第五章(一話~五話)第五章「家族」 (第一話)エカマイ通りから、トンローに抜けようとする頃、強いスコールに捉まった。 今にもフロントガラスを砕け割りそうな雨粒の勢いに、ワイパーも手を休める間がない。 前を走る車のテールランプを頼りに、牛が行くように車を走らせている。滲む赤い尾灯に視線を集中 させているが、意識はティックの部屋に忘れてきたようであった。 羽田は空き巣狙いの泥棒が家主に見咎めらた時のように、慌ててそこから逃げ出してきた。 「あの時」のシチュエーションと全く同じであったことが、トラウマとしてそうさせたのだろうか。 あのまま、女をベッドルームへと導き、快楽を貪り果てたのなら、きっと何か起きるのではないかという 強烈な自己防衛が働いたのではないか。 ティックは、自分に抱かれるつもりであったのだろうか。それとも、何か罠を仕掛けていたのか。 勘ぐりは尽きず、浮かんでは強い雨音で消されていくようであった。 トンローの自分のコンドーに辿り着くと、缶ビールを一本飲み干しベッドに倒れ込んだ。 幸いにも今夜はプゥイの姿はない。ヤワラーの自分のアパートに帰ったのだろう。 心地よい睡魔が迫ってきた。 (このまま・・・眠ろう) 眠りの入り口に差し掛かった頃、暗い闇の奥から何者かが問い詰めるように羽田の意識を揺り動か した。 ----起きるんだ。 声の主は黒づくめのいでたちで、闇夜というのに大きめのサングラスで目の動きを隠している。 ----誰だ?・・・ ----そんな事を尋ねている場合ですか?、羽田さん。 拘束されているのか、身動きが出来ない。 その男は、もう一人の男に顎で指図する。それは、DVDプレイヤーだろうか、一枚のディスクがセット されると、羽田の鼻先で再生ボタンが押された。 数秒の静寂の後、羽田が目にしたものは、男と女が、雌雄という類別にも等しいような荒々しい交わ いを写す絵であった。 ほんの一コマ、二コマ見届けただけで、羽田は観念し目を逸らせた。 「驚愕」や「恐怖」という感情は当て嵌らなかった。むしろ、冷静にそれを見ている自分が居る事のほ うが、不可思議であった。 女の白い肢体が弓形に反っては沈み、艶かしく蠢いている。男は狂ったように、女の股間を貪り離さず ソコから湧き出る蜜を全て舐め尽くさんと、唾液と女蜜で濡れ光る舌を忙しく動かしている。 やがて女の肌が薄くピンクに染まりだした頃、男は今しがたまでもて遊んでいた部分に、いきり立った ものを押し当てて腰を沈めていく。 二つの獣の影絵(シルエット)が本能のままに激しく揺れ動いて、やがて消えた。 羽田は目を強く閉じ、そこから逃げようとした。 しかし、男達はそれを当然許さない。 ----これだけじゃないよ、羽田さん・・・いったいアンタはあの女と何回ヤッタんだ? ----・・・くっ ----おっと、羽田さん、騙されたと思ってるだろ?違うよ、それは。アンタが悪いんだ・・・こんないい思い しといて、タダで済むなんて思う方がどうかしてる・・・違うかい? やがて、その者達は、遠巻きに自らの正体を明かした。 ----これからは、互いに仲良くしましょうね・・・羽田書記官。 その男の冷たく静かな声音で、初めて羽田は自分の置かれた立場を理解し、絶望感に襲われた。 甘味な蜜の味に浸りきった肉体が、やがて毒へと姿を変えたそれに骨の髄まで腐らせていく瞬間であった。 羽田はこの「絶望感」を、その後何年経っても眠りの片隅で何度となく呼び覚まされては、突きつけらて いた。 そしていつしか瞼の上から黒い霧が晴れ、生まれたての陽光が閉じた瞼の向こうをオレンジ色に変えて いることに安堵し、もう一度意識を失うのが常であった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 現実(うつつ)の世界からの警鐘に死刑囚が受けるような電気ショックで目が覚めた。 覚束ない意識の中で、その機械仕掛けの鐘を黙らせていた。 薄目を開け、アナログ時計の針の位置を確かめると、それに背を向けた。 昨晩襲ってきた黒い影の正体はいつもと同じであり残像すらある。それ故に、昨夜の眠りは浅かったの であろう。羽田はシャワーを浴びることも躊躇い、まだそこで背を小さく丸めて残像が消えるのを待った。 