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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

第七章(一話~五話)

第七章-1 「 逆行 」

 ティックは羽田が言うであろう台詞に先回りするように言った。

---お店辞めてくれなんて、言わないでね。

 確かに、今そのことを言うつもりは無かったにせよ、いずれ口にしていたであろう。

---アナタのものにはならないわ--- ってことか?
---そうじゃなくて、物には順番があるでしょ?
---ん?・・・。
---ホントにその気なら、羽田さんも、ちゃんと身辺整理してから・・・でしょ?

 知っていたのか、それとも釘を刺す意味で言ったのかは分からないが、羽田の脳裏をプゥイの
顔が過ぎった。

---ふふふ・・・そうだな。「綺麗な体」になって迎えに来るよ。
---なれるかしらね・・・?

 ティックは大きく肩を揺らして笑った。



  *********************************

---もしもし、パパ?
---おぉ、エリカか、何だ?どうした・・・。
---いやいや、別に何かあるわけじゃないんだけどね、お兄ちゃんも中国に行っちゃうし。
---圭介が中国に?
---うん。「チャイナスクール」だなんだって言って、張り切ってたし。

 羽田は、息子の圭介が自分と同じ「道」を進むと聞いて、複雑な思いであった。

---そうか・・・「チャイナ」か・・・。
---お兄ちゃん、ママに似てプライドの高い人だから、絶対、パパには知らせたりはしないと思ったんで
  一応、教えておいてあげようと思って。

 エリカが、わざわざ国際電話までして来て自分にそのことを知らせてくる裏には、やはり真理子が
言っていた様に、自分と中国を繋ぐものに強い気持ちが働いたのだろうと思った。

---ああ、分かった。今日にでも圭介に電話してみるよ。
---うん、そうして上げて。パパは先輩だもんね、色々教えてあげなきゃ。
---先輩ねぇー・・・。
---まぁ、同じ轍は踏むな---とか何とか言って・・・。ははははっ

 殊更、あっけらかんにその部分を付かれると反って胸にズシリと堪えた。

---真理子さん・・・まだ居るんでしょ?
---ん?・・・まだそっちに帰ってないのか?
---あっ・・・。
 
 エリカの生返事で、真理子がまだバンコクに居ることを知った。

---あっ・・・いや、よくわかんないの。連絡ないからまだそっちなのかなって思っただけ。
---ん・・・。
---じゃ、電話代もったいないから、切るね。エリカも今年中にはソッチ行くからね。
---うん。分かった待ってるよ。

 外務省の官僚、つまり上級職で入省した者は半年程度の国内研修の後に、希望する国への
研修留学が待っている。通常は2年であるが、場合によっては3年ということもある。
 この時点で、自分が外務官僚として、外交官として先ず主戦で戦う国、地域が決まるのだ。
『チャイナスクール』といのは、その中でもアジア太平洋地域を選んだものが、語学研修に中国語を
選び、研修の場を中国に求めた者たちを総称して、省内でそう呼ばれていたのだ。

(なんでまた、チャイナなんだ・・・)

 羽田は、義父の存在がある限り、圭介はきっと「北米」を選ぶものだと思っていた。
 義父の「北米」における外務官僚としてのキャリアは、誰しも認めるところであり、孫にもその道を歩
ませば、決して外れることのないエリート官僚の道を与えてやることが出来たのだ。
 圭介が、母親や義父の、おそらくあったであろう「反対」を押し切って、チャイナを選んだ真意が知
りたかった。

---圭介か・・・俺だ。今、いいかな?
---なに?
---チャイナスクール・・・決まったらしいな。

 (チッ・・・エリカか)

電話の向こうで息子の舌打ちが聞こえた。

---ああ。そうだよ・・・来月から上海だよ。
---そうか。頑張れよ、難しい相手だがやり甲斐はあるはずだ。
---ふっ・・・先輩風かよ。
---いや、親父(オヤジ)としてのだ。先輩面出来るだけの仕事した覚えはない・・・。
---どっちでも、いいよ。俺は「アンタ」のようなヘマはしないってことだけは確かだからね。

仮にも血を分けた息子に、「アンタ」と呼ばれ鼻の奥が痛くなった。

---そうだな・・・ふふっ。兎に角身体に気を付けてな。

---なんだよ、「何で、チャイナなんだ」って聞かないのかよ
 
 羽田は、それまでのホームレスを見下すような圭介の声音が、一転して人を刺し殺さんばかりの情念
に変わって襟首を掴まえられて突きつけられる風に感じた。

---お前がソレを選らんだんだ・・・。それでいいじゃないのか?

