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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

第九章(一話~五話)

第九章 「生苦」 (第一話)

 羽田は、ティックの見舞いに向かう途中、車内から息子の圭介へと電話していた。
 先ほど、野上の口から吐露された「真実」が羽田をそうさせていた。呼び出し音が続く間、野上が
語ったそれがプレイバックされてきた。

---息子が・・・今、『経産省』に居る、息子が「ヤラ」れたんだ。

 野上は顔を赤らめ、吐き捨てるように言った。

---昨年、実施された上海での経済ミッションに同行した際に、間違いを犯したらしい・・・
---というと・・・相手はやはり「当局」絡みの?
---そうだ・・・私が、こういう仕事に就いていることも調査済みだったらしい。
---そうですか・・・・・・。

 羽田は詳細を聞きたいという感情を抑えるため肩で息をした。

---それで、息子に泣きつかれてね・・・。君なら解るはずだ、彼らは要求を飲ませるためにはどんな手段
  でも使ってくる。

---・・・・・・。

 羽田は、脳の芯に錐で穴を開けられるような痛みを神経中枢に覚えた。おそらく、野上の息子も同じ
痛みを強いられているのであろう。
 その痛みは野上への詰問も封殺した。
 

 息子が携帯のフリップを開けたようで、無愛想な声音が羽田の回想を一時停止させた。

---アンタか・・・なんだよ? 
---いきなりだな、圭介・・・。
---「66」の国番ですぐわかるさ、タイと言えば、アンタくらいしか知り合いは居ないからね。

 羽田は、自分の息子から「知り合い」だとしか認知されていないことに、鼻の奥が痛み誰にも零せない感
情が胸の奥に押し寄せてきた。


---いや、何でもないんだが・・・。俺の知り合いの息子さんも、『経産省』の官僚でね・・・その彼が、中国で
 問題を起こしたって聞いてな、ちょっと心配になっただけだ。

---問題?・・・ふっ、まさか「蜜罠(ハニートラップ)」じゃないだろうな?
---いや・・・そのまさか、だ。
---そんな事で電話して来たのか?・・・莫迦莫迦しい。
 
 電話の向こうで、一つ鼻を鳴らし口端に皮肉っぽい笑みを浮かべている圭介が観て取れた。

---いや、お前も知ってるはずだ、奴らの手口は巧妙だから・・・

 羽田の親としての杞憂を一刀に断ち切るように圭介は言い詰った。

---アンタと同じような失敗(へま)はしないよ・・・。親子して嵌められたんじゃ、洒落にもならないって。

---お前っ・・・。
---ふっ・・・全部知ってるよ。
---・・・・・・。

 羽田は、携帯を握る手に冷たい汗を感じ、微かに震えるそれを握り返した。

---反面教師を親に持つ俺が、嵌るわけないだろ。

 投げつけられたのが罵声であればまだ居心地としては悪くなかったかもしれない。しかし圭介の静かな声音
は、羽田の耳には閻魔の沙汰のように冷たく低く届いた。
 そして、自分の父親として男としての面子を完全に叩き潰された羽田は、壊れていくプライドを修復する気
力さえ興らず、萎えて悲鳴をあげている心をどこで癒せばいいのか、時空を彷徨った。

 帰る道を見失っても「絆」を辿れば元に戻れる---そんな淡い希望が打ち砕かれた。
 羽田は胸に去来する北欧の凍土のような寂寥感は、母の手と父の背の温もり以外に溶かして呉れるもは
無いと思った。そう、野上が長年築き上げてきた全てを投げ打ってまで息子に差し伸べる手の様に。



 病院に着くと、足早にティックの部屋へ向かった。
 早く・・・ティックの顔が見たかった。

---どうしたの・・・なんかあったでしょ?

