説く醍醐味ってのを、俺も味わいたくなってきたな。

 羽田は、自分の意地汚さに閉口しながらも、その展開を愉しんでいた。
 まさか、小川にはティックがどういう女で自分とどういう関係なのかは解りはしないと思っていた
のだ。

----まっ、後はごゆっくり・・・どうぞ。

 羽田は、席に着くとメイの肩を手繰り寄せその手に力を込めた。

----(いいんですか?羽田さん。あんなこと言って)
----(ん?・・・君は怖いのか?ティックお姉さんが)
----(そんなことは有りません・・・それにどうせ私は、『当て馬』でしょ?)
----(正直言って、最初はそのつもりだったけど、よく見ると君は素晴らしく可愛い・・・)

 その場を誤魔化すことも半分あったものの、目の前の女の健康的な色気に正直と惑うものが
あった。

----(それじゃ、今晩私を、連れ出す勇気がありますか?)

 そう言って、悪戯っぽく笑い、肩に廻された羽田の腕を解こうとした。

----(いいけど?・・・)

 その女は、予想と反対の答えに身体を堅くした。
そのことより、羽田の日本語を解していたその女に驚きを覚えた。

----(ハツハハハ・・・冗談だよ。そんな勇気、俺にはないよ)
 
 煙草を一本摘み上げその女に火を点けさせた。
 そして、さりげなく小川の席に目をやると、ティックの顔が見えないくらいに小川は「本腰」を入れ
て誘っている風であった。

----(どうせ、その女は口説けはしませんよ・・・)

 そう、羽田はタカをくくっていた。
 その時、横から井川が話を振って来た。

----羽田GMは・・・確か中国語達者でしたよね?
----ああ・・・まぁーな。
----この子、中国人とのハーフなんですよ。で、タイに来てまだ日が浅くって中国語か英語でしか
  話せないんです。
----ほぉー・・・それは珍しいパターンだな。
----でしょ?。僕は下手な英語で相手してますけど・・・ちょっと込み入ったこと聞いてもらえませんか?
----何だね?
----日本人の国籍を取るつもりはないか?って・・・お願いします。
----それは、君がその子を連れて日本で結婚するという意味か?
----そんなとこです・・・

 そう言われて、しずしずとその女を見入ってみると、なるほど中華の血を半分引くだけあって、タイ族
には無い「ライン」があちらこちらに見て取れた。
 ふっくらと丸みを持った顎から頬のラインや、大きく丸く、そして黒目が特に強調された眼は、羽田の
知る中国人の要素をかなり持ち合わせていた。

日本人にとっては同じ大陸の血を引く中華系の女は、「ハニートラップ」に掛るのも無理ないと納得
出来るものがあった。木目が細かく滑るような肌と透き通るように白いそれは、男の欲望を掻き立てる
には十分であり、どんな地位の男でもその甘い罠に惹かれそして身を滅ぼしていく---羽田は嫌というほ
どその「現場」に遭遇していた。そう、挙句の果てに国家機密を流さねばならぬほど追い込まれ、自ら
その始末に死を選んだ外交官も居た。

 黒のチャイナドレスの深いスリットから、妖艶に白い脚が覗き伸びている。

 羽田は、その女の膝に自分のそれが付くような距離で、流暢な北京語で話しかけてみた。
 一瞬、その女は何が始まったのだといった表情をしたが、すぐに羽田の言うことに耳を傾けてきた。
 一通り、話を聞き、その女の「言い分」も聞いた。

----この子・・・ワケ在りだなぁー、ちょっと・・・。
----って・・・どんな?
----うん・・・店、出たら話してやるよ。
 
 井川が不服そうな顔をしている横から小川が割って入ってきた。

----さすが、元チャイナスクールの外交官さんだ。キレが違うねぇーその北京語。
----よして下さいよ、その話はもう・・・。

 羽田は冷めた視線で小川の横槍を制した。

----チャイナスクールって・・・まさか外務省のエリート官僚の?