そしていつもそうなのであるが、その時間(とき)は朱麗華の影を追うのである。 羽田が中国の公安当局に「情報」を流し始めた頃、朱麗華から一通の手紙が羽田の元に届いた。 前略、羽田 圭一郎様 もう既に、私の正体についてはご承知であると思います。 そのことに関して、何ら申し開きをするつもりもありません。そうです、私は中国公安当局の工作員です。 貴方様から機密情報を引き出すための工作を仕掛けました。 本来、この様な手紙を罠に掛けた相手に差し出すことは、工作員としては大きな瑕疵であることも 承知しております。発覚すれば、私は殺されるでしょう。 しかし、どうしてもお伝えしたいことが有り覚悟の上、ペンを取りました。 私には、五歳になる娘がいます。同じ弁護士の夫との間に出来た娘です。 しかし、夫は娘が出来ると姿を消しました。後で分かったのですが、彼もまた公安当局の工作員でし た。工作員には家族を持つことは偽装でしか許されません。彼は、任務に忠実な人だったのでしょう、私 と娘を残し姿を消しました。 彼の素性を知り愕然とした私は、生きる望みを失い娘ともども命を絶つ覚悟でした。 しかし、それさえもこの国は許して呉れませんでした。 娘が拉致され、そして私は当局の言われるまま工作員にされたのです・・・貴方を罠に掛けるために。 貴方様にもご家族があり、お子様も居らっしゃると承知しております。 もし、もしも・・・許されるなら、私が貴方様に犯した罪は、子を連れ去られた親の痛烈な心の痛みと、 無力で何の選択の余地も奪われた哀れな母親の為したことであったと・・・只々それだけを・・・。 ごめんなさい、羽田さん。馬鹿なお願いでしたね・・・私は羽田さんの全てを奪ってしまったわけですね。 その罪は一生拭えぬものだと思っています。 私は、それと引き換えに少しの不充さえ我慢すれば幸せに暮らせるところに居ることができます。 何という身勝手なことでしょう・・・。 以後は、貴方様の目の届かぬ場所から、只々、貴方様の幸せを祈ることのみに生きて参るつもりです。 もう一人の新しい家族と・・・。 貴方様への感謝の念は尽きません、どうかお体をご自愛くださいませ。 朱 麗華 ----もう一人の新しい家族と・・・。 いつもそこで涙が溢れ胸が軋み、我が身の居場所を探し彷徨うのであった。 ( 麗華・・・?その子は男の子かい、それとも女の子かい?) ( ・・・名は?) (・・・・どっちに似てるんだい?) 瞼の中で溢れたものが、頬をつたい白いシーツに染み落ちた。 ----だから・・・麗華は生きている。この世のどこかで、きっと・・・。 (第一話 了) (第二話) 昨夜のスコールが嘘のように、雲ひとつ無いバンコクの朝であった。 駐車場の水溜りが朝日を跳ね返していて、羽田の目を糸のように細くさせた。 運転手の日焼けした顔から零れる白い歯さえも恨めしく思いながら、車に乗り込んだ。 シートに横たえた体はまだ眠りを欲しがって、駄々をこねている。 しかしそれも、事務口調の弁護士の電話に睨まれ小さくなった。日本からだった・・・。 ----朝早くに申し訳ありません。奥様が、条件付で調停に応じられました。一刻も早くにご連絡をと思い まして・・・。 羽田は声音の不機嫌さに化粧をして応えた。 ----なんでまた急に態度を変えたんでしょうね。 ----おそらく、ご子息の外務省への就職が決まり、羽田さんとの繋がりを消したくなったのでしょう。 ----ふっ、実家の義父(オヤジ)の差し金だろうな。 ----さあー、そこまでは私には・・・。 羽田にはその弁護士が、(そうでしょうね、きっと)という言葉を飲み込み電話の向こうでは意地悪い 笑みを作っているように思えた。 ----で・・・慰謝料や養育費は? ----それも一切要らないと。ただ・・・ ----ただ、何ですか? ----今後、子供達には会わないで欲しいとのことでした。それが調停受け入れの条件らしいです。 ----・・・・・・。 羽田は言葉に窮した。はいそうですか、と応じれる内容では無かった。結局、時間を掛けて考えたい という申し入れをしたが、弁護士のほうも、早く「決着」を付けたいのだろう、そんなに時間は取れません よ、といったことを残して電話を切った。 