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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

最終章(一話~五話)

 最終章「恋歌」ー1


 羽田は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、半分近くまで一気に飲み干した。
 極度に効かせたエアコンディショナーで部屋がカラカラに乾いているようだった。

 一息ついて煙草に火を点けると、いよいよ朱麗華の声を聞かねばならない現実がそこまで迫っていることに気が重く
なる羽田であった。
 十数年ぶりに連絡を取り、いきなり話をする内容が『公安当局』に喧嘩を売るというものであったのだからなおのこと
である。
 大きく肩で息を一つ吐いて、受話器を上げた。

---ハロー・・・
---羽田さんですね?

 不思議な感覚であった。たった今まで忘却の彼方にあったその声が麗華のものであると直ぐにわかった。

---久しぶりだね・・・。
---何をしに来たの?どういうことか分かっているの?

 すぐさま豹変したそれは羽田の甘い記憶の糸を断ち切った。

---・・・・・。
---娘から全て聞きました。

 羽田は胸の内で舌打ちをし、眉間の皺とともに目を閉じた。あれほど電話するまで何も言うなと言っておいたのに。

---闘わなくてはいけないんだ・・・奴らと。協力して欲しい、頼む。
---それがどんなに危険なことか分かってるの?
---ああ、分かってるさ。
---分かってないわっ!

 強い声音が羽田を叱責する。

---今も、その部屋のドアの向こうで「当局」の人間が貴方を監視しているかもしれない・・・それ位危険なことなのよっ!
---・・・・・・。

 元工作員の麗華の言葉は、ズシリと胸に堪えた。
 電話の向こうで麗華が息を整えている気配がする。

---私がそちらに行くまで一歩も部屋を出ないでください、いいですね?
---ああ、わかった・・・これから?
---ええ、月華・・・いや娘ともども伺いますから、待っていて下さい。
 
 エーの中国名が朱月華だとその時初めて知った。

 羽田は、電話を切ると腰からベッドに崩れ落ちた。
 確かに麗華の言う通りかもしれない。十数年前の奴らのやり方を思い出せば、それも当然の事のように思えてきたのだ。
今更ながらに、自分がこれからやろうとしていることの無謀さを思い知らされた。

 一時間ほどして部屋の呼び鈴が鳴った。
 ドアチェーンが掛かっているのを確認してゆっくりドアを開いた。麗華とエーが並んでそこに立っていた。

---さあ、入って。

 二人を招き入れる際、廊下の左右を確認しドアの施錠に気を配ったのは、先ほどの麗華の叱責がさせたことだ。

 ソファーに腰掛けるよう誘う羽田の目には麗華しか映っていなかった。
 エーは気を利かせたつもりなのだろうか、一人で文机の椅子に腰掛けた。

---久しぶりだね・・・。

 第一声は、先ほどの電話と同じであった。いや、それしか出てこなかったのかもしれない。

---羽田さん・・・このまま黙ってバンコクに帰ってください。お願いです・・・。

 麗華は再会の言葉も避け懇願するように言った。
 四十を超えた女の姿には、老いの証が散見されたが、羽田の目にはあの頃の麗華と何も変わりなく見えた。

---それは出来ない。俺だって、自分の人生に決着を付けに来たんだ。
---あの時のことは深くお詫びします・・・この通りですから・・・。
 
 麗華は膝頭まで深く頭を垂れた。

---そんなことはもう昔の話だよ・・・。それより、俺にはこれからの事の方が大事なんだ。

 (そんなこと・・・、これからの事?)

 麗華の胸を冷たい風が通り過ぎていった。

---どうしても・・・「当局」に逆らうつもりですか?
---逆らうんじゃない、彼らに手を引かせるだけだ。汚いやり方ばかり・・・反吐(へど)が出る。

 窓ガラスの向こうで『セントラルパーク』の高い木々が、木枯らしに揺れているのが見えた。昼間見たそれは紅や黄に
染まって華麗な晩秋の装いであったが、闇夜のそれは色を無くし、嵐の前を予感させるように騒々しく身を捩っていた。