 世の中のシガラミに目を背ける飲んだ暮れの親父(オヤジ)のような声音で返した。

---俺はな・・・俺は、アンタと朱麗華と言う女の間に何があったのか、そして・・・その女は今どこで何をし
  て生きているのか、それをとことん調べるために「チャイナ」を選んだんだよ・・・・・・。
 
  俺と、エリカを置き去りにしていったアンタの過去を全部暴いてやるんだよ。

 冷たく厳しい怒りに満ちた声音であった。
 そして吐き出て来る言葉の一つ一つが、羽田の脳神経に絡みつきそれを犯していった。自分への
復讐のためにソコを選んだというのか。

---圭介・・・お前も・・・。
---ああ、面白いこと一つ教えてやるよ。『当局』が朱麗華のことを今になってまたアメリカCIAに照会をか
 けてるらしい。 何か、現在の政権にとって重大な情報(ネタ)を持ってるらしい・・・ってことだよ。
---何だって?
---じゃあな。切るよ・・・

 羽田は、朱麗華がアメリカに亡命した際に、『当局』が深追いしなかった理由が解せずにいた。
 ただ、彼女がCIAに身を委ねた際に、国家間で「政治取引」があったのだろうと納得していたが、それ
が彼女の身柄の「安全」を保障し得るだけの代償を、当時の中共政府は支払ったのかもしれない。

 羽田は息子の圭介が得体の知れぬ黒い渦の中へ引き込まれていくのではないかと強い不安を覚え
た。
 外務官僚の道を一歩踏み出したばかりの我が息子には、『当局』の本当の怖さを知る由も無いで
あろう。
 息子が自分に向けてくる「復讐」の念などいつだって素手で受けてやろう、しかしソコに足を踏み入れ
てしまい「獅子の尾」を息子に踏ませるわけにはいかなかった。

(もう一度・・・戻らねばならないのか)

 萎えて堕ちていく意識を必死で覚醒させようとした。
 
                                                            (第一話 了)

(第二話)

 圭介と話したその日を境に、舞台が動き出したことを知らせるように様々なことが羽田の周りで起こっていた。

 真理子が失意のうちに密かに日本に戻ったこと。
 そして、ティックとの約束を守る為にプゥイとの関係を清算しようとしたこと。
 そのことによって、プゥイが自殺を図ったこと・・・。

 正直、プゥイがそこまで激情的になるとは微塵も予想していなかったので、羽田は驚愕し狼狽した。
 元々、プゥイとの関係の始まりにおいて好意というより、成り行きが先行したようなものであった。そして
日頃の様子からしても、おそらく簡単に関係を終わらせることが出来るだろうと思っていた。

---すまん・・・、俺、此処を出て行くよ。別れて欲しいんだ・・・。
---そうなんだ・・・。なんとなく分かっていたけどね。
---君には、本当にすまないと思っている。どんなに詰られようが仕方ない・・・。
---いいわ。わかった・・・。荷物は今週末まで預かってて、それまでには気持ちの整理も付くと思うの。
---ああ、いいよ。ほんとに、ごめん、プゥイ。

 プゥイはテーブルの端を人差し指でなぞりながら、口端に諦めの笑みを浮かべて言った。

---愛されてないって・・・最初からわかってたわ。

 そう言い終えると急に、激しく肩を揺らして泣き崩れた。
 羽田は痛む心を押さえつけて、じっとその様子を伺っていた。そして、顔を起こしたプゥイはテーブルの
上の灰皿を勢いよく床に叩きつけて、厳しく羽田を睨むつけた。
 硝子の破片が床に散乱し、それを身を屈めて拾い集めようとする羽田に容赦の無い罵声が飛んできた。

---最初っから私の身体だけが目当てだったんでしょ!