 井川が話を蒸し返す。

----どうでも言いことだ、それ以上聞くなら、この子の言ったことを教えてやらんぞ!
----あぁ、どっちも聞きたいなぁ・・・

 額に手をやり悩みこんだ体で井川はそれを暗に促している。
 そして、全てを知っている小川はしたり顔で、またティックの元に戻っていった。

 その空気から逃げるように羽田はトイレに立った。腕時計の針が午前一時近くを指しているのを
確認すると、少し眉を引き上げて急ぎ足で席に戻った。

----さて、そろそろ引き揚げますか?
----そうだな・・・えっと、俺はこの子と食事して帰るから、先に帰って呉れていいよ。

 羽田は一瞬自分の耳を疑った。

----えっ・・・?

 その答えの代わりに、小川の自信に満ち溢れた口元の緩みが羽田を打ちのめした。
 返す視線でティックを伺うと、いつもの涼しい口元から、憎らしいほどの余裕の微笑みを羽田に呉れ
ていた。

 チェックを済ませている間、羽田は熱くなる頭の芯を何で冷ませばいいのか解らずに、ただ小刻みに
膝を揺らしているだけであった。

----じゃっ!・・・お先に。羽田、元一等書記官・・・。

 憎らしい言葉を残して、小川は店を出て行った。
 商社に身を置く者の慣わしとして、どんな事情があれ、こういった場合でも慇懃に上席者を見送らね
ばならない事を、握る拳の中で血が滲むような思いの羽田であった。

 ティックが僅かに振り返って、羽田の視線の中に侵略してきた。
 目が物を言うとは、このことかと羽田は思った。

----(悔しい? 羽・田・さ・ん・・・)

 そんな風に口元も動いたように思えた。


                                                         (第三話 了)

 (第四話)

店を出た羽田と井川はバーミー屋台に居た。
小腹が空いたのを、あっさり味のバーミーで満たそうと二人の意見は一致した。

----GM・・・さっきの話ですけど・・・
----ん?、中国人のオネーチャンの話か?
----ええ。で・・・彼女は何と。

 羽田は、生ぬるい水で黄色い麺を喉の奥に流し込んだ。

----彼女の父親は真正の中国人で、母親はタイと中国のハーフのようだな。
----ええ、そう聞いています。
----だから、彼女の身体にはかなりの中国人の血が流れていることになる。

 井川は、バーミーのスープを飲みながら曖昧に頷いた。

----しかし、今は母親とこっちに逃げてきたようなかっこになっているらしい。
----何でも、かなり暴力を振るうらしいんですよ。
----ん・・・そんなことも言ってたな。ただ・・・厄介なのは・・・
----厄介なのは、何ですか?
----彼女は国籍を、中国に選んでたらしいんだ。彼女はタイで生まれたんだけどね。
----ということは・・・今も、中国人として?
----そういうことになる・・・労働ビザを持っているのかどうかは、疑わしいけどね・・・
----そういうことか・・・

 井川の表情が曇っていくのが分かった。

----そんなに惚れているのか?

 何か言ってやらねば、そのまま屋台の椅子から崩れ落ちそうに窺えた。

----ええ・・・どうしても日本に連れて帰って結婚したいと思ってます。
----そうか。なら・・・店を辞めさせるのが先決だな。そして母親をどうするのかも含めて
  よく話し合うことだ。
----やっぱり、そうですよね。

 井川は自らに言い聞かせるように背筋を正した。

----中国の領事館には知り合いも居るから、「その時」が来たら力になれるかもしれない。
----本当ですか?是非、是非に・・・宜しくお願いします。

 井川から放たれている若さの情熱は、羽田には眩しく思えた。

----小川支店長がおっしゃってましたけど、外務省の一等書記官だったんですか?
---- ・・・・・・。

 羽田は、チェックビン(勘定)を頼み無言で席を立った。
 井川は、慌ててその後から着いて行くが、それ以上「そのこと」について羽田から聞くことは
出来なかった。
 

 翌朝、10時を過ぎた時間に小川が事務所にやって来た。
 井川がそれに真っ先に気付き、小川を役員室へと通すのが硝子越しに見えた。
 ほどなくして、井川が羽田を呼びにやって来た。

----小川支店長がお呼びですけど。
----ん、分かった。

 急いでこなさねばならない仕事が一件あったのだが、上着に手を通しそこへ向かった。

----いやぁ・・羽田ちゃん、昨晩は有難う。楽しかったよ・・・
----少し、眠そうですが・・・首尾よく?