羽田は、家族を連れ北京から逃げるようにして日本に帰国してからずっと、別居生活を強いられていた。 その間、羽田は妻の実家にも再三、離婚の申し入れをして来たが義父が断固としてそれを許してくれな かったのだ。 (二人の子供が成人するまでは、絶対許さない) その一点張りで、ずっと飼い殺されてきた。普通なら、即刻離婚されても文句の一つも言えない立場で あることは十分に承知していたのだが、義父も妻もそれを許さなかった。 つまり、こうである。 (中国での不祥事なら、日本国内では絶対誰の耳にも入らぬように工作できる) そんな風に義父は妻を説得し、とにかく国内での自分たちの面体を保ちたかったのだ。しかし、息子が 外務省に入るとなると話が違ってくる。 知らないでもいい話を、どこでどう耳にするかもしれないと恐れたに違いない。そしてこの際一切の縁を 断ち切ろうとしたのだろう。 ----(・・・あのオヤジの考えそうなことだ) 羽田は、一瞬思った。 ----(今度は、俺が頑として判を押さないでやろうか・・・。) しかし、義父や妻は他人であるからそんな感情に成れても、やはり血を分けた子供に何がしでも迷惑 を掛けたくないと、思い直した。 ----(わが子か・・・) 羽田は車の窓から、どこまでも青一色の空を仰ぎ見て、遠くを想った。 -------------------------- 重い体のせいかなのか、その日の仕事には身が入らず、コーヒーサーバーに向かう回数が増えるだけであ った。 書類の文字に視線を落としてはいても、先の文字を追う力が目には無い。 ハイトーンな機械音と光で、携帯電話が着信を知らせている。 ディスプレイには、また 「Unnamed」と表示され、国外からだと伝えていた。 ----ハロー? ----羽田さん・・・、真理子です。 ----ああぁー 真理ちゃんか ----今、話してもいいですか? ----あぁ、大丈夫だ。どうしたの・・・お父さん、何かあった? 真理子は少し逡巡した後、意を固めたように羽田に告げた。 ----私・・・、タイへ行きます。 ----えっ? ----日本を出て、タイで暮らしたいんです。 ---- ・・・・・・。 羽田の思考回路はまだ眠っていた。 ----もう決心したんです。 ----ふっ、その冗談で昼時の眠気が覚めたのは有難いけどね、真理ちゃんらしくもない冗談だな。 ----私らしい?・・・ってどんな風なんですか? 真理子の声音が詰問調で、羽田はそれが「冗談」ではないと悟り、ようやく羽田の脳は動き出した。 ----お父さんはそのこと、承知してないんだろ? ----ええ・・・お父さんには何を言っても無駄ですから。 ----とにかく、もう一度ちゃんとお父さんと・・・ 羽田のその言葉を切るように、真理子が割って入った。 ----今・・・空港です。これから乗ります・・・、着いたらまた連絡しますから。 羽田は、その後続いて流れている乾いた機械音に大きく息を吐きかけた。 そして、偶然にも「調停成立」の報と同じ日の電話に、何かの因果を感じていた。 返す指で、鈴木に連絡を取った。 ----今しがた、真理ちゃんから電話あったんですけど・・・ご存知ですか? ----あぁ、知ってるよ。アレもワシに似たのか強情でな、一度言い出したら雷が鳴ろうが槍が降ろうが絶対 引っ込めん・・・ 鈴木は既に諦めている風で、羽田にはそれが意外であった。 ----鈴木社長がそんなに簡単に見逃すとは、ちょっと意外でした。 ----可愛い娘の涙には勝てん・・・。情けないのぉー ----何があったっていうんです?真理ちゃんに。 ----これといって確たる原因は無いよ・・・ただ、やっぱり大阪(こっち)は長男夫婦が仕切ってるからな・・・ そんなんで、いろいろ面白くないこともあるんだろうよ。それと・・・あ、いや、何でもない。 鈴木が飲み込んだその先の言葉は、羽田にも粗方想像は出来た。 しかし、羽田も敢えて問い返さなかったので、少しの間冷たい空気が流れた。 ----どっちにしろ、そっちでのことは高岡に言って聞かせてある。真理子にも、何かにつけ高岡に相談してから にしろと言ってあるし。 ----まぁー麟さんが、承知してんなら安心ですけど・・・私も出来るだけサポートしますから、取り合えずここは 様子を見ることでいかがですか?彼女も、もう子供じゃないですし。 ----あぁーそうだな・・・そうだ子供じゃないな・・・。だけどな、羽田ちゃん・・・ 鈴木の声のトーンがさらに落ち、その弱弱しさに胸が痛んだ。 ----思わせぶりなことで変な期待を持たせるのだけは止めてやってくれんか・・・ いや、すまん。そんな人じゃないってことはわかってんだが・・・つい、ついな・・・ 娘を持つアホな親父の言うことだと、許してくれ・・・すまん、すまんな。 何度も すまん、すまんと繰り返す鈴木にいつもの凄みはなく、普通の父親の横顔だけが垣間見えた。 ----オヤッサン・・・私にも、年頃の娘が居ますから、決してそんな・・・ ----そやったな・・・ほんま、すまんな。 電話を切ってからも、羽田は考えていた。 ----(年頃の娘か・・・) もし、エリカに自分と同じような歳の男が現れ、浚っていくようなことがあったなら・・・。 胸が苦しくなり、無性に腹が立ってくる自分が居たが、それを咎める資格がお前にあるのか、とブーメラン が唸りを上げて羽田に襲い掛かった。 ----(もう・・・ややっこしい事は御免だ) 窓ガラスに映る自分に、愛想尽かしの笑みを投げつけてやった。 (第二話 了) (第三話) (どうでも・・・いい)とは言ってはみたものの、やはり到着した旨の電話があるまでは、気が騒いだ。 あの調子であるから、ホテルを確保しているのかどうかも定かではなかったので、トンロー近辺の ホテルの空室状況を確認したりした。 しかし、高岡に電話をするのが先だと気づき、莫迦な自分への嘲笑一つをこぼした。 ----あぁ、麟さん?羽田ですけど・・・。 ----そろそろ、電話ある頃だと思ってましたよ。 高岡が電話の向こうで含み笑いをしている風であった。 ----こっちの、準備は整ってるのかな?ホテルとか・・・ ----大丈夫ですよ。トンローの『センターポイント』に部屋を予約してあります。 ----ああ、やっぱりトンローか。 ----そりゃそうでしょ、あの界隈が一番安全だし・・・何より羽田さんの目が届きますでしょ。 ----おいおい、麟さん・・・ズルイぞっ。俺に押し付けるのか? ----私は今、「女性問題」はちょっと・・・。 ----ん?・・・例の彼女の嫉妬か? ----ええ、どんな理由があれ他の女と一緒に居るとこなんかバレたら、大変ですよ。 羽田の口元に意地悪い笑みが湧き出てきた。 ----わかるよ・・・うん、わかるわかる。大変だねー、麟さんも・・・ ----楽しんでるでしょ、羽田さん。そんなんですから、側面支援はしますが前線での活動は、羽田 さんにお願いしたいと思いまして・・・。 ----高くつくよ?この「貸し」は。だって・・・言ってみりゃ俺は他人で、君は義兄だからな。どっちがどう だと人に聞けば、誰だって同じ答えを呉れるはずだろ?違うかい・・・。 ちょっと意地悪に度が過ぎていることを、羽田も承知していたが、自分だって好き好んで「禍」に 近づきたくなかった。 それは、真理子を「禍」の種だとすることは100%無いと言い切れない自分が居て、時折どこか らか覗き見している気がして、そのことが気を騒がせている理由(わけ)だということを知っていたからだ。 ----(禍?・・・どんな禍だって言うんだ、お前、ひょっとして・・・) 羽田は、その先の言葉を慌てて飲み込んだ。 羽田は、関空発のバンコク直行便の到着時間をネットで確認すると、ドムァンまで出迎えてやるか どうか迷った。 しかし、やはり此処に初めてやって来る女一人を空港でウロウロさせるわけにはいかないと、陽が西 に傾きかけた時間には会社を出ていた。 真理子の父親である鈴木を出迎えるように、注意深く扉の向こうから出てくる日本人を探した。 ----(あの時間に乗ったとすれば、おそらくSQだろう・・・) そんな予測の元、文字の色も褪せた古い電光掲示板に目をやった。どうやら「到着時間変更」 があったらしく、定刻より少し早く到着しているようであった。 ----(おかしい・・・もう出て来てもいいはずだ。) 