 今時の日本なら、そんな古びた台詞を吐く女は居ないであろう。涙でぐちゃぐちゃに濡れ、鼻汁も無遠慮
に垂れ流すプゥイの顔は、汚れを知らない娘の様であった。

 波打つ黒い瞳は嘆願している。

 (お願い・・・そんなこと言わないで)

 羽田は、黙って息を潜めるようにしてガラス片を摘み上げた。

 先ほどの大きな物音で、次の成り行きを探っている隣人の吐息が聞こえてきそうであった。
 一通りの悪口を吐き、嗚咽を鎮めるとプゥイはバスルームへと消えた。羽田は、その背を視線で追いなが
ら落ち着きを取り戻して呉れることを祈った。

 煙草に火を点けたが味がしない。立ち昇る紫煙が、意地悪く天井から羽田を笑っているように見えた。
 早くプゥイの翻意した顔が見たかった。
 一刻も早く「カタ」を付けてしまいたかったのだ。

 しかし・・・シャワーの水音が鳴り止まらない。十五分が経ち、三十分が経っても・・・。
 羽田は、椅子から立ち上がると萎えていく心臓に叱咤しながら、バスルームへの扉を開けた。

 重いテレビカメラを肩越しに背負ったキャメラマンのように、視線を素早く動かせずにいた。タイル張りの床
にプゥイが倒れている。排水溝には、湯で薄められた血が流れ込んでいて、その色が焦る気配は無かった。
 羽田は、まるでこの事態を予想してたかのように、腰からベルトを引く抜くとプゥイの二の腕をそれで強く縛
り上げ、抱きかかえて車まで運んだ。
 救急車を呼ぶという発想は湧いて来なかった。怖かったのかもしれない。

 治療室の外で、羽田は両の指を絡めてそれを膝の上に置き、じっと緑の床の一点だけを見ていた。
 兎に角命に別状は無いとは知らされたが、プゥイの腕に刻まれた傷跡を思うと胸が軋んでチクチク痛かった。
シャワールームでプゥイへ「ライフセーバー」のように応急処置をした自分はもう居ない。
 起こったことへの驚愕の念と、見苦しいまでもの狼狽が、ともすれば黒髪を全て白くしてしまうのではないか
と思えるほどであった。

 それから、しばらく羽田は、あの部屋に帰れなかった。
 かと言って、ティックの部屋へ通う気にも成れなかった。
 スクンビッツSoi22奥のサービスアパートの一室を借り、そこで両の肩、両の膝を抱えるようにして身を潜めた。

 何度かティックから電話があったが、その都度、仕事が忙しいとか体調が悪いとか言ってやり過ごした。
 ティックにはプゥイの事は関わりの無いことである。
 自分が蒔いた種だと言い聞かせたが、誰でもいいから一言、仕方ないじゃない---と言って欲しい弱い自分
が居ることを認めねばならない程、羽田は弱っていた。

 日ごとにテーブルの上のビールの空き缶が増えていく。
 蓋の無いウィスキーの空き瓶がささくれ立った自分そのものに見えて、底無しの闇へ堕ちていった。
 眠れぬ夜に電話をする相手もいない。
 テレビから溢れ出るタイ語の一つ一つが耳の穴から入り込み、脳の奥底で喧しく踊っているようで、拳を作って
こめ髪あたりを強く殴った。

 また酒の原液を煽りベッドに倒れ込む。
 その繰り返しの中で決まって羽田は夢を見た。

 雄介とエリカをそれぞれ右と左の手で繋ぎ、遊園地の門を潜る夢だった。
 振り返るとそこには、幸せそうな笑顔の女が立っている。顔は狢(むじな)のようになっていて、誰なのか判別
は出来なかったが、おそらく別れた妻であったのであろう。