 ティックがベッドに寝たなりで羽田に尋ねる。

---いや・・・別に。仕事がちょっとね。
---ふーん、そうなの・・・。

 羽田は、ティックの手を握り大きく肩で息をした。今此処で、この女に助けを求め癒されたいという自分が
居るのを知っている。しかし、そこまで自分を貶めるのが怖かった。

---駄目よ?・・・私に慰めて貰おうなんて。自分で乗り越えなさいよっ。

 ティックは片方の目を瞑って、そう羽田を突き放した。
 しかし、握られた手に少し力を込め、小槌を振る様に---(どうしたの?)と、もう一度問いかけている。

---(どうしたの?・・・そんな哀しい目をして)

---ティック・・・。

 ティックは身を起こし、その白く細い指で羽田の髪を掻き上げ、目の前の男の唇を吸ってやった。ティックは
今のこの男に言葉は必要ではない、いや、無造作にかける言葉の意味の無さを知っていた。

 羽田はそのまま、ティックの腕の中で抱かれた。
 観音菩薩の後光が瞼の向こうを照らされ闇に彷徨う哀れな男に救いの手を差し伸べている。
 羽田は柔らかい真綿の上で冷え切った身体を蘇生させていった。
 
---アナタの背負う業(カルマ)は私のカルマなの。アナタも私も一人じゃないのよ?・・・いいわね。


 羽田は男泣きに泣いた。

 そしてこの女だけは失ってはならない、と思った。
 
                                                           (第一話  了)

(第二話 )


 羽田は、息子の圭介が自分の身体の中に流れる父親の血を恨み、それを中和せんとして肩を怒らせて生きてい
かねばならない姿に身を引き裂かれる思いであった。もはやエリカも知るところであろう。圭介への電話の後、エリカの
携帯番号を探し出そうとして、それを止めた。娘のソレの方がもっと自分を痛めつけることになるだろうと、臆病にもそ
こから目を逸らしていた。遂に自分を天涯孤独に貶めた「闇」に羽田は空を切っても拳を打ち込んでやりたい怒りに
満ちていた。
 そして、初老の野上の憔悴しきった顔を思い起こし、「覇権主義大国」のどす黒い闇への憎悪は益々増幅してい
くのであった。その怒りの質は、正義感が沸騰して沸いてきたような純なものではない。
 まさに「生苦」---生ける苦しみの底から滲み湧いてくる決して何物をもってしてもそれを鎮めることの出来ない「業」
(カルマ)の為せる怒りのようなものであった。

しかし一方では、もはやこの任務(ミッション)からは逃げられないであろうとも考えていた。
 現在のメンバーが慎重に事を進めれば、然したる障害もなく上手くいくであろう。
 内部告発(リーク)でも無い限り、この事はいつしか時間の経過と共に闇に葬られることになるのだろう。
 羽田は、野上への恩を返すという理由でそれを粛々と成し遂げ、平穏な時間を取り戻せるならそれはそれでよいと
思った。
 しかしそんな風に歩みを進めようとする羽田の心に、エーが朱麗華の娘であったことと、彼女が言っていた、「私たちに
は時間が無い」という言葉の意味とが、晩秋の枯葉が風に吹かれ湖面に揺れ落ちて作った波紋の様に、どんどんその
疑念の輪が広がっていった。
 そして、「当局」がエーに約束したという「報酬」についても、羽田には絶対信じられないことであった。


---(そんな約束をするはずがない・・・)

「当局」が祖国を売った工作員をただで済ませるはずが無い。むしろ、すんなりアメリカへの亡命が黙認され、今になっ
も親子の身の安全が保証されていることに、自らの経験から照らし合わせても驚嘆すら覚えるものであったのだ。

---(そんな甘いヤツらじゃない。何か取引があったに違いない・・・)

 その羽田の疑念をエーが明かしていたことを思い起こした。

--(「当局」がその約束を守らざるを得ない物を私たち親子は持っています)

 麗華は亡命の際にソレを使ったに違いない。しかし、何故?「当局」は秘密裡に親子を抹殺できなかったのだろうか。
そんなに大きな「物(ネタ)」なのか?
 羽田は思考の回廊の出口を求めて彷徨った。
 
 そして、その時羽田は、いつしか前、息子の圭介が「いいことを教えてやろう」と言って流して呉れた、麗華に関する情
報を思い出した。
 圭介はそれを「国がひっくり返るような・・・」と形容していた。現体制にとっては何かかなり都合の悪い情報(ネタ)である
ことは想像が出来た。

--- ・・・・・・!