 小川の口調がプライベート含みであったので、そう聞き返した。
 待ってましたとばかりに、小川の饒舌が始まった。

----いやいや、まだヤッテはないけどさ・・・けど、次来た時には頂きだな。
----ほぉー、流石に小川支店長ですな、あの子は「堅い」ので有名なんですけどね・・・。
----そうか、うん・・・うん。そうだろう・・・

 煙草の煙を無遠慮に羽田に吹きかけながら、悦に入っている。

----でさ・・・羽田ちゃん、頼みが、アンだけど。
----何でしょうか?
----毎月の「お手当て」をさ・・・
 
 流石にそれ以上は言い難いのか、その後は目で物を言っている風であった。
 
----はぁ。どのようにさせて頂ければ?
 
 小川は、息が酒臭いと判る距離まで身を乗り出し、声音を殺して言う。

----この支店(みせ)にも、アレ・・・あるだろ?

 羽田は、小川の狡猾な目を見て全てを解釈した。

----承知しました。で、幾らほど?
----これぐらい・・・頼む。

 小川は片方の手の平を、ゆっくり広げた。

----五万ですね・・・
 
 目の前の男は、顔をあっちに向け、小さく頷いた。

 その後、二時間近くもくだらない話に付き合わされた羽田は、部屋を出てすぐに、肩で
息を一つして、大きくそれを吐いた。
あの男の言った「アレ」とは、支店単位での「隠し金」のことである。
 領収書の取れない接待の為に、暗黙の了解で「店」単位で貯めこまれた「裏金」のこ
とを指して言っているのだ。

----(相変わらず・・・くだらん男だ)

 そう吐いて捨てたが、そんな男の言う「指示」を黙って自分がリスクを負わねばならない
「組織」というものに、人知れず首を振って打ち消す以外無い自分が情けなかった。

 その「恨み」晴らしに、席に戻った羽田は、ティックにショートメッセージを送りつけた。
 まだ、寝ているかもしれない時間であったが、叩き起こしてやりたい衝動で送信ボタンを押した。


 (また、いいカモ見つけたようだな・・・大したもんだよ君は)

  意に反して、直ぐに返信が飛んで来た。

 (勘違いしないでね・・・お客さんが勝手にそう言ってるだけ。私は、何の約束
  もしてないわ・・・いつものようにね。)

  そのまま、捨て置こうかと思ったが、もう一言、投げつけたくなった。

 (日本じゃ、こう言うんだ・・・「きっとお前は畳の上で死ねないぞっ!」ってな)

 その返信の代わりに、手の平に「着信」を知らせる響きが伝わった。

----どうしたの、そんなにムキになって。羽田さんらしくないわよ?
----フッ・・・
----私は、いつだって覚悟してるわ。例え、タニヤ裏の薄汚れた路地で死のうと何とも思わないわっ。

 ティックの感情がいつになく高ぶっているのを言葉尻に感じ取った。

----どうしたんだ・・・君こそ、ちょっとおかしいぞ?

 数十秒の沈黙の後に甲高い女の声音が羽田の耳の奥を刺した。

----ナンデ?・・・ナンデヨっ!・・・どうして昨日の晩・・・
 
 ティックが泣いている。
 その女の嗚咽が、自分の「感情」に染みこんで来るのがわかった。

----ナンデ・・・あの男の言いなりに私を行かせたの?ワタシは、アナタのナニ?・・・
---- ・・・・・・。

 その女の勢いに圧倒され、言葉が出てこない。

----アナタだけは、アナタだけは・・・違うって思ってた。

   『同じ匂いがする』って・・・言ったじゃないっ!!