 そしてそこで自分はいつも決まった台詞を吐く。

---(パパは、怖いのは駄目だからな、ママと乗るんだよ。)

 子供達は不服そうに口を尖らせている。


 -------------------------------


 黒闇の扉を抉じ開けるような携帯電話の着信音が枕の底で響いた。
 石臼のような身体を捻って、それを掴み取りフリップを開けた。

---モシモシ・・・ハダサン デスカ?
---ええ、そうですが。

 聞き慣れぬ若い女の声で、しかも片言の日本語であった。
 朝早くの突然の「訪問者」は、しばらく無言を続けた後、一方的に回線を閉じて消えた。

 羽田はズキンと痛む瞼の奥を親指で押さえつけ、再び眠りの扉へ戻って行った。
 しかし、眠りの底でさっきの女の声が羽田の肩を揺り動かして言う。

 (オネガイデス、モドッテキテ。)


                                                           (第二話  了)

(第三話)

 羽田は、支店長室に呼ばれていた。
 野上の柔和な笑顔は、ささくれ立った羽田の心の角を落として呉れるようで有難かった。

---どうしたんですか?羽田さんらしくもない。
---申し訳ありません。ちょっと、色々ありまして・・・。
---いい大人に詰問するつもりもないのですが、少し顔色が悪いのが気になりますね。
---睡眠不足もあると思うんですが、もう大丈夫です、ご心配おかけして・・・。

 野上は大きな右の手の平を「行事軍配」に見立てて、羽田の言の続きを制した。

---いやいや、心配はしていません、貴方のことですから。それより、今夜あたりどうどうですか?
---ああ・・・はい。承知しました・・・。

 羽田は、まだ重い身体を引きずって、野上の酒の相手をする気力が湧いてこなかったのが
本当のところであるが、ここのところ人との会話に飢えていたのも事実で、湿った背中に鞭を打
つようにして野上の誘いに乗ろうと思った。

---それじゃ、今晩ね。

 野上はそれだけをを言い残して、背広の上着を脇に抱えて部屋を出て行った。
 野上の秘書であろうか、珈琲を運んできたが、主が既に外出してしまっているのに気づき
途方に暮れた目を羽田に寄越してきた。

---支店長なら、たった今、外出されたよ。

 見慣れぬ顔の秘書であった。顔立ちや、膚の色からして中華系だろうか。タイ人の血を感じ
させないものが多く見受けられた。

---君、いつから・・・うちの会社に?
---先週の始めからです。
---そう、それじゃ僕が知らないのは無理もないな。

 先週一週間、体調不良を理由に社を休んでいた羽田には、その間の社での出来事を把握
する術は無かった。

---羽田GM(ジェネラルマネージャー)ですね?私は、「ラッカナー・サベェー」 と申します。

  華僑の血を分けたハーフなのか、それともクォーターなのか・・・名前だけでは判断が付かなかい。

---ああ、よろしく。チューレン(通称)は?
---「エー」 です、ローマ字の「A」。

 「エー」は、白く細長い人差し指で、空に「A」を描いて羽田に見せた。
 まだ、二十歳(はたち)そこそこの娘だろうか、時折見せる白い歯が健康的で、グレー(灰色)な
羽田の心の内に少しであるが彩りを呉れた気がした。
  
 野上の秘書が部屋を辞して行くのを見届けると、珈琲と一緒に持って来られたミネラルウォーター
のグラスに手を付け、白と、オレンジ色の薬をそれぞれ口に放りこんで水で流しこんだ。 

 まだ重い胃の底に神経をやりながら目を瞑りソファーの背中に頭の重みを預けた。
 先ほどの秘書が描いて見せた「A」の文字が瞼の裏の壁に浮かんできた。

 ・・・しなやかな指先のタッチであった。


 ---------------------------------------------------

---あぁ、まだ本調子じゃないのに、すまんね。
---いえいえ、部屋に帰っても滅入るだけですから。
 
 野上は向付に箸を付けながら、左手で猪口を摘まんで羽田の酌を受けている。

 そして、羽田は足を崩すことなく、先週、自身に起こった事の大まかを野上に聞かせた。
 それは、野上の部屋で「報告」出来なかったことであり、野上はその辺りを気遣って、席を別に用
意して呉れたのだと羽田は理解していたからである。