 羽田は回廊を彷徨う中で、二つの「出口」を見つけた。一つは、兎に角言われるままこの任務(ミッション)を遂行して
元の生活、いやティックとの新しい生活を手に入れること。そして、もう一つの「出口」。

---(もしも・・・もしも、そのネタを上手く使えば、「当局」に一泡食わせることが出来るかもしれない・・・。)

 羽田は、遠巻きに二つの「出口」の隙間から洩れ入る光の筋を眺めていた。どちらに歩を進めるのが良いのか逡巡を重
さね足踏みする自分に、せめてその色からでも最善の「選択」が導けたらと思った。
 
 いずれにせよ、麗華の持つ「情報(ネタ)」に関してもう少し知るべきだと思い、羽田は改めてエーを呼んだ。


---失礼します。

 エーが、珈琲カップを載せたトレーと共に羽田の部屋に入ってきた。
 羽田は、オフィスとの境を作るガラス窓のウインドカーテンを引きながら、改めてエーの横顔に見入った。確かに顎のライン
に麗華のそれを重ねることが出来る。少し下膨れした頬の肉も・・・思い出せば皆そこにあった。

---ああ、すまんね呼び出して。実は例の件で、もう少し君に聞いておきたいことがあってね・・・。

 エーは羽田の手指図により、ソファーに浅く腰を落とした。

---何でしょうか?
---君は「家族の完全な自由を手に入れるため」と言っていたが、それほどアメリカでは不十な生活だったのかい?

 エーは、口端に羽田に気づかれないような小さな「への字」を作って濁った色の声音で語り始めた。

---当事者にでないとわからない息苦しさです。それがもう十何年も続いているんです・・・気がオカシクなりそうでした。
  「CIA」と「当局」・・・両方からの監視の目は、それこそ一日24時間、閉じられることなく毎日追っかけて来ました。
  あの四つの目は、私達家族から「私生活」を完全に奪っていったんです。

---そのことについて、お母さんはどんな風に言っていたのかな?
---母は、アメリカへ無事亡命出来たことで、そのことは諦めている風でした。そして、私が母を詰るたびに困った顔で言って
 ました---(お願い・・・我慢して頂戴。あの目からは逃げられないけど、あれがこれ以上私達との距離を縮めてくることもな
 いから)って。

 羽田は、眉間に力を込めて、いよいよ「核心」の部分に手を突っ込もうとした。

---何でお母さんは、そう言えたんだろうね?何か大きな「物」を持っていると前に話して呉れたけど・・・何?ソレ・・・。

 エーはじっと羽田の視線を捉えたまま、ピシャリと答えた。

---ソレは言えません。それだけは、言えません・・・。

 羽田を諦めさせるだけの迫力は十分であった。

---じゃぁ、質問を変えよう。「当局」が本当に君たちに「自由」を呉れるんだろうか?それこそ信じられないよ。僕はね今回
 の仕事をやりこなすことぐらいは、何てことはないと思っている。しかし、「当局」は本当に「精密測定器」を手に入れたい
 だけなんだろうか?それがために君たちに払う「自由」という代償はあまりにも高いものになると思うんだがね・・・。
 
 エーは、鞄の中にある「抗弁」という札が尽きたことを知り、胆力ある声音で言った。

---現「公安部長」の周 英康に・・・確約書を書かせました。
---何だって?・・・

 羽田は、「公安部長」という役職が中国の警察・司法のトップであり、その権力は絶大であって、その者の画策で何人もの
共産党役員が更迭、粛清されてきたのを過去何度も見てきたのだ。正に「闇の中枢」と言ってもいいだろう。羽田を虜に
した当時の「公安部長」は曹 旺瞬という男であり、一度だけ見たその男には鋭い狐目だけが印象に残っていた。

 そして、羽田はその名を聞くに及んで、後ず去りしそのまま振り向くことなく全力疾走で遁走したくなるような、強い恐怖心
が押し寄せてきた。

 固唾を一つ、ゆっくり飲み込んで小さく言い捨てた。

---相手が・・・巨大(デカ)すぎる。

                                                           (第二話  了)


(第三話)