---「周 英康」は恐ろしい男ですよ?、あの「曹 旺瞬 」でさえも粛清した男です・・・。

 羽田は、あの鋭いキツネ目を持った男が、どす黒い巨体の何者かに呑み込まれていくのを想像していた。

---君が持っている「カード」を切れば、奴らは手を引く・・・そのはずだが、違うか・・・・?
---・・・・・・・。

 麗華は羽田の目をじっと見据え押し黙っていた。
 羽田もそれに強い意志を込めて対峙した。息苦しいばかりの緊張の糸に縛られたまま三人は、身じろぎ一つできずに
いた。

 やがて麗華が強張った両の肩を降ろし、息をゆっくり細く吐いた。

---・・・このまま、バンコクへ帰ってください。後は全部私に任せて・・・帰ってください、お願いです・・・。
---君だけを闘わせるつもりはない・・・俺も一緒だ。

 再び時の移ろいが凍った。

 その間、羽田は過ぎ去った十数年の月日を思い、そこに麗華の存在があったのだろうかと自らに問うていた。
 確かにあの折はこの女に嵌められたと思っていたが、時が過ぎるとその恨みの念は消え失せむしろ真剣に向き合った女
への思慕の念すら湧いてくることがしばしばあったことを認めていた。

 もっと違った状況で麗華と再会出来たとしたら・・・そんな風に考え、掛け違われた「糸」の絡みを解こうとした。
 
 長い黒髪が微かに揺れ麗華が顔を上げた。
 

---わかりました・・・明日、十時に月華を迎えに来させます。ですから、それまではこの部屋から一歩も出ないでくださいね、
  いいですね?

---ん・・・そうしよう。

 エーは不服そうな視線で麗華に詰め寄ったが、諌められ麗華の後ろから部屋を出て行った。
 別れ際、麗華は振り返って羽田に視線を寄越してきた。
 それは何か言いたかったのだろうか・・・。

 一瞥を終えると再び踵を戻し廊下の角の向こうへと消えていった。


 ---------------------------------


---月華・・・明日、桂林と一緒に来て羽田さんを部屋に釘付けにしておいて頂戴。その間、お母さんが全部(すべて)片付
  けてくるから。

 
---桂林も?・・・あの子は関係ないでしょ?
---あの子も・・・男だから、何かの役に立つかもしれないわ。

 (それに・・・)

 麗華はその言葉の先を飲み込み、フロントガラスの向こうの闇を見据えていた。

---お母さん・・・羽田さんと昔どういう関係だったの?

 月華の強い関心の視線から逃れられず、麗華は強張った視線の糸を解くと柔和な笑みと共に答えた。

---母さんが本当に愛した男(ひと)よ。

 月華は、母親の目尻の皺の陰に漂う微かな色を、同じ女として見逃さなかった。


                                                            (第一話  了)

(第二話)


 羽田は明日に備え早めにベッドに入ったが、昼間寝てしまったことと時差が影響してなかなか寝付けずにいた。
 仕方なく冷蔵庫を探って、濃い目のブランデーの水割り作り一気に煽った。小瓶のそれが無くなるまで飲み続けたものの
眠気はなかなかやって来てくれなかった。

 いつ眠りの淵に入ったのか、気が付くと窓の外には太陽が昇っていた。時計はAM7時前を指している。
 夕べの酒が残っているのか、少し頭が重かった。熱いシャワーで目を覚まし更に濃い珈琲でも飲めば覚醒するだろうと、思い
きってベッドを抜け出た。

 ろくに着替えも持って来なかった羽田は、ネクタイだけ省いた三つ揃えのスーツ姿で、小脇にコートを抱えて部屋を出た。
 エレベーターの中で身づくろいを正していると、胸のポケット辺りに硬く強張ったものが入っているのに気付いた。手を滑り込ま
せてみれば、それはティックが渡して寄越して呉れた単行本であった。

 (お守りだから・・・)

 急にティックのことが恋しくなった。

 羽田はそれをもう一度ポケットに戻し、人影も疎らなロビーを過ぎてカフェラウンジに向かった。
 硝子張りのそこは秋の「セントラルパーク」を額縁に嵌めて見る事が出来た。ジョギングをする人影が小さくであるが見て取れ
澄み切った空気を胸の奥底まで吸い込みたい衝動に駆られた。
 しかし、麗華の言いつけ通りにするならば、外に出ることは許されない。羽田は、ゆっくりと首を左右に旋回させ自分を見張る
人間の有無を確かめてみた。

 後ろの席にはフランス人の夫婦であろうか固いパンをちぎりながら無言で朝食を取っている。その向こうには昨日の相場が気に
なるのだろうか業界新聞を食い入るように見詰める白人の男がいた。
 首の位置を元に戻して反対側を探ってみても、屈強で危険な匂いのする人間は見当たらなかった。

(考えてみれば・・・俺が此処に来ていることを当局の誰に分かるって言うんだ?)

