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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

第六章(一話~四話)

第六章「勝敗」

(第一話)

 Soiタニヤに一歩足を踏み入れると、真理子はその異様な雰囲気に圧倒されるように羽田に身を寄せて
来た。

 此処(タニヤ)を訪れる男どもですら、最初はソレに圧倒され飲み込まれていくのである。そういうことには
全く縁遠い者からすれば戸惑いと嫌悪すら覚えるかもしれない。

---羽田さんもココにはよく来るんですか?
---ああ、ほとんど仕事がらみの接待だけどね。

 この段になって、軽率にもこの場所に真理子を連れてきた自分に呆れていた。
 羽田はティックを頭が良く、「空気」の読める女であると理解していたので、問題を起こすようなことはないと
踏んで真理子を連れてきたのであるが、そういう事の以前に、堅気の女性が足を踏み入れるところではない
ということを判断出来なくなっている自分に、愛想尽かしの失笑を吹っかけてやりたかった。

---凄いですね・・・
---うん、確かに凄い所(とこ)だ・・・。帰る?
---いえ、私は全然平気ですよ。お父さんに何度か『新地』にも連れて行かれてますし・・・。
---『新地』と此処(タニヤ)は違うだろ?
---イッショですよ・・・どっちも男の人が遊ぶ所でしょ?

 次の言葉が見当たらずに居たが都合よく『マイルド』の店先に着いた。

---へぇー・・・ゴージャスな雰囲気ですね。高いんでしょ?このお店。
---うん・・・まぁーこの界隈では一、二を争ってるかな。
---ここに、羽田さんの彼女(いいひと)がいるんだ・・・そっかそっか・・・

 真理子は少し口を尖らせ独りごちて、店構えを品定めする目を羽田の横っ面にも浴びせて来た。

---そんなんじゃないよ・・・「よく来る」っていうだけだ。
---居ても良いんじゃないですか?だって・・・異国での男の独り身なんて侘しいだけでしょ?
  それに、ちゃんと・・・「処理」もしないと体にも悪いでしょうし・・・。

 羽田は真理子のサバケた言葉に、つい乗ってしまう自分を咎めるように口元を締めた。
 エントランスへの階段を登る二人に、その先を行く日本人の連れ客が稀有な視線を落として来る。
 それに反発するように、真理子は羽田の腕にぶらさがるように寄り添ってきた。
 真理子の白い首筋から漂う淡い色香と、時折肘に触れる胸の膨らみに不覚にも緊張を覚える羽田であ
った。

 チーママが微笑を携えたワイで二人を迎えた。

---可愛い女性(ひと)だこと・・・どういう関係かしら? 知りたい、知りたい!
---余計な詮索してないで、ちゃんと仕事しろよ! この女性(ひと)は取引先の大事なお嬢さんだ。
---へぇー・・・そうかしら? そうは見えないけど・・・。

 確かに、深く腕を組む男女を見て誰もその羽田の「弁明」を信じないに違いなかった。何よりも真理子が
それを受け入れてしまっていて羽田の腕から離れずに居たのだ。

---何んか、楽しみっ!!
---莫迦なこと言ってないで、早く中に案内しろよ・・・ったく。

 羽田はそのチーママが言う「楽しみ」という言葉の意味を、すぐに思い知らされることになる。

 ティックが、体のラインがくっきりと分かる純白のロングドレスに身を包み、奥の控え室から出てくるのが見て
取れた。
 その時、一瞬であるが、ティックが自分の横に寄り添う者へ矢を射るような強い視線を振り向けていたのに
も気付いた。
 羽田は、少なからず足元から血の気が引いていくのを感じた。
 そして真理子を此処に連れて来たことを強く後悔していた。

---(しまった・・・)

 舞台は廻り始めていた。

 ティックは羽田の右隣に人、一人分の間を置いて座った。
 そして水割りを作るチーママを制して、自らその場を引き受けた。
 そこに居る理由を奪われたチーママは「未練」を残してそこを立ち退いて行く。
 羽田は心の奥底で、そのまま同席していて欲しかったと、また強く思った。

 透き通った氷にダウンライトの光が反射し、それがティックの鋭角な顎を一筋照らしている。

---こちら・・・どなた?
 