 羽田はしばらく考え込んだ後、自らに鞭を打つようにして、野上の部屋をエーを伴い訪ねた。

 野上が息子の為にこなさねばならない仕事(ミッション)であるが、その背景に蠢く黒い翳とその本当の意図する処が見えない
状態でどうしても身動き出来ないことを野上に告げた。

---つまり・・・君はこの仕事は単に我々に不正輸出をさせ、「精密三次元測定器」を手に入れるだけではないと言いたいのかね?
---確たるものはないのですが、それだけにしては手が込んでいる上に、動いてる黒幕が大きすぎるということなんです。

 野上は視線を鈍く重いものに変えて床に落とした。

---しかし・・・・・・。
---いずれにせよ、「当局」に従わないと息子さんの立場が危うくなることは分かっています。ただ・・・もし、手を汚さずに済むのであ
  ればそれに越したことはないのではないかと思いまして。
---・・・それはどういうことかね?

 羽田は、まだ完成していない設計図を広げた。

---もし、彼女の母親が持つ情報(ネタ)を上手く使えるなら、「当局」の手から逃れられるのではないか・・・と。

 羽田の声音は、未完成の絵図面ゆえに尻に向かい小さくなった。

---そんなことが出来るのかね?それに・・・危険過ぎるんではないのかね。

 野上は一縷の望みを「恐怖」で掻き消すように羽田に詰め寄った。
 しかし羽田は、今度は眦を上げ強い抑揚を付けてそれをはね返すように言った。

---確かにリスクは大きいかもしれません。しかし何処かで・・・何処かで断ち切らないとこの黒い「翳」はこの先ずっと我々に付き纏うの
  ではないかと思うのです。

 隣で大人しく聞いていたエーも頭(かぶり)を上げ、同調するようにそれを小さく振った。

---そうですね。そうです・・・きっと「当局」は私達をずっとこの先も見逃すことはないでしょうね、そうなんだわ・・・。

 エーは、積年の苦労を振り返りながら、腹を据えたように静かに自分に言い聞かせていた。
 三人各人の息使いは、デジタル時計の黒いドットの点滅とシンクロしながら時の中を彷徨っていた。
 それを、打ち破るように野上が身を乗り出し羽田の顔を覗き込んだ。

---いったい、君はどうしようと言うのかね。

 羽田は、野上の声音の変化に気付いていた。湿って重くなったそれは「苦悩」なのかそれとも他の何かがそうさせるのだろうか、まる
で別人の物のように羽田には感じられた。

---朱麗華に会ってみようと思います。

 深くそして細かい皺に囲まれた野上の目が、黒と白のコントラストの量を変えることなく、ずしりと羽田を見据えた。

---君は・・・会えるのかね?本当に、彼女に・・・会えるのかね。

 エーが、野上の羽田への詰問の意味を知らないからであろうか、短絡として横から口を挟んだ。

---私が案内出来ます。私も今、羽田GMがおっしゃった事にようやく自分で気付いた気がします。逃げてばかりでは何の解決にもなら
  ないんだと思います。この先もずっと・・・逃げてばかりでは駄目なんです。

 野上の視線が目の前の若い女を捉えて離さずにいたのを、羽田が解いた。

---会います。会って・・・私の事も含め「清算」して来たいと思います。

 野上は再びソファーの背に身を沈め眉間の溝の影を濃くさせ長考に入った。
 羽田は、野上を訪ねる前まではどうすべきか迷っていた自分が居たことを思い出した。何故、こんなにも簡単に「会う」と言ってしま
ったのか分からなかった。
 朱麗華に会うことは、昔の事を掘り起こす憂鬱さだけではなく、新たな危険と真っ向正面から対峙しなければならないハメになるので
あり、本当にそのことの意味を得心しているのか、自らに問いかけていた。

---(ただでは、済まないかもしれない。いや、無事に此処に帰ってこれるかどうかも分からないぞ・・・。)

 羽田のそれに応えるかのように野上は重い瞼を開いた。

---君は・・・此処に帰って来れないくてもいいのかね?それがどれだけ、危険なことだと分かっていないようだね。
 
 羽田も「盾と矛」を交互に使い応じた。

---支店長、ご子息を含めこの先彼らからは絶対逃げられなくなりますよ・・・それでもよろしいのですか?