 そんな風に考えると身体の芯から気が解けていくのが分かり、残った珈琲の味を楽しむようにゆっくりと飲み干した。
 そして腕時計の時間を確かめ、空でバンコクの現地時間を計算すると、フリップを明けた。

(おそらくバンコクは夕方近くだ、電話にも出られる時間だな・・・)

 呼び出し音がトラックを周回する様に繰り返されたが、ティックは出て来なかった。

(何やってんだ・・・)

 諦めて席を立ち上がると、ロビーを通り抜け玄関へと向かった。ドアボーイが慇懃な朝の挨拶と共に、羽田を外に解放して呉
れた。
 頬を刺すような朝の冷気が先ほどの濃い目の珈琲よりも効果的に目を醒まさせてくれた。
 信号を渡り、公園へと足を踏み入れた。持ってきたコートに袖を通し、襟を立ててゆっくりとした足取りで歩いて行く。

 広葉樹の殆どは歳を取って色を変えた葉を土の上に落としていた。それらを踏みしめて歩くことに最初は戸惑いすら覚えた。
靴の底から葉っぱの最期の呻きが聞こえて来る様で黒い土の部分を見つけ選んで歩いた。

 此処が人工的に造られた公園とはとても思えなかった。

 ニューヨーカー達の憩いの場---それを納得させられる想いであった。

 あちらこちらでハンバーガーの屋台が既にOpenしていて、ジョギングで空かした腹をそれで満たそうとしている客が垣間見えた。
 
 羽田は、人造の湖の辺でベンチを探しそこに沈むように腰掛けた。朝の陽光が、湖面に反射し羽田の頬の辺りで揺れている。
 コートの両ポケットに手を深く入れ、立てた襟裾からは吐いた息が白く色を変えて漏れ出ている。
 羽田は自分の身体の中にこの澄み切った空気を流し込み淀んで汚れているものを追い出そうと試みた。

 二度、三度大きく吸い込んだ息が、肺の壁を通して沁みるように吸収されていくのが感じられ心地よかった。
 目を閉じ瞼の裏で湖面からの陽光を受け止めながら、もう一度大きく息を吸った。

---Excuse me・・・What time is ・・・?

 背後から突然の問いかけに無防備な羽田は驚き立ち上がり振り向くとそこには、ジョギングウェアに身を包み毛糸の帽子を深々と
被った黒人の男が立っていた。その肌の色と相反した白い歯を零して笑みを寄越している。

 気を取り直して腕時計を探って応えてやった。

---ああっ・・・8時だな。

 羽田は無防備であった自分の心臓が、唐突なことに怯えて高鳴り躍っているのを感じ取っていた。
 その男は、軽く会釈して礼を言ってゆっくり走り出した。

 羽田は先ほどとは違った趣で大きく肩で息をして吐いた。
 白く色を変えたそれは、安堵の色にも見て取れ可笑しくて苦笑いを零す。

 柔らかい色に移ろいで行く陽光が眩しくて目を細めた。

---(んっ・・・)

 右背部で重い衝撃が走った。首を捩ると、さっきの男が背後から身を預けるようにして息を荒立てているのが見て取れた。

---(何だ・・・・・・?)

 男の煙草臭い息を鼻の下で感じた。肉をねじ切り、燃やし尽くすようなが激痛が下半身を襲って来る。
 男は勢いを付け羽田の身体から離れると、今度は正面に回ってもう一度その全体重を預けるようにして迫って来た。
視界の裾で陽光に反射する金属の鈍い光が見えた。

 ドスン。 グ、グッ。

 そんな形容が当たるだろうか男の身体がもう一度羽田の身に纏わり付いて来た。

 今度はチクりとした痛みが左胸辺りに走った。黄色の葉の上に鮮血がボトボトと音をたてて落ちている。
 男は左右を忙しく確かめると、その場から勢いよく走り去った。羽田はその背中を捕まえる意識なのか、左手の指を鍬の刃のようにし
てその後ろ姿に向けた。

 羽田は、痛みに耐え切れず膝から崩れ落ちた。
 右脇腹を庇うように押さえていた手を開いてみるとそこは真っ赤な血に染まり、初めて自分が刺されたことを認識した。
 次には上半身の重みも支えきれず、前頭部で地面を打つように崩れ伏した。

 自分の息遣いだけが聞こえてくるような静寂の中で、一日の営みの開始を告げる小鳥たちの囀りがくっきりと耳に入って来た。
 羽田は得体の知れぬ恐怖に襲われ激しく身体を震わせた。
 身をへの字に丸めて容赦ない激痛と闘おうとするが、頬から伝わる地面の冷たさとは対照的に下腹部の焼けるような痛みは収まる
気配すら無かった。
 
 人気が比較的少ない場所なのだろうか、自分を発見して呉れる者の姿を狭い視線の端で探そうとした。
 
 かなりの時間が経った様に思えた。
 徐々に意識が薄らいで行き、替わって眠気が襲って来た。

 もう寒さも感じていない。

 今まで見ていた周りの景色は輪郭を失い薄く暗くぼやけていく。

 瞳のフォーカスが生きた筋肉で引っ張られて、開いたり閉じたりしていたものが、その支えを無くしやがて小さな点になろうとしていた。
 
 (俺は・・・死ぬのか?)