羽田は腕時計と掲示板を交互に見合わせた。 そして、『関空』からの到着客が途切れ待合フロアーに人影が疎らになると、いよいよ胸騒ぎがした。 ----(まさか、一人で・・・?) 羽田は、リムジンタクシーや空港バスが待つ屋外へと走り出した。 タクシーを手配する小さな小屋を起点に、多くの旅行客が列を作っている。羽田はそれを先頭から 最後尾まで注意深く確認したが、真理子の姿は探し出せなかった。 時間は既に、「到着時間」から一時間以上過ぎている。 こめ髪を伝って流れ落ちる汗を、手の甲で拭いながら何度もタクシー待ちの列を往復した。 ----(どうして連絡してこないんだ?) 羽田は、増幅してくる不安感と苛立ちで冷静さを欠いていた。 もう一度屋内に戻って、出口付近にある椅子にその姿がないか確かめたが、徒労であった。 羽田は、思い直して高岡に連絡を取った。 ----真理ちゃんから、連絡あったかい? ----いえ、まだ無いですけど・・・。羽田さん、今、空港ですか? ----あぁ、そうだ。あの時間に乗るとすればSQしか無いと思って、迎えに来たんだが、見当たらない。 ----ええ、私もそう思いますが・・・。ただ、「着いたら連絡する」とだけしか言わなかったので、どうだか・・・。 ----で・・・真理ちゃんは知っているのか?ホテルを・・・ ----一応、ホテル名と所在地は本人に伝えてありますけど、初めて一人で来て辿り着けるでしょうか? ----ん・・・・・・。 黙り込んでしまった羽田の様子に、高岡は「事の重大さ」を感じた。 ----いや、少しばかりの英語さえ使えれば大丈夫だろうとは思うが・・・ 羽田の言葉尻に残るものが、高岡を責めた。 ----あぁー・・・・やっぱり私がちゃんと確認すべきでした。社長からも頼まれていたのに・・・。 ----今更、そんなこと言っても仕方ない・・・とにかく何か分かったら知らせてくれ。大丈夫だ・・・彼女は しっかりしているから。 俺は、もう少し此処で待機しているから、君はホテルに行ってみてくれ。 高岡を慰めるためかけた言葉であったが、自分自身にもそう言い聞かせている羽田であった。 羽田は、気を静めようと煙草を吸いにもう一度屋外に出た。 向こうの本線を走る車の何台かが既にヘッドライトを点けていて、夕闇が近づいていることを羽田に 知らせているようで、煙草の味が分からずにいた。 三本目の煙草に火を点けようとした時、携帯電話が鳴った。 ----真理子です・・・今、着きました。 弾んだ真理子の声が、いきなり耳に飛び込んできた。 ----・・・・・・。 ----羽田・・・さん? 波を打って飛び出そうな言葉を飲み込んで、静かに聞き返した。 ----着いたって・・・どこに? ----ホテルですよ、トンローの。着いてすぐに部屋の電話から掛けています・・・。 ----(そうか・・・彼女が連絡を寄越して来るとすればホテルの電話を使うと考えるのが当たり前だった・・・) 羽田の思考はその時点で正常に戻ったようであったが、すぐにそれは針が振り切れんばかりに熱くなった。 ----アホっ!!・・・どんだけ心配したと思ってんや!!こっちは、空港で・・・ 怒号の後の言葉が繋がらない。しかも、生まれた場所の言葉が分別無しに飛び出していた。 ----ごめんなさい・・・。 今まで聞いたこともない羽田の怒号に、真理子は体を震わせた。 羽田も何故、そんな大きな声を出してしまったのか、その理由を探した。 真理子は、大切な顧客の娘だということだけでも十分な理由だと言ってはみても、電話の向こうから聞こえて 来る真理子の嗚咽は、その「理由」をどんどん打ち消していく。 ----もしも、君の身に何かあったら・・・ ----なんか・・・あったら? 嗚咽を噛み殺して真理子が問う。 ---- ・・・・・・。 荒ぶっていた自分の声を、熱いものを冷ますように静かに答えた。 ----私が鈴木社長に、申し開き出来ないじゃないか。 真理子は再び嗚咽を激しくして泣き出した。 羽田は、真理子の頬を流れ落ちる涙が「哀しい」色に変わっていることに気付いていた。 しかし、それを黙殺するように告げた。 ----今、麟太郎さんが、そっちに向かってるから。