---・・・・・・

 羽田とエーの四つの視線が野上を捉えて一歩も引かない。

---分かった、君たちに任せよう・・・。但し、逐一私には連絡を寄越して呉れ給え。君達だけを危険な目に遭わせることは忍びないが
  兎に角ソッチに賭けてみようじゃないか。
---はい、承知しました。

 羽田は、エーに向き直りその娘の決心の程を確かめた。エーもそれに応じて、小さくであったが、一振り固く頷いた。
---では、来週早々にもニューヨークへ飛びます。
---皆には、ニューヨーク支店での会議に出て貰うと説明しておくよ。くれぐれも先走らないように頼みますよ。

 野上は背の長い椅子に腰掛て二人を見送った。
 斜陽から生まれた長い影法師も二人を追うようにしてドアの向こうに消えて行った。


     *              *
 
 その影の頭(かぶり)は、首から「九の字」に折れたまま時折上下に微かに揺れている。

---(ハロー・・・)
---(計画通りです。次週、そっちに向かいますので)
---(ハイ・・・ハイ、了解しました)
---(では・・・失礼します)

 影は床に顔を押し付けて主(あるじ)の姿を見上げている。
 そして主の腹の辺りの色が今日は一層濃いのを見つけ、小躍りした。

                                                             (第三話  了)


(第四話)

エーが、羽田に詰め寄って来た。

---先ほど支店長とお話の時に、羽田GMは私の母に会って「清算」して来るとおっしゃっていましたね?

 羽田は、袋小路に追い込まれたことを悟った。

---ああ、そう言った。
 
 エーは無言で(どういうことですか?)とさらに尋ねている。

---向こうに着いたら全部話すよ。それまではお母さんには何も連絡しないで欲しいんだ。きっと・・・約束するから。
---それは、業務命令ですか?
---そう取ってもらっても構わないが、君にも関係のあることだから、お母さんに会ってからちゃんとした形で話をしたいということだ。

 エーは真っ直ぐに自分を見据えて話す羽田の視線を信頼しようと思った。

---分かりました。おっしゃる通りにします。
---じゃぁ、出発は来週の月曜日だ。くれぐれも「当局」には知られないようにね。
---はい、心得てます。

 羽田は、その足で週末に病院を退院すると言っていたティックの元に向かった。
 途中、日本の温室栽培の苺を二パック買って行くことにした。以前どこかの日本料理屋で食後に出てきた苺を、美味しいと
言ってチェンマイかそれとももっと北で作ったものなのかと、店員に尋ねていたのを思い出したのだ。
 羽田がその時---(これは日本からの空輸物だ)と言った時、ティックの残念そうな顔が可愛かった。
 そして、ポツリと吐いたティックの言葉が羽田の胸の奥に仕舞われたままだった。

---日本に行きたいな・・・。

 その時は柔和な微笑みを返すだけであった。
 羽田は苺ともう一つの贈り物を携えて病室のドアを開けた。

---随分顔色が良くなったな・・・それにふっくらして来たぞ。
---太った・・・わたし?
---ああ、ぽっちゃりだ。それ以上は危険信号だな。

 ティックはコンパクトを開けその鏡に自分を映し、さかんに頬の辺りを撫でている。

---ほら、日本の苺だよ。全部食べてもいいよ。
---一緒に食べましょ。これ以上太って見捨てられたら大変だもの。

 羽田は微笑を返し、もう一つの土産を渡そうとしたが、その前に今回のアメリカ行きのことを話しておかねばならないと思い直した。

---実は、来週からニューヨークに行くんだ。
---ええー、いいわねー。お仕事?
---いや・・・。

 徐々に硬くなっていく羽田の表情から、「何か」あると感じたティックは、背筋を伸ばしてベッドに座りなおした。

---何か、ワケありなのね? ちゃんと言って、お願い。

 羽田は、ソレを全て話すかどうか逡巡したが、予想されるすべての事を考えれば、話しておかねばならないと思った。

---実はね・・・。

 羽田はティックの横に腰掛けて一つずつ丁寧にティックに語り始めた。
自分の過去、そしてそれに関わる朱麗華の事、そして今回持ち上がってきた「問題」についてと、それら全てを話し、その為にはどうし
てもアメリカに行って麗華に会わねばならないと最期に締めくくった。だが、その事が危険を伴うことについては言えなかった。