 遠のく意識を覚醒させるかの様に、背広のポケットの中で携帯電話の着信音だけが鳴り響いていた。その時の羽田にはその電話
の主がティックであることを確かめる力はもう無かった。

 右手の拳に最期の力を込めて遠のく意識を呼び戻し、破れちぎれんばかりに眼球を司る筋肉に力を込めて末期の肉声を吐いた。

---助けて・・・Help!! 、Help me !! 

 頬を伝う熱い一筋が、黒い土の上に零れ落ちた。


 ------------------------------------


 地下鉄の階段を昇り「パークアベニュー」に出ると、けたたましい救急車のサイレンとパトカーのそれが双方向からやって来てすれ違って
行くように聞こえた。
 道の向こうで人が群れ騒いでいるのが見える。

---なんかあったのかしら?

 朱月華は弟の桂林とそれをぼんやり眺めていた。
 しかし次の瞬間不吉な予感に襲われ、野次馬の一人に事の次第を問い質して愕然とした。

---ニホンジンのオトコが刺されたらしいぞ。

 腰から下の力が抜け舗道にへたり込んでしまいそうな姉を弟の桂林が支えた。

---羽田さんだわ、きっと。羽田さんがっ!! 

---兎に角、身元の確認と搬送先の病院を調べなきゃ!俺はそっちをやるから、姉さんはホテルの部屋に行ってみて、もしかしたら別人
  かもしれないし。
 月華は弟の落ち着いた判断に気を取り直し、その指示に従うことにした。

---わかったわ・・・。

 桂林は行き交う車を縫う様にして向こう側に走って渡った。
 その声が聞こえるかどうか分からないような場所から、桂林が口に両の手を拡声器替りに何かを大声で付け加えるように言っている。

---それと、母さんにこの事知らせるんだ!いいねっ!・・・後は携帯で連絡を取り合おう!

  
 その時月華の目に映った弟の横顔が、何故か羽田のそれとだぶった。

                                                               (第二話 了)
 

(第三話)

 月華の淡い期待は裏切られた。
 部屋の留守をフロントに尋ねると、数分後ドアボーイの言から、羽田らしき日本人が今朝ホテルを出た後セントラルパークに向かって
歩いて行くのを目撃されていた。
 それでもまだ、桂林からの連絡に一縷の吉報を期待しつつ、母親の麗華にこのことを知らせた。

--- ・・・・・・。

 電話の向こうで母親が絶句し何か呻いているのが分かった。

---母さん、大丈夫?
---二人は、引き続き羽田さんの消息を確認して頂戴。何か分かったら、すぐ連絡頂戴、いいわね?
---わかったわ、で・・・母さんは?
---奴らと決着をつけてくるわ。もし羽田さんに手を出したというなら、こっちにだって覚悟がある・・・。

 月華は、鬼気迫る母親の言に羽田への想いを観た。

---無茶しないでね、お願いだから。
---分かってるわ。でもね・・・月華、奴らは最初っから羽田さんに目を付けて此処に誘き出したような気がしてならないの。
---どういうこと?
---「例のもの」を差し出さない私たちに、業を煮やした「当局」が仕組んだ罠じゃなかったのかって・・・そんな気がする。
---じゃ、私はその罠の囮にされたってこと?
---詳しくは分からない・・・だからそれを確かめてくるわ。場合によっては・・・許さない、絶対に・・・。
  もし・・・母さんに何かあったら、「手順」通りやるのよ、いいわね?

 麗華は「当局」の人間に会いに行くと言って電話を切った。麗華の言う「手順通りにやる」といのは、「当局」が今まで「家族」手を出そう
にも出させなかった秘密(ネタ)をCIAルートともう一つのルートで流すということである。

 母親には自分が囮にされたのかと詰め寄った月華であったが、よく考えてみれば自分たち家族、いや「当局」の指図に従わない母親を
陥落させるための囮に使われたのが羽田であって、自分はその小道具の一つだったと思いなおすのであった。

 ほどなくして、弟の桂林から電話があった。

---姉さん・・・?
---どうだった、なんか分かったの?ねっ・・・!
---やっぱり羽田さんだった・・・。警察の話じゃ、所持品の中に羽田さんの名刺入れがあったんで間違いない。
---で・・・どうなの? 大丈夫なの?
---分からないよ、そこまでは・・・。運ばれたのはホレストヒルの大学病院。
  兎に角俺はこのまま病院に向かうから。姉さんもすぐに来て、俺・・・羽田さんの顔知らないし。

 確かに桂林の言うとおりで、羽田と面識の無い桂林にとって、病院に駆け付けてもなんの役にも立たないと思っただろう。

---わかったわ、すぐ行くから。ロビーで待ってて。
---うん。じゃ、あとで。あっ・・・姉さん?
---何っ?
---羽田さんて・・・俺たちと何か関係ある人なの?