 それ以上のやり取りを拒むように無機質な機械音が冷たく響いていた。

 羽田は椅子を回転させて、机に背を向け口の中で何度かティックの言葉を反芻してみた。

----(アナタだけは・・・アナタだけは・・・)

 そんな言葉を、100%信じきれない自分は真っ当だと思う。

----(そんなハズは・・・ない。絶対に・・・)

 しかし、その女のか細い嗚咽は、しばらく耳の奥から消えないでいた。
 
 羽田は、ビルの合間を縫って真っ黒な雨雲が駆け抜けていくのを、ぼんやり見送った。


                                                        (第四話 了)

  (第五話)


 羽田は小川の申し出を、自分の権限の範囲で処理できるものと考えていたが、やはり支店長
の野上だけには報告しておくべきだと思い直した。

----あっ、羽田ですが、ちょっとご相談申し上げたいことがありまして、出来ましたら社外で・・・。
----・・・ん、わかりました。どうやら、仕事上のことではなさそうだね。
----はい・・・火急な事ではございませんが、直々に支店長のお耳に入れておかねばと思いまして。
----じゃぁ、場所と時間を決めて後で連絡して呉れ給え。

 野上は、俗に言う「天下り官僚」であった。旧通産省の役人で、省を退官して後、東京本社の
『アジア貿易開発室顧問』という役職を経て、自らの希望でタイにやって来たという変り種である。
 
 毒気が無く、役人の匂いの少ない初老のこの男は、案外と商売上手なところがあり、早くから民間
に席を置いていれば、企業人として成功していたであろ。そうとは言え、育ちの良さ、毛並みの良さは
この老紳士から、「海千山千」の商社マンというイメージを拭うには十分であった。

 そして、同じ元「霞ヶ関族」と知ってか知らずか、羽田が大阪支店勤務であった時、本社人事に手
を回して羽田をバンコクに赴任させていた。
 羽田は、野上を人間として尊敬をしていた。『霞ヶ関』という経歴とは関係なく、この男の持つ独特
の人生観に共鳴するところが多かったからもしれない。

 羽田は、『クィーンズパークホテル』最上階の日本懐石料理『華頂』に席を取った。
 
 夕刻のスクンビッツの車渋滞を計算し早めに社を出た。
 しかし、途中で野上の運転手から電話が入り、既に到着済みだということを聞いて慌てた。

 エレベーターのドアが開くスピードにも苛々するほど、羽田は焦っていた。
 奥の座敷へと案内されると、野上は上座に腰を落ち着け、手酌でビールを飲んでいた。

----野上支店長、遅れまして申し訳ございません・・・

 そう言いながら、下座に着くやビール瓶を手に酌をしようとするのを、野上は目で制した。

----何を言っているんですか、ほら、まだ10分前ですよ。この暇な歳寄りが早く来すぎただけですから。

 野上は、左の腕をくの字に曲げて、腕時計に目をやる素振りでそう言った。目尻の皺と見事な銀髪、
そして柔和な笑顔が、この男の品の良さを引き立たせていた。

 羽田はビールの追加と、「牛しゃぶ」をオーダーし、和装したタイ人給仕が襖の向こうに消えるのを見
届けると、野上の方に向き直って口を開いた。

----お忙しいところ、申し訳ありませんでした。
----いえいえ、早く帰っても、見飽きた古女房の顔を見なきゃイカンだけですから、誘って頂いて嬉しい
ですよ。
----いえいえ、連日の接待でお疲れだということは承知しております。

 野上は、微笑みを絶やさず黙している。

----さて・・・もし、食事が来る前に片付くような事なら、先に聞かせてもらいましょうか?
 
 目尻の皺をピクリと動かせ、眼に力を込めて野上が問いかけた。

----実は・・・小川支店長が・・・。

 羽田は事の仔細を包み隠さず野上に話した。
 野上は、向付きに箸を休ませながら、聞き入っていたが、ため息一つ吐いて口を開いた。

----よく話してくれましたね。確かに、羽田さんの職権範囲なら支店の「その金」は自由裁量で使えるは
  ずでしょうから、私に報告するまでもないのですが・・・。

 眦を上げて強い語気に変えて続けた。

----そもそも、よその「店」の金で女を何とかしようなどと・・・呆れて物が言えんとはこのことだ。仮にも支店長
  という肩書きを頂戴している男が恥ずかしい話です。

 野上は羽田のグラスにビールを注ぎながら尚、続ける。

----判りました・・・ちょっと、懲らしめてやりますか。   ケシカランっ!
----はっ・・・?
----まだ私の息が届く者が、本社人事にも居ます・・・。そういうことです。貴方にはとばっちりがが行かない様
  に上手くやりますから、心配しなくていいです。