 羽田に視線を送ることなく「仕事」を続けながら、穏やかに問うティック・・・。そして先の台詞に重ねるように
言う。

---日本の女性?それとも・・・チャイニーズ(中国人)?
 
 ティックは、真理子がタイ語を解せることをまだ知らない。
 真理子がそれ(チャイニーズ)に直ぐに反応した。

---私・・・日本人ですよ。
 
 真理子は「意思」を込めて言った。
 ティックは僅かに眉を上げ驚いた風だがすぐに切り返した。

---そうですか・・・失礼しました。羽田さん、中国には縁の深い男性(ひと)ですから・・・つい。
 ごめんなさい・・・。

 羽田は背中に冷たい汗を感じながら、二人のやり取りを傍観させられていた。

 しかしその傍らで、この二人にも「朱麗華」という共通項があったことに気づき、真理子に詰問されて終わった
先ほどの話を、まだ終わらせてくれないことに愕然とした。

 朱麗華というパズルの一片の括れた部分に、磁石に吸い寄せられるように他の一片が集まってきて、パチンと
いう音をたててそれに嵌っていくのが分かった。

 自分を挟んで対峙する二人の女の視線が、目の前で鍔迫り合いを始めている。
 しかし、誰の目にもティックのそれが勝っていることを否めない。国は違えども夜の世界で数多くの男を相手し
サバいて来た女に、堅気の女(もの)が勝てる道理は無かった。
 その時点で羽田は、中立を守るのでは真理子が不利だろうと思い、この先のやり取り如何では見方せざるを
得ないと思っていた。

 が、しかし・・・。

 女の業(ごう)というものは数多(あまた)の論理を蹴散らすことを、目の前で見ることになる。

                                                          (第一話  了)

(第二話)

---何、飲まれますか?オレンジジュースでも・・・。
---羽田さんと同じもの、お願いします。

 羽田は気取られるぬように真里子の横顔に視線を送った。早くも、ティックへの対抗意識を燃やしている
のかと思えば、当の真理子は店の中を見渡しながら時折頷いてみたりしている。
 そんな真里子の様子に構うことなくティックが切り出した。

---あの夜、あれからどうしたんですか?
---ん?・・・いつのことだっけ?
---羽田さんが私の部屋から逃げ出して帰った日のことです。

 ティックは、覚えたてのタイ語を操る旅行者にも解るような、ゆっくりとそしてはっきりとした口調でタイ語で
話だした。
 たっぷりの愛嬌を振りまいてはいるが、その大きな目の中で強く激しく燃えるものを隠し持っていた。

---(さっそく、カウンターを見舞ってやった・・・てなとこか?)

 羽田は、真里子の反応がどうなっているのか知りたかったが、それを見る勇気が無い。
 取りあえずその「応酬」を何とか避けねばと思考をフル回転に持ち込もうとした時だった。

---あら、羽田さん、彼女の部屋から何もしないで帰ってきちゃたんですか?失礼(シッツレイ)ねー。
---えっ・・・。

 羽田は、今自分が何故こんな窮地に追い込まれドギマギな思いをさせられているのか、正直理解に
苦しんだ。二人の女の間で、あっちに付き、こっちに付きで成敗に腐心する自分が居ることは予想でき
たが、自分の立っている場所が(なんでこうなるの?)---と思いもよらなかったのだ。

---でしょ?・・・私の体に触れることなく、ほうほうの体で逃げ帰っちゃったんですよ、失礼な話でしょ?
---女の「覚悟」を何だと思ってるんでしょうね・・・ほんと。

 しかし、そこから少し風向きが変わる。

---初めて来る部屋でもあるまいし・・・。何だっていうでしょうねー。
---おいおいっ・・・、そういう嘘は言うもんじゃない。俺は、初めて行ったんだ。
---あら、そうだったかしら?

 ティックは意味ありげな含み笑いで羽田を攻める。

---兎に角行ったのは初めてだ。それは事実なんだ・・・いいな!
---はいはい、そういうことにしときましょうね。
---ったく・・・。

 誰の目にも、ティックが上手であった。ティックの狡猾なまでの場を仕切る能力を恨めしく思う一方で
早々に引き上げるのが得策だと思いだしたその時・・・。

---このお店って・・・そういうのが仕事なんですか?