 桂林にとって見ず知らずの日本人の羽田が、姉や母親が何の関係があるのか疑問をもっても不思議ではなかった。

---時間がないから詳しくは後でね、母さんの昔の・・・知り合いよ。
---そう・・・。
---ロビーで待ってるのよ、すぐ私も行くから。
---ああ、わかった。

 羽田が被害者であることがわかった以上、命に別状がないことを祈るだけであった。病院に向かうタクシーの中で月華はそう祈り続けた。

 
 駆け付けた病院のロビーに、桂林の姿は無かった。
 月華は事の次第を告げ、運ばれて来た日本人の様態の確認をした。

---今、ICU(集中治療室)に入ってます。
---大丈夫なんですか?
---今は何とも・・・かなり失血されていたので・・・。

 月華はそのままICUのある階へと駆け上がった。
 そこに設えられた無機質なスチール長椅子に桂林が座って待っていた。

---あっ・・・姉さん!
---桂林、どうなの?ねぇー、羽田さん・・・どうなの?
---だいぶ血を失くしてるらしくって・・・危険な状態らしいよ。

 月華は腰から砕け落ちるようにその長椅子にへたり込んでしまった。その時、勢いよくICUの扉が開き、中年のナースが深刻な顔で出て来
て、二人を見つけるなり早口で問いかけてきた。

---ご家族か、お知り合いの方ですか?
---ええ、知り合いです・・・。羽田さん、どうなんですか?
---血が足りません。輸血しないと・・・「AB型」のストックが丁度不足していて、近辺の病院から届くには30分ほど掛かる見込みなの。
 それまで待てない・・・危険な状態で一刻を争うのよ。
---俺、「AB」だけど?使えるかな・・・?

 その黒人ナースは、小太りな身体に似合わず俊敏な目配りで桂林の身体を見さだめた。

---そう、じゃぁ・・・すぐこっち来て頂戴!
---・・・・・・桂林っ!
---俺は大丈夫っ、待ってて。
 
 二人は隣の部屋に消えて行ったきり出て来なくなった。
 二時間ほど経ったろうか、月華の知らせで麗華がやって来た。階段を駆け上がって来たのだろうか、息が乱れている。
 母親の差し迫った問いかけの視線に月華が応えた。

---母さんっ!・・・危ない状況って、輸血が必要で、桂林が中へ・・・。
---桂林が? あの子・・・そうね、AB型ね・・・。

 そのまま言葉を交わすことなく肩を寄せ合って待った。


 ------------------------------------------------

 ティックは息が苦しくなるような激しい胸騒ぎに襲われていた。
 数時間前に有った羽田からの着信に何度も掛け直したが、三度目から繋がりもしなくなっていたのだ。
 単にバッテリー切れならいいが、それ以外に羽田が携帯電話をOffにする理由を考えると、不安でたまらなかった。

---羽田さん・・・お願い、連絡してきて、おねがい・・・。

 
    ----------------------------------


 夕闇が瑠璃色の幕を下ろしてやってくると、昼間の暑さが少しは和らいだ。
 閉じたウインドカーテンの向こうで、男の影が小幅ながら行ったり来たりして動いている。

---そうですか・・・で、羽田は?     えっ?

---分かりました対処します。では・・・。

 男は、手帳の隅に走り書きした電話番号を探し出し、それを不器用そうな小太い指で入力した。


 ------------------------------------------------


 

 
 月華の携帯電話が場違いな着信音を鳴らして踊った。

---ハロー?
---ああ、私だ。どうかね、何か進展はあったかね?