 本来、「大阪支店長」と「バンコク支店長」とでは、職責は同等であるが、車内における「格」として先の方
が「上手」であることは、二、三年もこの会社で飯を食った者なら誰でも暗黙に心得ていることだった。
 しかし、野上はプロパー(生え抜き)でない者の強みなのか、そんなことは無頓着とばかりに、自らの人脈で
この件を闇に処理し且、小川に何らかの「制裁」を加えるつもりらしい。

----この歳になると、もう怖いもんなんか無くなるのでしょうかね・・・ハッツハハハハハッ。

 野上の「高笑い」が誘ったのか、伊万里の大皿に綺麗に並べられた「霜降り牛肉」が運ばれてきた。
 羽田の耳には、野上のそれが「黄門様」ヨロシクとばかりに、心地良かった。

 給仕が、鍋の支度をするのを横目に、羽田が、野上に問いかけた。

----ところで、支店長は、自ら希望されて、バンコクに赴任されたと聞いておりますが・・・

 事によると「際どい」問いかけだと思いつつ、聞いてみたくなった。

----理由(わけ)ですか?・・・タイが、いやこのバンコクが好きになってしまったんですよ。
----では、赴任される前に、何度かタイに?
----ええ。通産省の「タイ視察」企画に、同行して来たのが初めてでした。えっと・・・48歳の時だったかな?
----ほぉー・・・

 相槌を打ちつつ、酌をする羽田。

----で・・・、それ以来、何かと理由を付けては「視察」に訪れたってわけです。

 野上は自分を取り繕うこともなく続ける。

----つまり・・・女が出来たということです。

 羽田は努めて表情を崩さずにいたが、内心では意外であった。
 仮にも元エリート通産官僚が、このバンコクの夜の「誘い」には抗しきれなかたっというのか。

----男ってのは・・・どこの国でも、どんな地位や仕事をしていても・・・結局、「助平」だということですよ、
  羽田さん・・・ 違いますか?

 野上が羽田の心内を読んだようにそう言うと、羽田は苦笑いを零して頭(かぶり)を縦に二度振った。

----特に「霞ヶ関」族なんていうのは・・・日頃のストレスのはけ口を探していたのかもしれない。いや、偉そう
  にキャリア官僚だって面した奴ほど、「裏」の顔は変態趣味な奴が多かったもんですよ。

----確かに・・・。

 野上は箸で肉を掬い、ゆっくりとそれを鍋の中で「せせらぎ」始めた。

----ところで、羽田さん。
 
 「せせらぎ」を休めることなく野上は羽田に問いかけた。

----何故に・・・外務省からドロップを?
---- ・・・・・。
-----あっ、いや・・・単に興味本位で聞いただけです。人には話したくないことは誰にでもありますから・・・
  
 野上は、羽田の表情が一瞬強張ったのに気付くと、少し慌ててそう取り成した。

 野上は、羽田をバンコクに呼び寄せる際に、全て調べている。昔のツテで外務省にも手を伸ばしてその
「理由」を探ってみたが、これといった明快な答えを導き出せずにいたのだ。
単に「嫌に」なったと、同じ局の同輩には「理由」として話していたらしいが、野上は「何か」あると踏んでい
た。

 ただ、当時の羽田を知る者の話では、席を置く「アジア大洋州局」では順調に昇進を続けていたらしい。
それも、キャリア組の中では、「赤門」卒でない者は一歩もしくは一本、出世コースから外れるのが常であっ
たにも拘わらず、「京都」卒の羽田だけは例外であったようだ。
 それが、野上をして「疑う」一つの材料であったことは言を待たない。
  
 野上はふと我に返り、「せせらぎ」を止めて、赤身の残る肉にタレを付け頬張った。
 そして、話題を変えるタイミングを見計らうように野上はオドケて見せる。

----ああー美味しいですねー。流石に「松阪牛」だなぁ、私もやっぱり、日本人・・・っ

----蜜罠(ハニートラップ)です。

 羽田は頭(かぶり)を上げその場の空気を入れ替えるように、野上の言を押さえて口を開いた。

----んっ??
----中国の「公安」に見事に嵌められました。

 鍋の中のだし汁は泡を吹いて沸騰し、数片の白菜だけがその中で勢い良く泳いでいた。

 羽田は、敏腕の「検察」を前にした被疑者のように、淡々と語り始めた。

                                                        (第五話)





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