---そうでしたか・・・まっ、プライベートなことですからこれ以上は聞きませんよ。
---そんなことで、一週間も仕事を疎かにしてしまい申し訳なく思ってます。
---いろいろ、あるでしょ。男ですから・・・

 そう言って、肩を揺らし背を反らして、大仰に笑い飛ばす野上の人間性(ひととなり)が有難かった。

---ところで・・・新しい秘書をお付けになったんですね。
---ああ、あの娘ね。ほら、『GE』傘下の電子部品メーカーが「チョンブリ」にあるだろ、何だっけ・・・
---『GEP・THAILAND』ですか?
---ああ、ソレソレ。

 野上は先を揃えた箸を羽田の前で無用心に突きつけて、頷いた。

---あそこのMD(社長)から是非使ってやって呉れんかって、頼まれちゃってね・・。・あそこからは今年に
 なって十億のラインの発注を貰ってるしね、君も知っているだろう?。で・・・断るに断れなかったんだ。
---ええ、来期もそれ位の設備計画があるらしいですから、安いもんだと思いますけど。
---うむ・・・。ただね、意外と優秀なんだよ、彼女。
---ほぉー・・・。

 久しぶりの「熱燗」が胃に染みて、酔いが早くやって来そうだと羽田は思った。

---履歴書によればね、十八歳まではマメリカで暮らして、ハイスクールを終えてからタイ(こっち)に出て
 来て「タマサート」でタイ語を二年、学(やった)らしいよ。

---たった二年ですか?確かにネイティブのタイ語ではないなとは思ってましたが、二年であれだけ話せた
  ら大したもんですよ。
---だろ?もちろん、米語はペラパラだし、北京語だってOKらしい。
---北京語ですか・・・。

 とろ刺身を手塩の中で遊ばせながら、羽田は目に「?」マークを浮かべてみせた。

---なんでまた・・・タイなんかに?
---「タイなんかに」来たんだ、ってことだろ?
---ええ・・・。

 それなんだよ、と言って野上は身を乗り出した。

---いや、僕もねソレが意味も無く気になったんで本人に聞いたんだがね・・・。可愛らしい笑顔でタイが
  好きだったんです、って言うだけなんだ。
---・・・アメリカ育ちの娘(こ)がですか?日本人なら分かりますけど・・・。

 羽田は箸を、野上は徳利を持つ手を止めて、ほぼ同時に小首を傾げた。

                                                         (第三話 了)

(第四話)

野上は思い直したように面相の居住まいを変えて羽田に尋ねた。

---ところで羽田さん、『西芝機械事件』というのを知っていますか?
---確か・・・1987年でしたか、『西芝』の子会社の『西芝機械』が犯した『COCOM』(ココム)規制違
  反の事だったと記憶していますが。
---そうです。当時、『西芝機械』が保有する「多軸NC制御機械」をソ連に「大型旋盤」だと偽って輸出
  した事件です。

 羽田は、その頃中国北京へと赴任したての頃であったが、同じ「共産圏」で起きた経済犯罪には強く
関心を持ったのを思い出していた。その多軸制御の機械を使えば、精密なスクリューの加工が可能であ 
るのだ。つまり、稼動音の低いスクリューを原潜(原子力潜水艦)に装着できる。冷戦時代の共産圏諸
国では喉から手が出るほど欲しい機械であったのだ。

---あの、「事件」の真相も知っていますか?