---駄目よ。
---・・・・・・?
---そんなとこ行っちゃダメ。お願いだから行かないで。

 頭のいい女である。全てを予見したのであろうか、弱弱しく懇願する視線は、羽田の後ろ髪を強く引いた。

---ティック・・・俺にとっては今回のことは仕事とは思ってないんだ。俺がこの先やり直せるとしたら、この道を選んできっちりカタをつけて
 こなけりゃだめなんだ・・・分かって欲しい、お願いだティック。

---もしも・・・

 ティックは羽田の勢いに押されたが、一滴、一滴(ひとしずく)言葉を繕っていく。

---もしも・・・もしもアナタの身に何かあったら、私はどうすればいいのですか。

 羽田は胸のチクチクする痛みと、鼻の奥から涙腺を刺激する切なさに抗しきれず上目遣いに視線を彷徨わせた。

---私を一人っきりにする気ですか?・・・本当に天涯孤独にする気ですか?

 以前、羽田はティックに尋ねたことがあった。

 (本当に君は天涯孤独なのか?)

 ティックの父親は事業に失敗し自ら命を絶ち、母親はその前から別の男の元に走って行き方知れずであった。
兄弟姉妹は無く、本当の「天涯孤独」だと語っていた。

(お父さんが、別の女の人に生ませた子で・・・私の「妹」がバンコクのどこかに居るとは聞いてるけど、会いたいなんて思ったことはないわ)

 そんな風に語気を強めて言った後、羽田の胸にしがみ付いて来たティックの背の冷たさが思い出された。

---俺はきっと帰ってくる。・・・俺と日本へ行ってくれないか?

 テッィクの目は親の姿を探す子供のように羽田を捉えて離さないで居る。

---もう今の仕事を辞めて翻訳か通訳の仕事でもしながら、京都でゆっくり暮らしたいんだ。どうかな・・・・・?
---いいの・・・?、ほんとに・・・いいの?
---京都の冬は寒いけど・・・イヤだと言っても連れていくけどね。

 ティックは胸騒ぎを感じつつも、それを微笑みで押し隠して羽田との将来に夢を託した。

---わかったわ。でも、約束して! 絶対、私を京都に連れて行くって。
---ああ、きっとだ。俺もすっごくそれを楽しみにして帰ってくるから。

 ティックは、ベッド横の収納ボックスに手を伸ばし引き出しを開けた。

---ねぇーこれ持って行って。私の「お守り」・・・。

 そう言って、ティックは表紙カバーも無くなった一冊の単行本を羽田に手渡した。背表紙の淵がボロボロに擦れ落ちていて中表紙の色
はセピア色した写真のように古ぼけてその色を無くしたものだった。


  ------『恋歌』 五木寛之著------ 


---それはね、私が「タマサート」で日本語を勉強し始めた頃初めて買った日本の小説よ。「スクンビッツ」の古本屋さんに行って色々探して
  みたんだけどね、その時に解った漢字が「恋」と「歌」だけだったのかしらね、中も確かめないでそれ買ったの。

 羽田は、その女をもう一度抱きしめたくなった。

 『恋歌』はその行間に小さな小さなタイ文字で「翻訳」されていた。日本語の文字を探せないくらい、びっしりそこに書き込まれていた。

---これで勉強したっていうのか・・・。

 ティックの書き込んだ小さなタイ文字を人差し指の腹で追いながら、羽田は三十年近く前に読んだその本の内容を思い出そうとしたが
 文字が滲んで追えなかった。

---消えかけてるよ?タイ文字。読めないよ・・・・・、こんなじゃ読めないよ・・・。

 ティックが俯いて静かに笑っている。

---いいのよ、それ持っていて呉れるだけで・・・。 「お守り」だから私の・・・・・・。

 ティックは自分が片時も離したことのないものを羽田に持たせることで、騒ぐ胸の不規則な鼓動を鎮め様としたのかもしれない。
 だが、それを羽田の手からではなく他の者から手渡され戻って来る結果になろうとは、考えもしなかったことであろう。

 鮮やかな苺の色が不吉に見えて仕方なかった。
 

                                   
                                                              (第四話 了)

(第五話)

 
 ドムァン空港からニューヨークへは長旅であった。

途中経由した「成田」で、船外に出るときに頬の上を晩秋の夜風が通り過ぎて行った。それは透き通って懐かしい色をしていた。
エーは初めて見る日本の景色に興味深げで、何かと尋ねてきた。

---羽田さんは、大阪の方でしたよね?京都には近いんですか?