 電話の主は野上であった。羽田が連絡を取っていただろうから、月華から報告の電話を入れることはしていなかった。

---支店長っ・・・。羽田さんが暴漢に刺されて、重態です。
---何っ・・・!?で、どうなんだ?
---今はまだ何とも・・・。
---ああ・・・ぁ、何てことだ・・・・。

 野上は重い呻きを洩らした。

---すぐに井川君をそっちにやるから、それまでは適宜連絡を呉れ給え、いいね?
---はい、分かりました。申し訳ありません。

 フリップを閉じると当時に、「ICU」のドアがその場の雰囲気に合わせているかのようにゆっくり重く開いた。
 術衣の前を真紅に染めた若い白人のドクターが出てきた。

 二人は呼吸を合わせたように立ち上がり、そこに詰め寄った。

 麗華はドクターの疲労の陰に隠れた視線の強さが何を意味するのか、その男が口を開くのを覚悟を決めて待った。


                                                            (第三話  了)


(第四話)

無数の人が肩を落とし、重い足取りでしかも皆同じかっこをして歩いている。

 羽田もその列の最後尾に居た。いくら目を凝らしてみても向かう先に何があるのか何も見えない。ただ、注意深く列を
乱すことなく前の者に従って歩くだけであった。
 意識の中ではもう十日以上も歩いている気がする。喉が渇き、疲弊した身体には物を考えるという能力は無くなって
しまったように思えた。
 やがて、辺りが白めいて来て、前方の視界が開けて来るのが分かった。ただ、あれだけのおびただしい人間の数が居た
のに気が付いた時には自分が最前列に居たのだ。
 霞の向こうで人が蠢いているのが微かに見えた。その中に明らかに自分に向かって何か言いたげな老夫婦と思しき者
が、手を振っているのが見えた。
 その手の導くところに歩みを進めようとしたとき、背後で「声」を聞いた。

 (駄目っ!!、行っちゃ駄目っ!!)

 聞き覚えのあるその声に振り返ると、地が割れストンと身体がどこかに堕ちていった。

 重い瞼が意識の覚醒で開かれていく。
 現の光が眩しくそこに差し込んできた。

---羽田さん?・・・気が付いたのね!

 その声の主が麗華であることを悟るには少しの間を要した。

---羽田さんっ!
---・・・・・・。麗華?
---ああ、良かった・・・意識が戻ったのね。
 
 母親の麗華の声に月華が仮眠していたソファーから起きだしてきた。

---お母さん・・・?
---意識戻ったみたいよ!・・・ドクター呼んで来て頂戴。

 月華は慌ててナースステーションへと走った。

---羽田さん・・・、どう、痛む?

 その言葉に従い身体を捩って確認しようとすしたが、思うように身体が動かない。
 ようやく右脇腹辺りに巻かれた分厚い包帯に意識が行くと、そこでやっと痛みを感じた。

---ああ、ちょっと・・・痛むな。
---胸の方は?
---胸?・・・ああ、ココもか・・・。いや・・・こっちは大したことは・・・ないみたいだ。

 羽田は右手で恐るおそるソコを触れてみたが、さしたる痛みも感じなかった。

 やがて、若い白人の医師がやって来た。脈を取り、軽く問診を終えると、白い歯を僅かに零して微笑んだ。

---ミラクル・・・・ 奇跡だね。
---先生?・・・もう心配ないんでしょうか?

 麗華はまだ全て晴れぬ不安を隠すようにドクターに詰め寄った。

---ええ、経過を見なければわかりませんが、まっ、後は傷の回復を待つだけでしょう。二~三週間位で退院できるはずですよ。
---あああ・・・そうですか・・・良かった、有難うございます。
---いえ、この方の生命力と運の強さ・・・それと例のアレのお陰でしょう。

 羽田は、黙って麗華と医師の会話を聞いていたが一つ引っ掛かった。

 (アレって・・・なんだ?)。

 医師が白衣を翻してドアの向こうに消えるのを確認すると、羽田は麗華に尋ねようとしたが、下腹に力を入れると痛むので
口先と喉笛だけで発声するようにしなければならなかった。

---さっき・・・先生が言っ・・・てた、「アレ」・・・って・・・何のこと・・・っ?

 麗華はそれに答える代わりに視線をベッド脇のテーブルに向けた。
 そこには、血まみれになった何かが透明の袋に入っているのが見えた。

---羽田さん・・・アレが助けて呉れたのよ。

 麗華はそれに手を伸ばし、羽田の目の前にかざした。
 それは、アメリカに発つ前にティックが渡して呉れた単行本が入っていた。

 表紙の題字は黒く変色した血の色で読めなくなっていたが、まさしくソレであった。手に取ってみてみるとそこには三日月状に
刃先が突き刺さったような「穴」が開いていたのだ。

---犯人は二回羽田さんを刺したのね、そのうちのもう一箇所がココ。

 麗華は羽田の心臓の辺りに手を置いて言った。

---だけど・・・背広の左胸にこの本が入っていたのね。この本のお陰で、アナタは致命傷を負わずに済んだのよ。

 ティックの笑顔を思い浮かべる。

---でもね、致命傷は負わなかったんだけど、失血がひどくて一時は本当に危篤状態だったのよ?輸血があと五分遅れていたら、
  駄目だったろうって・・・。
---そう・・・か・・・っ。

 そして月華が麗華の背中越しに羽田を覗き込むようにして付け加えた。

---桂林のお手柄ね。羽田さん・・・?桂林は羽田さんの命の恩人よ!、忘れちゃ駄目だからね。
---ん?・・・桂林君が?