 羽田は自分の耳を疑いそして、凍りついた。

---えっと・・・「お持ち帰り」とかいうのでしょ?違ったかしら。

 真里子はグラスを口に運びながら、気色ばむことなく言ってのける。今度は、ティックの顔を見るのが
怖い。
 とてつもなく長く、冷たい時間が過ぎていくのが感じられた。その沈黙を破る術を探すが、上手い言葉
が見当たらない。こうなれば、もうティックからの「応酬」を待つしかなかった。
 ティックなら、軽くサバいて呉れるだろうと思っていたが大きな誤算が生じる。

 テッィクは目は潤み溢れ出そうとするもを必死で堪えているようだった。
 それを見て、ようやく羽田が「割って入る」ことになった。

---ここは、そういう店じゃないんだよ。
---でも、口説かれたら・・・「行く」んでしょ?こういう仕事って・・・そういうもんだと思ってました。

 真里子は少し斜に落とした視線をティックに突きつける傍らそう答えた。

 (それは・・・それ言うのは卑怯だろ)

 ティックを庇うことになろうとは思ってもみなかった羽田である。それどころかこれ以上、弱者を攻めるこ
とになれば真里子を詰ることになるだろうと思った。

---そうよ・・・・私たちって、所詮そんな者(もん)なの。そう見られても此処でやっていかないと仕方ない
 のよ・・・。

 ティックの言葉が痛々しく、背中を抱いて守ってやりたくなるような胸の痛みを感じた。

---それでも好きな男への気持ちや、愛しく思う気持ちは同じなの。羽田さんに・・・純粋に抱かれたいって
 思う気持ちは、アナタのものと同じ、いやもっと大きいのよ。

---タイ語では(アオ・ジャイ)って言うのかしら・・・流石ですね。
 そんな殿方の気を引く甘い台詞は、思い付きもしないわ。
--- ・・・・・・。

 ティックの膝の上に置かれた右の手が、拳を作り固めているのが見て取れた。

---真理ちゃん・・・それは言いすぎだよ、謝りなさい彼女に。

 真里子は羽田の言葉に我に帰ったように、肩から力を抜くようにして言った。

---ごめんなさい・・・いっぱい失礼なこと言って。真実(ほんと)わね・・・アナタが羨ましかったの。
 だって、一緒に傍に居て、話して、同じ空気を吸って・・・笑って、拗ねて・・・そんなこと出来るんですもの。

 真里子の目からもみるみるうちに涙が湧き出てきた。

---私は・・・傍に居たいだけなの。
 
 真里子は視線を床に落としてポツリと零した。

---愛されなくても?抱かれなくても?

 芯のあるティックの声音を皮切りに、二つの「女の業」が論戦を始めた。

---わからない・・・ただ、一緒に居られるって何より安心できるわ。
---私は嫌だな。独り占めできなきゃ・・・哀しいだけだわ。それに、本心じゃないと思うの、そんなのって。
---・・・・・かもしれないね。
---好きなら、好かれたいし。抱かれたいなら、抱いて欲しいし。愛してるなら・・・愛されたい。当たり前でしょ?
---そんな風に、突っ走れない・・・なっ。やっぱり羨ましい・・・

 羽田は当事者の自分がつま弾きされているのに、何故か両の肩から力が抜けていくのを感じていた。

---でもね、やっぱりアナタの言う通りなの。所詮、「夜の仕事」の女なの・・・どう言い繕ってもダメ。
  どこかで・・・冷めてる自分が居るの。
 
  (どうせ・・・お客さんでしょ?)って・・・。

--- ・・・・・・。

 真里子は微笑むだけで応えた。
 しかし、そう言いながらティックが羽田に向けている目は「惚れた男(オトコ)」へのものだと確信していた。

---久しぶりにカラオケ歌いたい!