待ってるんだ、いいね。 (どうでも・・・いい) (本当に・・・か?) 問い質す自分の中から、確たるものが消えていくのが分かった。 (第三話 了) (第四話) 『ワット・アルン(暁の寺)』が、黄金色の空を壁紙にして、烏色にその姿を染めている。 羽田と真理子は、チャオプラヤー川を挟んで、この寺院(ワット)を眺めていた。 『Riverside』という名のオープンカフェ。 羽田はそこに時間を限定することなくやって来ては、冷たい珈琲と表紙がひしゃげた単行本だけ で、半日でも時をやり過ごすことが出来た。 川を行く船のエンジン音も、川面から湧き出て熱い空気に乗って鼻をつく匂いさえも気にせず に、ゆっくりと、静かに流れる時間を楽しむことが出来た。 しかし、今までそこに来る時はいつも一人であった。 真理子が寺院巡りをしたいと言ったわけではない。 羽田は、以前からそこに誰かと来てみたいと思っていた。一人で楽しむそこでの時間を誰かと 共有したならば、その場所の「秘密の価値」が無くなってしまうのではないかという子供じみた考え の一方で、向き合うのではなく、互いに同じ方向を眺めて過ごす時間にも憧れのような感覚を持 っていたからかもしれない。 真理子は川風にそよぎ靡く髪を、時折指でそれを耳に掛け直したり、黄金の光に目を細めるこ とはあっても、羽田に向き合うことなくずっとそれを眺めていた。 時の移ろいは、川面に乗ってやってくる風の微妙な温度の違いが教えてくれる。 空の色が黄金色から瑠璃色に変わる頃、ライトアップされたそれは、観る者を幻想の世界へと 誘う。 羽田は、この時の狭間が好きであった。 自然の演出から人工的なそれに変わっても、寺(ワット)はそれを優雅に受け入れ、母の慈愛 のような大きさで演出に応えるのだ。 ----羽田さん・・・此処が好きなんですね。 視線を移すことなく真理子が言った。 ----うん・・・贅沢だと思わないか?こんな時間の使い方。 ----朝から、晩まで居ても平気かも。 ----アイス珈琲二つで七時間ねばったこともあったかな。 ----素敵っ。 白い頬にかかる黒髪が揺れ、真理子の視線は羽田のそれを追った。 ----怖かった・・・ ----ん? ----昨日、羽田さんに電話で怒鳴られて・・・ ----あぁー、ごめんね。つい・・・、オマケに大阪弁でねー。 真理子は目を伏せ軽く肩を揺らして笑った。 その背の向こう側の「暁の寺」に見守られながら、真理子は 一息、二息、気を静めるようにして ゆっくりと瞼を上げた。 ----迷惑ですか?私が・・・羽田さんの傍に居ると。 ----・・・・・・。 真理子の眼差しに、もはや軽い逃げ口上は通じないと感じた羽田は、声音を落として言った。 ----僕は、女房も子供も居る男だよ。君には相応しくない・・・ 真理子の大きな目がたちまち滲みだし、波打つものが微かに煌いた。 そして、感情の高ぶりを抑えるように、両の手を膝の上で合わせ、指を交互に絡めながら応えた。 ----離婚・・・決まったって、聞きました。 二人の間を流れる時間が、少しの間息を潜めた。 真理子は、自分が言ってしまった事に身を縮めて悔いた。 そして、目の色さえ伺い知られないように、顎を引いて視線を落とした。 ----誰から聞いたの? 弁護士と妻、そして義父しか知らないはずであった。 (何故、真理子が知っている?) 羽田の思考は脳の中を行ったり来たりし、辺りかまわず捜索を続けた。 無言で、肩を震わせる真理子に重ねるように問い質す。 ----なんで、知ってるの? 路地の行き止まりまで追い詰められた子猫の鳴声のように、弱弱しくそれに答えた。 ----エリカさんに・・・聞きました。 ----エリカ?・・・・・・。なんで、エリカが君に・・・ 真理子とエリカを結ぶ線が見当たらない。繋ぐ線と言えば自分の存在だけであったが、彼女たちが 自分を飛び越えて繋がっていたことに激しく驚いた。 ----羽田さん、外務省を辞められて今の会社で仕事をするようになって、ウチのお父さんと知り合いに なりましたよね。そして、家族ぐるみで親しくさせて頂くようになりました。 ----そうだね・・・当時、右も左もこの業界のことを分からなかった僕を、親父さんは親身に面倒みて下 さった。