 羽田はほんの少しの間視線を空に彷徨わせた後、それを野上に合わせた。

---真相であるのかどうかは知りませんが、ソ連崩壊後、結局はあの機械は「非合法」なものではなかった、
  ということでしょうか?
---はい、その通りです。しかし、あの事件以来、『西芝機械』だけでなく、親会社の『西芝』も対米輸出
  禁止措置を受け、多大な損出を出したわけです。そして、他の産業界にも大きな影響を与えた。
---「事件」の発端は大きく報じられましたが、「顛末」は殆ど報じられなかったですね。

 野上は眉間の皺を更に深くし、猪口の酒を一口で飲み干した。

---あれはですね・・・当時の日本の経済成長とそれを支える高度な技術への「妬み」いや、「封鎖」と言っ
  てもいいかもしれません。つまり・・・アメリカを中心とする先進西側諸国の罠だったというのが裏の真相
  なのですね・・・。
---確かに、日本の工作機械の技術は「Mother machine」として絶大な信頼と技術評価を受けてまし
  たし、それらが、「軍事転用」されることを怖れたのは当然と言えば当然のことでしょう。
---『技術立国日本』たる所以の危険な「罠」もあるということです。

 野上は両の肩を落とし、息を深く吐いた。

---実はね、羽田君。厄介な問題が持ち込まれてね・・・。
---と、申しますと?

 野上の顔にいつもの鷹揚で品の良さが消えていることに、羽田は野上の苦悩を感じ取っていた。

---本社からね・・・「該当機種」の転売に手を貸せと言ってきたんだよ。いや、当然そんなはっきり言って来た
  わけではないが、こっちだってこの世界で何十年も飯食っていれば、それが「違法」であることくらい分かる
  ってもんだ。

 「該当機種」というのは、工作機械業界では自社製品を「指定国家」もしくは第三国に輸出する場合は
 「経済産業省」の許可を取らねばならない品目を指して言うのであり、今現在では、NC制御の機械は殆
どその対象となっているのであり、山ほどの書類を添付して「輸出許可申請」しなくてはいけなかった。

---で・・・いったい何を「輸出(出そう)・・・」と・・・?
---「三次元測定器」だよ、『ヨツトヨ』製だ。それも、20台、〆て10億の商売だ・・・。
--- ・・・・・・。

 羽田は絶句して、次の言葉が出て来なかった。
 下手すれば、「核開発」にも悪用されかねない機種である。『ヨツトヨ』は日本、いや世界における「測定」
というカテゴリーで圧倒的な地位を誇る、日本でも有数の優良企業である。

 手塩の中で醤油漬けになったトロの身を、焦点が合うべくもなく見つめているだけであった。

---相手先は中国だ。シンガポールから引いて、タイから陸路、中国に運ぶらしい。
---そんなこと・・・

 羽田は、乱暴に徳利の酒をビールグラスに注ぎながら、口角に泡飛ばすように言った。

---そんなこと、発覚(バレ)たら、『ヨツトヨ』だけじゃなく、ウチだってタダじゃ済まされないっすよ・・・無茶だ。
---連中は、対中国向けにそういうルート作りを進めておきたいという腹なんだ。「二重ジャンプ」だから絶対
 バレないとタカ括ってる・・・。確かに、「輸出許可申請」に要する膨大な時間と労力を省きたいという気
 持ちはわからんでもないが・・・。

---いや、それはどこだって同じであって・・・そう言う問題じゃないでしょ。「企業倫理」の問題です。
  儲かれば・・・売れたら何でもヤルじゃ、そこいらのテキヤ商売と同じじゃないですか・・・。

 野上は口端に皮肉を込めた笑を刻んで、一人ごちた。

---(ふっ・・・辞めるか、ヤルかのどっちかしかない。宮仕えは辛いもんだ・・・)

 襖の向こうから聞こえて来るイサーン訛のタイ語が、一時の静寂を部屋の中に呼び込んできた。
 羽田は脂の浮く手塩の中の醤油を横目に、トロ身を喉の奥で丸呑みして、口を開いた。

---で、ヤルとなると誰がその・・・前線で?
---タイでの商売外の範疇だから、小島GMってことになるだろう。本社筋も手回しの早いことで、既に本人に
 は「因果」を含めてあるらしいよ。まっ・・・どっちにせよ、「共同正犯」だがね・・・。