---ああ、電車で一時間くらいの距離だな、学生時代は京都で暮らしていたんだよ・・・俺。
---へぇーそうなんですか・・・。母がよく京都の話をして呉れたんです、良い処だから一度行ってみたいって・・・。

 羽田は、麗華と一緒に過ごした時間の間で自らの学生生活について多く語っていたことを思い出した。

---京都はいい街だったな・・・また暮らせる日が来るといいんだけどね。

 傍らの女がティックであればと思う自分に苦笑いを零す。

---私たちは今、マンハッタンでも日本人が割りと多く住んでいる処に居るんですよ、不思議でしょ?
---そうなの?「Chaina Town」かと思ったけどね。
---母が日本贔屓で・・・週に一度は必ず寿司バーに行ってました。どこで覚えたんでしょうね?日本食の味・・・。

 羽田はエーが全てを知っていて尚且つ謎掛けをしているのかと、エーの横顔を覗き見た。
 あの頃、数少なかった日本食の店に何度も麗華は付きあって呉れた。タイ人に日本食を強要するよりは無理は無かったであ
ろうと、時々バンコクで思い起こしていた。


---さぁ、しばらく眠ろうか。向こうに着けば何かと忙しいかもしれないしね。
---はい、わかりました。私は空港でお別れしてそのまま母の待つ家に帰りますけど、羽田さんはどこのホテルを?
---「Park Avenue」 の『KITANO HOTEL』に泊まる予定だ。
---そうですか、それなら「メトラノース」で30分くらいですね・・・私達の家から。
---そっか・・・。

 羽田は、ニューヨークで待ち受けているものに思いを巡らせるが、心地良い睡魔がそれを白い霧の向こうに押しやった。

 十一月のニューヨークはバンコクに居た者には堪えた。用意して来たロングコートが薄手であることを思い知らされた。
エーはダウンジャケットを羽織り毛糸のキャップで白い耳を隠していた。
 一人で大丈夫だと言うのを制して、エーはホテルまで送って呉れた。

---有難う・・・。助かったよ、気を付けて帰るんだよ。
---はい。では、今晩にでも母宛に電話を頂けますか?七時には帰っていると思いますから。

 そう言って、エーは自宅の電話番号を書いた紙片を羽田に手渡した。

---わかった・・・。私が電話するまでは、詳細は話さないでおいてくれ、いいね?
---承知しました。では、ひとまず失礼します。

 羽田は、エーの後ろ姿が地下鉄の階段の奥に消えるまで、それを見送った。

 羽田はチェックインを済ませ、ベッドに冷えた身体を横たえた。
 十数年会っていなかった「あの女」に会う・・・それを考えると少しばかりの不安と気の重さが襲ってきた。

---(さて・・・何から話すって言うんだ?)

 思案を巡らている傍らで、日本に電話しなければならないことを思い出した。
 成田で電話しようと思ったが、エーが離れず自分の傍に居たので出来ずにいたのだ。
 野上の息子が『罠』に嵌った「上海経済特区ミッション」に関する資料と現在の「当局」の勢力図について尋ねるつもりで
あった。
 自分は現場の一線を離れたが、当時の部下は今では課長補佐級まで昇進している。

---もしもし・・・羽田と申しますが、加賀さんですか?
---・・・・・・羽田さん?
---すまんね、急な電話したりして、迷惑だったかな・・・。
---とんでもないですよ、羽田さん。他の者はどうか知りませんが、私は違いますから。今、バンコクにいらっしゃるとは聞いていた
  んですが・・・お元気ですか?