親父さんは厳しかったけど、温かい心で僕に接してくれたんだ。 羽田は逸る気持ちを抑え、努めて穏やかに真理子に接しようとした。 ----ええ、お父さんも羽田さんのことになると、いっつも一生懸命で、私たち家族でも嫉妬するくらいで した。 ----そうだった? ----それで、羽田さんも、エリカさんと時折会っていらっしゃった時、お父さんの話やウチの会社のことを 話題にしてたんでしょう?エリカさんが、そう言ってました。 ----うん・・・確かに・・・。けど、何故、エリカと真理ちゃんが? ----それは、エリカさんと私が共通の目的があったからでしょう。神様が引き合わせて呉れたみたいに・・・。 ----共通の目的って・・・。 真理子は、再び夕闇の中に浮かぶ寺(ワット)に視線を移し、時の糸を手繰りはじめた。 ----エリカさんは、羽田さんが省を辞め、家族と別居せねばならなかった本当の「理由」が知りたかったん です。 確かに子供達二人は、義父が封じ込めた真相を知る術も無く、漠然と父親が原因でそんな境遇に追 い込まれたとしか理解していなかったはずである。 ----それで・・・彼女が高校二年の時でしたか、ウチに尋ねて来たんです。 ----えっ? 多感な年頃の娘が、見ず知らずの家を尋ねて行ったというのか。 ----その時に、事務所で応対したのが・・・私です。 羽田は大きく息を吐いた。 ----エリカさん・・・インターネットで調べて京都からウチにやって来たんですよ。 羽田は熱くなる目頭から溢れ出すものが零れ落ちないように我慢した。 ----彼女、ウチのお父さんに会いたいって・・・そう言って事務所に。きっとお父さんなら何か知ってるだろうっ て思ったんでしょうね。 ----鈴木社長にだって、何も話していないのに。 ----事情を聞いたお父さんも、同じ台詞(せりふ)だった。エリカさん、すっごく落胆して、帰って行きました。 その帰り際に、お互いにメールアドレス交換して・・・それから、定期的に会うようになりました。 ----と、言うことは真理ちゃんも同じ目的のことを? ----同じというか、その「理由」を知ることより、「それから」を知りたかったのかもしれません・・・。 その時から、エリカさんとは互いに知りえたことを話したり、二人して「霞ヶ関」に出掛けたこともあります。 で・・・今回のタイ行きでも、『頑張ってね』って彼女は言って呉れました。 ---- ・・・・・・。 絶句するというのは、こういう事なのだと羽田は思った。 羽田は、真理子の言葉尻を敢えて無視し、取り直して肝心な部分だけを確認した。 ----結局、今もエリカは何も知らないんだね? 真理子もまたその問いに答える代わりに、強い眼差しで羽田に向かった。 ----朱 麗華さんて・・・どういう人なんですか? 真理子の口から飛び出したその名は、真相の「全て」を示すものであり、羽田は強い衝撃を受けた。 つまりは、エリカも全てを承知しているということなのだから。 失意が羽田の体を物凄い勢いで支配し始めていた。 羽田は真理子に気取られることにも無頓着に、大きく肩から息を吸い込んだ。 そして煙草の箱に手を伸ばし、その一本に火を点けた。 細い紫煙が竜の昇天のように夜空へと立ち昇り、その先には寺院(ワット)を照らす月が浮かんでいた。 (第四話 了) ( 第五話 ) ---(エリカは全て知っているというのか?) 鈴木社長を見舞う為に帰国した時も、エリカに会っている。 あの時もエリカの笑顔はいつもと変わらないものであった。しかし、今となっては「変わらぬ」笑顔 が怖く思えた。 羽田は、真理子に詰め寄った。 ---エリカは、どこまで知ってるんだ? 羽田の中の父親の顔を色濃く見取った真理子は、その答えを強要された。 ---・・・たぶん、全部(すべて)でしょう。 ---いったい、どこで、どうやって・・・? ---今までに、何度となく立ち聞きしてしまったらしいんです・・・。お母さんと祖父さんの会話を。 ---そんなはずは・・・ 羽田は、義父が完全に抹殺して呉れた自分の過去をそう容易く掘り返されることはないと思っていた。 ---エリカさんと初めて二人で会った日、彼女は私にも「パズル」の断片を見せてくれました。 