 野上の太い肩の肉が、削ぎ落ちていくように小さく見えた。
 羽田は、何とか野上の力になってやりたかった。やらねばならぬのは会社命令であれば仕方ないとして、それ
をいかに完璧に工作するかしかなかったのだ。

---支店長・・・私にやらせてもらえませんか。言っては何ですが、小島GMでは心もとなくて・・・。
 私は、本社の誰それがどうなろうと、知ったことではありません、ただ、このタイ支店と支店長のお役に立ちたい
 だけですから。

 野上は苦渋の面相を隠すように深く項垂れていた頭(こうべ)をゆっくり上げた。

---羽田君・・・・すまん。・・・巻き込みたくなかったんだが、私も君と同じ考えだ。小島君ではきっと、「痕」を残
  してしまうだろう。
  私も、ここの支店(みせ)を守りたい、私がずっと育てて来たこの店を潰すわけにはいかない・・・。

---「万が一」の時があっても、ウチに火の粉が飛んでこないようにします。
  で・・・、彼女を貸して頂けませんか?
---・・・ん?

 野上は両の眉で「八」の字を書きながら小首を傾げる。

---支店長の新しい秘書の・・・、彼女は「使えそう」に思えます。

 野上の面相の色が元に戻るのとは逆に、羽田は鼻の奥で蘇って来る「チャイナ」の臭いに嘔吐しそうになった。

 (ふっ、企業のコンプライアンス?、オマケにまた中国かよ!)---
 吐き捨てたくなる苦い想いを、冷えた味の無い酒で流し込む羽田であった。
 
 一方で、湯気立つ珈琲の中へ「フレッシュ」を流しこんだ時の様に、吾身をその白い液体に擬えて、やがて濃い色
の液面に飲み込まれていく自分を斜に観ていた。

 
 
                                                             (第四話 了)

(第五話)


  あくる日から、羽田はその仕事だけに没頭することになった。

幸いにも、プゥイが退院し精気を取り戻しつつあること、そして彼女との事を一部始終ティックに話し理解を得られた
ことが羽田をそうさせていたのだった。

「A(エー)」にはGM付の秘書を兼務させるという形で、間接的に仕事を手伝わせることにした。
 とはいえ、輸出業務や機械に関する細かい知識など持ち合わせているはずもないだろうと思っていたので、最初
はこれといって与える仕事も無かった。
 しかし、羽田が毎晩遅くまで書類作りや業者との打ち合わせに追われているのを見ていたエーは、黙って羽田が
社を後にするまで一緒に残っていた。

---いいんだよ、もう帰って。特にしてもらう仕事もないから・・・。
---コピーでも、書類作成でも何でも言いつけて下さい。私はその為に羽田GM付きになったわけですから。

 エーは何かを訴えるような強い眼差しで羽田を見据えて言った。
 羽田は正直迷っていた。いくら秘書だといえども、何処かでこの仕事が「不正行為」でることを本人には言って聞
かせる必要があったので、巻き込んでしまっていいものかと躊躇していたのだ。
 そして、まだそこまでの決心が出来ていなかった。

---わかった・・・。でも、今日はもう遅いから帰りなさい。
---・・・・・・。

 エーはまだ納得出来ないでいるのか、デスクを離れる気配がない。

---よし、こうしよう。僕も今日は帰る。で・・・腹も減ったことだし、夕食を付き合ってくれないか?