 麗華は咎めるような目で月華を見据え、それ以上何も語るなと言わんばかりに強い視線を月華に宛がった。

---桂林君が・・・私に血を・・・呉れたんだね?・・・そうだね・・・麗華。
---ええ・・・そうよ。「AB型」のストックが少なかったらしいの。あの子・・・「AB」だから・・・。
---・・・・・お礼しなけりゃいけないね・・・命の・・・・・・恩人だな。
---いいの、気にしないで。当たり前のことしただけだから・・・。
  ああ、何か急に疲れ出てきちゃったみたい・・・ちょっと顔洗ってくるわっ。

 麗華は踵を返してドアの向こうへと消えていった。

---桂林君は?・・・。
---隣でまだ寝てると思う。あの子の身体からして規定以上の血を抜いたらしいの。いや、本人がそうして呉れっていったから
  なんですけど・・・。
---そうなのか・・・ちゃんと、お礼しなきゃな、ほんと・・・俺は・・・運が・・・良かったんだな・・・。

 羽田は、ティックとの繋がの深さを知り、そして桂林の勇気にただ感謝するのみであった。
 脇腹の痛みも「生」の実感として何か嬉しく思えた。


 ---------------------------------------------

---羽田GM、・・・大丈夫ですか?大変なことになって・・・。

 二日後、井川が病院にやって来た。

---ああ・・・すまんな心配かけて。
---物盗りか、通り魔ですかね・・・。
---うむ・・・そんなとこだろう。さっぱり検討がつかない。
---やっぱり物騒ですね、アメリカは・・・・・・。
---ん・・・そうだな。

 事の仔細を知らないであろう井川に、羽田は適当に話を合わせて凌いだ。

---あっ、君、携帯持ってるかい?
---いや、慌ててきたもんでタイの携帯しか持ってません。
---そうか・・・。なぁーちょっと頼みがあるんだが。

 羽田は、ベッド横のテーブルの引き出しからビニール袋を取り出しそれを井川に渡しながら言った。

---これを・・・『マイルド』のテイックに届けて呉れないか。知っているだろ?彼女のことは・・・。
---ええ、覚えています。コレが何か?・・・。
---いや何も聞かないでただ渡してくれないか。それで、私は無事だってことを伝えて欲しいんだ。

 羽田はティックに連絡を取らねばと焦っていたが、自分の携帯はバッテリーが尽きていたので連絡できずに居た。

 (きっと、ティックは心配して気を揉んでいるに違いない・・・早く連絡してやらないと・・・)

 そのことばかりが気になってベッドに横になっていられなかった。

---わかりました。ご無事が確認できましたのですぐにタイへ戻ります。彼女を呼ばなくていいんですか?
---いや、それはいい・・・ビザやなんかややこしいだろうし・・・。ただ、もう一つ、十二月末ならいつでもいいんだが、日本行きの航空券
  を俺と彼女の分、二枚を用意してもらえないかな。ウチの社用箋で造ったレターを添付してやればビサも降りるだろう・・・。

---大阪「関空」行きでいいですね?
---ああ、それでいい。年末には約束通り日本に連れて帰るからって、それも伝えてくれないか。
---分かりました。任せておいて下さい。

 羽田は部下の井川に、ティックとの関係を悟られ莫迦な頼みをしていることも承知で全てを任さずるを得なかった。

---それと・・・野上支店長には、(全て、タイに戻ってから報告いたします)---と、こう伝えてもらいたい。
 
 井川が病室を出るのと入れ替わりに麗華がやって来た。

---どう?具合は・・・。
---ああ、もう軽い食事くらいは摂れるようになったよ。
---そう・・・良かった。
 
 麗華は持って来た花を花瓶に入れ替えながら物腰柔らかい微笑を投げ掛けて呉れた。
それは、痛む傷跡に優しく浸透していくようで、そのまま瞼を閉じて眠ってしまいそうになった。しかし、事件の傷跡はそれを許そうとは
せず羽田の中でアドレナリンが逆走してきた。

---ところで、奴らのことだけど・・・・・。
 
 麗華は一瞬手を止め、声音を替えて応えてきた。

---心配しないで、もう二度とアナタには手を出さないはずよ。
---どういうことだ?
---話を着けたってことよ・・・ソレだけ。
---麗華・・・頼む、教えて呉れないか。今回の一件の舞台裏には何があったっていうんだ?