でもそれは、断片であってパズルを完成させるには程遠いような数でした。私達は、その断片を無作為に 並べ、そして動かし、足りない部分は憶測で埋めました。 ---憶測か・・・ ---でもその殆どは憶測というパズル片でした・・・「朱麗華」 という一枚以外は。 ---そうか、君たちはそのKeyとなる一片から大方の真相を探り当てたということか。 ---ええ・・・「真相」というパズルは、憶測という歯抜けばかりでしたけど、99%組み上がりました。 羽田は、組み上がったパズルには朱麗華と書かれた一枚が、そのど真ん中に嵌め込まれているのを想像した。 ---でもね、羽田さん。私もエリカさんも「その一枚」の落ち着く場所が解らないんです。 四隅(コーナー)のポジションなのか、それとも真ん中なのか・・・真ん中であったなら、その一片には どんな「絵」が刷り込まれてるんだろうか・・・って。 羽田は、真理子の比喩する「その一枚」に---(二人とも・・・真相にほぼ迫っている)と、悟った。 ---そう・・・。きっとそのパズルは完成していると思う。 羽田は不思議と肩から力が抜けて行くのを感じていた。 ---私もエリカさんも、それを知りたいだけです。羽田さん?・・・エリカさんは羽田さんが思っているほど 子供じゃないですよ。ちゃんと、その現実に向き合ってますもの・・・。 それでも・・・パパが好きなんでしょうね、エリカさん。 ---「その一枚」の位置(ポジション)か・・・。 真理子にとっては、「その一枚」の絵柄がクイーンなのかジョーカーなのか、それともただの数札なのか、そ れだけを確かめる事以外は、風化してセピア色した断片ばかりで意味のないことであった。 ---左上の隅で・・・醜い老婆(ジョーカー)であって欲しい。きっと真ん中なんでしょうけど・・・ 真理子の乞うような視線が愛しく身を刺した。 羽田は自らに問うてみた。 ---(真ん中で、クイーン?それとも、ひっそりと目に付かない場所の数札?いや、ジョーカーだったのか・・・) それは、川面に映る月のように、浮かんでは小波(さざなみ)に打ち消された。 ---帰ろうか・・・お腹も空いたし。 羽田は、柔和な笑顔で真理子を誘った。 真理子もまた、微笑を携えてデッキの椅子から立ち、上からの視線で羽田に釘刺した。 ---でも・・・それを知るまでは日本に帰りませんから。 羽田は、ほんの少しであるが両の肩をヒョイと持ち上げてそれに応えた。 しかし、その茶目っ気を咎めるように、携帯電話が鳴った。ディスプレイに浮かぶ名はティックだった。 羽田は、真理子にそのやり取りを聞かれてもタイ語であるから悟られることはないと思い、躊躇なくフリップを 開けた。 ---どこに居るの? 来て欲しいんだけど・・・ダメ? ---残念だけど、今日は駄目だ。大事なお客さんと一緒なんだ。僕じゃなくても他に沢山お客さん居るでしょ? ---じゃ、私の部屋に来て!。何時になっても待ってるから。 いつになくティックは感情的になっていた。 ---・・・分かったよ。部屋には行けないけど、遅くになるかもしれないけどお店の方に行くから。 羽田はこの前の晩の出来事が「借り」を作ってしまったように思っていたので、無碍には出来なかったのだ。 テッィクは半ば不満げであったが、納得して電話を切った。 ---「カラオケ」のいい女(ひと)ですか? 背中越しに掛けられた真理子の言葉に心臓を掴れた。 ---いや、悪友(つれ)からだ。今、タニヤで飲んでるから「来い」って・・・ ---「部屋には行けない」って・・・お友達とそんな関係なんですか? ---えっ? ---ヘッヘヘ・・・タイ語、勉強して来たんですっ! 真理子は踵を返し先に歩き出した。 そして、やおら振り返り、羽田の腕を取って上目遣いで言った。 ---私も連れてって下さいね、その「お店」。 羽田は、事の成り行きで仕方ないと思い、深く考えることなく真理子とティックを引き合わせることにした。 しかし、この事が新たな「パズル」の始まりを示すような「一片」が埋め込まれた瞬間であったことを、後に なって知ることになろうとは思ってもいなかった羽田であった。 (第五話 了) |