 真里子は中年オヤジみたく右の手の平で膝を打ち、笑った。
 そして次の瞬間、示し合わせたように四つの目が羽田の両頬に突き刺すように向けられた。
 
 羽田は両の眉を持ち上げ、小さな子供がするように口を尖らせて応えた。


---はいはい・・・っ

                                                         (第二話  了)


(第三話)

 嫌がる羽田を二人で説き伏せ、歌わせている間に女同士の話が進む。

---羽田さんって、そのチャイナの彼女のことまだ忘れられないのかしら?
---私にはわからない・・・。彼女だったんですか?
---直接聞いたわけじゃないけど、そのことを話している羽田さんの目は、そう言ってるように見えたわ。
---そうですか・・・やっぱり。
---どっちにしろ・・・この男(ひと)は誰の手の中にも納まらない人なんじゃないのかな・・・。

 ティックは視線を羽田の横顔に注ぎながら、一つ肩を落として息を吐いた。

---そうなの・・・かな。

 真里子は朱麗華という女性が、羽田の過去に深く関係していて、おそらく彼女が原因で家族と別居
せざるを得なくなったと、解釈していた。
 しかし、それがもはや羽田にとって「過去」のことであるならばこれ以上、詮索するつもりは無かったので
あるが、もし彼女がいまだに羽田の胸の奥深くに存在するならば、それを追い出すのは自分だと思うので
あった。

--- 羽田さんが今も彼女を探していたら・・・いや、もし、その彼女(ひと)が羽田さんを追いかけて来たら?

 ティックは真理子にそう問いかけ、微笑む。
 しかし真理子には羽田の歌声に掻き消され届かなかったようで、首を傾け微笑返しただけであった。

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『ルンピニ公園』を左に見ながら車はラマ4通りを走る。午前0時が過ぎるまでにはホテルに送り届けね
ばと気が焦る羽田であったが、久しぶりに握るハンドルなのか右足は自重気味であった。

---ティックさんて、素敵な女性ですね。ちょっと・・・負けそう。
---・・・・・・。
 
羽田は、(そうだね)---という返事を唾と共に飲み込んだ。

---あんな失礼なこと・・・いっぱい言ってしまったのが恥ずかしい。
 きっとすごく頭のいい女性(ひと)だと思います。
---ああ、その点は確かにそうだと思うよ。怖いくらい頭がキレるよ・・・。
---賢い女性(ひと)が好きだって、前に聞いたことがありますよね?。
---そうだったかな・・・。

 羽田は、真里子が高校三年の夏に自分に問いかけて来たのを思い出していた。それで、そう答えたこと
も覚えている。

---それ聞いてから、必死で頑張って外大に入ったんですからね、わたし。
---賢い・・・ってそういう意味ばかりじゃなくて・・・。
---わかってます・・・。さっきティックさんを見ていて分かりました。本当の意味の「賢い」って、どうなのかって。
---真理ちゃんだって・・・。

 羽田のその先の言葉を遮るように真理子が言葉を重ねる。

---朱麗華 さんも? 今も・・・羽田さんは忘れられずにいる・・・。そうなんでしょ?

 羽田は、視線をフロントガラスから外すことなくその問いをやり過ごそうとしたが、車は信号に掛かり速度を
落とし停止線の前で引き止められた。
 若いオトコのバイクの後ろに股がった娘が、真理子の表情を伺うように助手席へと視線を向けている。

---答えてください・・・羽田さん。でないとわたし・・・。

 声は聞こえないがさっきの娘が前のオトコに何か耳元で話かけている。

---わたし・・・このままバンコクにずっと居ることになりますよ?
---またそんな莫迦なことを言う・・・。

 再び車は動き出したが、しばらくバイクが並走してくる。

---(目障りな奴だ・・・)

 羽田はブレーキを少し踏んで、バイクの後方に回ると蝿を追うようにそれを煽るとバイクはスピード上げて
闇の中へと消えた。

 スクンビッツ通りからトンローに入った頃、車中のデジタル時計にゼロが三つ並んだ。
 真理子の吐く息の音さえ聞こえそうな車中で、羽田はあと二、三分のことだと自らに言い聞かせていた。

---さぁ、着いたよ。疲れただろう?ゆっくり・・・
---ちゃんと話してくれるまで、部屋に帰りません。此処からも動きませんから・・・
---子供みたいなこと言ってないで・・・
 
 真理子は羽田に向き直り無言で羽田の目に何かを訴えている。
 ピンクのアイシャドウに濃いブラウンのアイライン。
 いつもは目にしない濃い目のリップ、それにはグロスが艶かしいツヤを施している。真近で見る真理子の
顔に、羽田は視線を定められずにいた。
 見知らぬ女であれば、そのポッテリと色付く唇を吸いたくなる感情を抑えられなかったであろう。
 今の羽田を抑えているのは、鈴木の愛娘だということだけであった。
 