 エーの表情が一転し、即座に返事が返ってきた。

---ハイっ。あの・・・羽田GM?、メニューのリクエストしていいですか?
---ん?・・・何でもどうぞ
---日本食が食べたいです・・・お寿司とか・・・。

 上目遣いにした大きな瞳に見詰められ、羽田は一瞬たじろいだ。遠い昔にもこんな感覚を経験したような妙な
動揺を覚え、胸の奥で小首を傾げた。

 エーを車に乗せると、運転手に行き先を「ワイヤレスRoad」の『鮨忠』と告げた。
 そこは羽田が、時々一人でふらりと訪れる、鮨ネタのいい店だった。

 右後部座席で、きちんと両足を揃え、窓の外を眺めているエーの横顔を、羽田は気取られぬように盗み見た。
『Dior』だろうか、白いうなじから湧き出てくる甘い香りが羽田の鼻に纏わりつき、また何かが増幅して来るのを感
じた。
 初めてエーを見た時に思ったように、やはりこの女(こ)からはタイ人の香りが漂ってこなかった。

 しかし、羽田のそういう思いを証明するかのように、エーは日本人ですら「ゲテモノ」と言って食べないようなネタで
も美味そうに食しているのを見るにつけ、この娘の育った環境に思いを馳せる羽田であった。

---ああーオイシイ。

 エーはしなやかな細い指で器用に箸を操り、生姜(ガリ)を一切れ口に運びながら片言の日本語を発した。
 
---へぇ、君は日本語も出来るんだね。
---いえいえ、母が喋れたもので、それを聞いて覚えた程度です。
 
 今度は完全にネイティブな米語で返してきた。

---お母さんは・・・今、何処に?
---母は、アメリカに居ます。華僑系の二世相手に弁護士をしています。

 (アメリカ・弁護士・・・華僑・・・)

 羽田は、騒ぐ胸の奥でそれらの言葉を反芻した。

 (まさか・・・)

---君のお母さん・・・なに人?
---中国人ですよ。父がタイ人なんです、といっても、もう亡くなりましたが。
---そうなんだ・・・。

 息苦しい胸の内が、少し静になった。(父親がタイ人であれば・・・それであれば、違う)
---なんか、変ですか?

 エーが横から羽田の目を覗き込んで意味ありげに問いかける。
 そこでまたしても、羽田は目の前の女(むすめ)の黒い瞳の魔力に呑まれた。その妙な「感覚」は、エーと共に
居る時間が増えていく度に増幅していった。
 
 羽田はそれを首を振って打ち消す代わりに、他の質問をして逃れた。

---お父さんは、死に別れらしいけど・・・病気で?
---父はPolice(ポリス)だったんです。私が五才(いつつ)の時に殉職しました。で、母は私を連れてアメリカへと
  渡ったんです。元々、弁護士の資格もアメリカで取ったらしくって・・・。
---ふーん、そっか。姉妹は?

 エーはゆっくり熱茶(あがり)を一口飲み、すっと肩を落とすように答えた。
---えっと・・・弟が一人。

 (いくつ?・・・)と問いかけるのを躊躇った。羽田の中で、何かがそれを止めた。そしてその代わりとして、もう
一つ確かめたくなって聞いた。

---お母さん、なんで日本語が出来るの?
---さぁー・・・私もそれはわかりません。お父さんが、日本人だったら解るんですけどね。
 
 エーはほんの少し肩をすくめ、おどけて見せた。そして、目の前の冷蔵ショーケースの中の鮨ネタに関心を寄せ
る風にして、ゆっくりと口を開いた。

---あの・・・羽田さん?
---・・・ん
---私、全部知っていますけど・・・。

 一瞬の間の後、羽田は両足から血の気が引いていくのを感じ、そして激しく打つ心臓から軋む悲鳴が聞こえた。
エーの落ち着き払った低い声音は、昔、「中共」の公安部員が羽田を恫喝してきた時と同じぐらいの冷たい切り
口であったので、羽田は激しく取り乱して問い質した。

---全部って・・・。
---ですから・・・全部です。だから・・・私、お力に成れるはずです。
---どういう意味?
---中国には、「コネ」があります。きっと、これは使えるはずです。

 (今度の仕事のことか?それとも・・・)
 
 羽田は背後から切迫して来る何物かに肩を震わせ、蘇る恐怖の記憶を叩き壊す様に怒鳴りつけた。

 (だから、どういう意味なんだ?!)

 

                                                             (第五話 了)



 



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