---ああ、お陰さまで何とか生きてるよ。
---色々、有りましたけど、私は今でも羽田さんの部下で良かったって思ってますから。

 羽田は、加賀のその言葉に目頭を熱くした。

---有難う・・・そう言ってくれるのは君だけだよ。
 
 胸が詰まって声にならなかった。

---で?・・・何でしょうか。私に出来ることなら・・・何でもお聞きしますが。

---ああ、そうだった。実は、去年に実施された「上海経済特区ミッション」に関する資料と、現在の中国の中央当局の勢力図
  を知りたいんだが・・・。ああ、それともう一つ、野上という名の経済産業省の役人が居るはずなんだが、その人のことも調べ
  られたら頼みたいんだが・・・そのミッションンに参加していた人だ。

---その程度のことなら直ぐにでも用意できますよ。でも・・・またなんで?
---いや・・・理由は聞かないでくれ。君には迷惑をかけたくないからね。
---わかりました・・・。今、どちらに?

 羽田は、自分のメールアドレスと日本の携帯電話の番号を加賀に教えて電話を切った。
 此処で使えるSIMカードを手に入れることも考えたが、取り敢えず日本、バンコク、ニューヨークと一台で使える日本の携帯電話
のローミングサービスを使うことにしていた。

 バンコクに残して来たティックにも同じ電話番号を伝えてある。
 羽田は、無意識のうちに置いた受話器を取り上げ、ティックの携帯電話の番号を押していた。

 これから何が起こるのか分からない状況下で、一番聞きたい声であったのかもしれない。
 時差を考える余裕もなく掛けてみたものの、ティックはそこに出て呉れなかった。一抹の寂しさが羽田の胸をチクリと刺した。

 羽田は、少し早めの昼食をホテル内の『白梅』という懐石料理の店で取ることにした。
 揚げたての天ぷらと赤だし、そして新潟の白米は格別美味かった。そして、いつもながら日本という国のパワーを想うのであった。
ニューヨークの中心であるマンハッタンで「こしひかり」を食べる・・・そういうことは外国でしかわからない「日本の味」であった。

 早々に加賀から折り返しの電話が入った。

---加賀です。ご要望のもの全てメールに添付して送っておきましたんで、確かめてください。
---随分、急いでくれたんだね・・・有難う、本当に助かるよ。
---またなんかあったら、いつでも言って下さい。私は・・・今でも羽田書記官には戻ってきて貰いたいと思っているんですよ。
---何を莫迦な・・・。

 そう言ってはみたものの、そういう人間が一人でも残っていたことに再び胸を熱くする羽田であった。

---そうそう・・・圭介君も頑張っているみたいですよ。
---ああ、宜しく頼みます。我侭息子で、口だけ達者だけどね・・・。
---いえいえ、的確な状況解析は父親譲りじゃないんですか?ソックリですよ・・・ハッハハハッ。

 羽田は、丁寧に礼を言って電話を切った。「裏」の無い加賀の性格と快活さが新鮮に感じられ何か少し救われた気がした。

 (父親譲りの?)

 息子が自分と同じ道を歩き、霞ヶ関のフロアを志も高く闊歩している姿に想いを巡らせ、羽田は目を細めた。

 ホテルのビジネスルームでメールを開き、それを印刷だけして部屋に戻った。
 朱麗華に会うまでに目を通しておこうと思ったが、満腹感から再び押し寄せて来た睡魔に邪魔をされその束を握ったまま眠って
しまったらしい。

 目が覚めると陽はとっくに落ち、窓ガラスは外気を遮断する代わりに沢山の汗をそこに流しその向こうに夜景を映していた。
 
 腕時計の針は7時を少し回ったところを指していた。

 (しまった・・・寝入ってしまったか)

 羽田は、下準備も無く麗華に電話せねばならない自分の失態を悔いた。
 
 そして、加賀が寄越して呉れた資料をベッド横の絨毯の上に撒き散らかされていたのを、無造作に掻き集め鞄に詰め込んだ。


  しかし、ベッド下に滑り込んでしまって羽田の目には触れることがなくゴミ箱行きとなった資料が一枚あった。
 
 その資料のタイトルは「上海経済特区ミッション」参加者名簿とあった。

 それは羽田の運命を別ける「一枚」であった・・・。


                                                            (第五話  了)
 




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