 真理子の「訴え」に冷たく反応する羽田に、真理子は分別したのか、ドアロックを解いて車から降りよう
とした。
 その横顔に説明のつかない感情を覚えた羽田は、華奢な真理子の背に言葉を投げずにいられなかった。

---部屋まで送るよ・・・。
---・・・・・・。

 部屋に入るとキングサイズのベッドが目に飛び込んできた。その奥に二人がけのソファーがある。
 真理子は先にソファーに身を投げ出すように身を横たえた。
 その横に座ることは、さすがに羽田にとっても自分に責任が持てず、ベッドの片端に腰掛けた。

 やり場の無い視線をどこに定めていいものかと思っていると、酔いに誘われて目を閉じてこのまま眠ってしま
いそうな真理子を見て、慌てて声をかける。

---駄目だよ、ちゃんとベッドで寝なきゃ。俺はもう帰るからね・・・また明日ね。

 薄いピンクのワンピースの裾が少し乱れ、眩く白い素足がくの字に曲がり寝返りを打つ。
 そのことで、更に乱れる裾から艶かしい太腿が男を誘っている。
その先にあるものを・・・淫らな妄想に取り付かれた羽田の脳は甘美な快感を求め何かの信号を打電した。
 それを受け波打つ羽田のオトコ。

 男はSexから求める快感の要素の多くを五感に依存しているという。

 ダウンライトの柔らかい光が二人をシルクのカーテンのように包み込み、それが作る真理子の肢体のシルエット
は次の瞬間を待ち受けている。
 羽田は全身の血流がそこに激しく流れ込もうとしているのを感じた。

 真理子の艶やかな下唇から洩れ出る吐息。静寂の中でもそれは聞き取れた。
 

 羽田は、不能者(インポテンツ)の男がかつて抱いた女に苦渋に満ちた表情で背を向けるねばならないように、
顔を歪めて立ち上がった。
 何が、誰が、そうさせたのかも知っているようだった。
 決するように踵を返しドアに向かう羽田の背中に、真理子の擦れた声に射かけられた。

---おねがい・・・・帰らないで。オネガイ・・・

 羽田は蠢く欲望に再び暴走を始めている自らのモノに痛みを覚えた。
 

                                                           (第三話 了)


(第四話)

 羽田は、逡巡した。息苦しくなるほどの葛藤で目尻近くが痙攣した。

 そして、引かれる後ろ髪に従うように眦を上げ踵を返した。
 真理子が横たわっているソファーの横へと歩を進め、見下ろす視線を真理子の身体に落とす。
 真理子はじっと目を閉じ、羽田の息使いだけを頼りに次を待っていた。
 
 羽田は両の腕の中で真理子を抱きかかえると、ゆっくりとベッドに歩み寄った。
 ガラス細工を扱うような所作で真理子をベッドに寝かしつけた。
 真理子は薄く開けた目で羽田の目を追う。

 羽田のオトコは先を急ぐように促して来る。

 真理子は、日焼けした羽田の顔が近づいて来るのを、煙草の匂いで感じた。
 再び閉じられた真理子の瞼に水鳥の羽毛のような柔らかいキスを残し羽田は身を起こした。

--- おやすみ・・・。

 縋り付いて来るものを振り切るように背を向けると、ドアの向こうへと消えた。

 ---------------------

 翌日、羽田は鈴木に電話を入れた。
 

---ああ、羽田ちゃんか、すまんな真理子のこと。
---いえいえ・・・。

 羽田は、これ以上真理子の世話を出来ないことを遠まわしに鈴木に伝えようとした。

---鈴木社長、やっぱり・・・。
---いや、その先は言わなくてもわかる。要らん気を遣わせてしまったな・・・ほんとすまんな。
---後のことは麟さんに任せますが、麟さんにはなるたけ早く日本に帰らせるようにと言ってあります。
---ああ、それでいい。羽田さん・・・
---はい?。

 鈴木が電話の向こうで涙ぐんでいるのが分かる。

---真里子が勝手にアンタを追いかけていることは、わかってる。けどな・・・今後は、遠ざけて欲しいんや。
  あの子はまだ、若い。今ならやり直せるんや・・・。せやからもう・・・会わんといて欲しい。
---いえ、オヤっさんの言うことは分かりますから。ちゃんとそうしますから・・・。
---すまんな。娘可愛さの哀れな親父(オヤジ)だと思って・・・、堪えてくれ。
---わかってますから・・・ほんとに。

 羽田は、自分を実の息子のように扱ってくれた鈴木への恩を裏切るわけにはいかなかった。
 昨夜、真理子を欲望に負けて受け入れてしまったとしても、その先にある男と女の関係など、どうなるか
 分からないものだと単純に割り切れば良かったのであり、真理子もまた本意するところであろう。
 
 しかし、それでは鈴木への信義が許さなかった。
 いずれにせよ、羽田は「家族」という匂いのするものを、また一つ失った。
 以後、真理子に接することはもちろん、鈴木家への出入りも止めようと思った。
 しかし、そう決意する羽田の胸に去来するもの・・・。

---(やっぱり、俺には家族なんていうものには縁が無いんだ・・・きっと。)

 心の芯が冷えていくのがわかり、背が寒くなり両の肩が強張った。
 目頭が熱くなり、その奥でエリカの顔が浮かんだ。
 


 羽田は無意識のうちにティックのアパートへと向かっていた。
 コンドーの玄関の柱の陰が、西から東に向かって長く伸びている。今の時間であれば、店への出勤の準備
をしている頃だろうかと、ティックの部屋の窓を仰ぎ見て思った。
 
 何の期待も無くドアホンを押す。
 二度、三度押しても応答は無かった。元々、意思を持ってここにやって来たわけでもないので、無表情に
踵を返した。
 ローファーの踵が床を打つ音が辺りに響いては消えていく。
 
 先ほど昇って来た時のエレベーターは、そこには居なかった。
 再び、降りることを命じようとボタンを押した。

 階下で誰かを乗せているのだろうか、Gマークで点灯したままであった。しかし、そんなことにも無関心に羽田
はドアの前で夢遊病者のような佇まいで待っていた。

 やがて、到着を示す機械音の後、ドアが開いた。

---羽田さん・・・。

 そこには、手にソムタムの入ったビニール袋を提げたティックが居た。

 化粧をしていないティックの素顔は、三十を過ぎた女の生活感が滲んでいた。しかし、その眼差しは柔らかく
目の前の哀れな男を包み込んでいた。
 
 羽田は、聖母(マリア)の胸を捜す迷子のように、温かい体温を求めフロアに歩み出たティックの身体を引き
寄せ強く抱きしめた。
 素肌の上に着ているカッターシャツ越しにティックの豊かな乳房が潰れるのを感じた。
 得も知れぬ安堵感が羽田の身体を温めていく。


---・・・・・・。

 ティックは両の手をぶらんと下げたまま、羽田のされるがままでいた。
 不思議な感情がティックの身体の中を通り過ぎていく。
 
---羽田さん・・・?

 ティックは再び降りていくエレベーターに急かされるように、無言の羽田を部屋に招き入れた。
 ソファーに向かい合って座り、ティックは乱れた髪を手櫛で修めながら言う。

---見たわね、私の素顔。

 羽田の反応は曖昧に微笑み返すだけであった。
 ティックは少し迷ったが、向き直って強い口調で羽田を責めた。

---私は、便利な女じゃないわよ。わかってる・・・?
---すまん・・・。

 羽田の搾り出すような声に苛立ちを覚え、一層強い口調になった。

---帰って頂戴っ・・・。お店行く用意で忙しいの。
---ああ、分かった。すまなかった・・・。

 頬にティックの平手を食らったようで、少し目に力が戻ってきた羽田は、自分の愚かな行動を咎めるように
腰を上げた。
 ドアの前で再び踵を返し、ティックに向き直ってもう一度謝罪の言葉残そうとする羽田の唇にティックのそれ
が重なってきた。

 ティックは羽田の首に両の手を廻し、激しくそれを吸った。
 羽田もそれに呼応するように舌を絡ませ、ありったけの情念を込めてそれを吸い返していた。

 やるせなく冷えた心は何かで埋め暖めねばならないことを、ティックは知っていたのかもしれない。


                                                           (第四話  了)





 



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