 麗華は羽田に視線を向けることなく花瓶の花の手入れをしている。

---麗華っ! 
 
 下脇腹に痛みが走った。

---俺はこのままではタイに帰れない。納得できないんだ・・・それにこんな痛い目まで遭って黙ってられるかよっ、違うか!?
 
 麗華はキッとした視線を寄越して冷静に応えた。

---羽田さん・・・こんな目に遭ってもまだ奴らと争う気なの?
---黙ってられない・・・。そうだろ?俺の人生はアソコから狂ったようなもんだからな・・・。

 麗華は羽田の言葉に視線を反らさずにはいられなかった。

---ゴメンナサイ・・・。
---君を責めているわけじゃないんだ!俺は・・・俺は奴らが憎いだけなんだ。

 ベッド横のスチール製の椅子に腰を落とすと、麗華は観念したように、ゆっくりした口調で語り始めた。

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---最初黙って、コレ渡された時は、心臓止まっちゃったわ。

 ティックは井川から受け取ったビニール袋の中身を覗き込みながらそう言って笑った。

---そうだよね、最初に羽田さんは無事だってこと伝えるべきだったよな・・・馬鹿だね、俺は・・・。
---ううん・・・いいのよ、有難う。あの人が無事だと分かって、やっと今晩からご飯が食べられるわ。
---ああ、羽田さんが部下の僕に億目もなく願い事する気持ちがわかった気がするよ・・・羨ましいなほんと、参った、参った。

 ティックは嬉しそうに面相を崩し、細い両の肩で大きく息を吐いた。

---ああ、それとこの年末にちゃんと日本に連れて行くからって・・・僕にティケットの手配も頼まれてたよ。
---え・・・?ホント!
---うん、だからビサ申請は自分で行ってきてね・・・たぶん添付しなきゃいけない書類が色々出てくるだろうけど、そん時は僕に
  言ってね、手配するから。
---ありがとう・・・井川さん。

 つい一時間前までは冷え切っていた体に、俄かに温もりがさしてきて、ティックの心は羽田への想いでいっぱいに膨らんでいた。

                                    
                                                              (第四話 了)


(最終章---最終話)

 生唾一つ飲み込んで、麗華が語り始めた。

---今更だけど・・・聞いて驚かないでね。ちょっと衝撃的な話になるでしょうから・・・。

 羽田は曖昧に相槌を打ちながら、目でその先を促した。

---孤児だった私を養女にして呉れたのが、曹 旺瞬なの。アナタを罠に嵌めた張本人、そう当時の「公安部長」だったわ。

 視線を窓の外に移して麗華は続けた。

---彼は実に私に良くしてくれたわ。大学まで行かせてもらいそしてアメリカにも留学させてくれた・・・いい養父だった。
  ただ、たった一つ・・・「あの事」以外はね。
---「あの事」って・・・?
---私を・・・犯したの。その日以来、私は拘束された生活になったわ。奥さんの前には出せないから他の居宅を与えられて、四六
時中監視されてね・・・。
---・・・・・・。

 羽田は絶句し、淡々と語る麗華の横顔から視線を外せずに居た。

---やがて、彼は「公安部長」の地位に就く前に、スキャンダルの因になりかねない私を、無理やり工作員の男と結婚させた。
  それも子連れの私を・・・。
---・・・じゃぁ、月華は、曹旺瞬の子なの・・・か?
---ええ・・・このことは月華は知らないから、言わないで欲しいの。あの子は、工作員の元夫を父親だと、おぼろげにも覚えてるから。
  
---酷い・・・話だ。
---元夫にも何の罪もないの・・・彼は「当局」の言うことなら何だってやれる人だったから。見掛けだけの夫婦でもちゃんと演じてくれ
   たし・・・そう言う意味では、いい夫だったのかもしれないわね。

 麗華はそこまで話すと、肩の力が一気に抜けたのか、遅れ髪を整えながら大きく息を吐いた。

---そして、気が付くと私も工作員にさせられていた・・・。羽田さんを罠に嵌めたのが最初の「仕事」だった。
---アレはやっぱり、「罠」だったんだね?・・・・・・。俺には今でも信じられないんだ・・・君の真意がどこにあったのか・・・。
---その事はもう言わないで・・・「お手紙」を差し上げた、あの通りのことです。
  いくら、お詫びしても償いきれないことをしたと思ってます。
---そうじゃないんだ・・・そうじゃなくって、君は・・・君は本当に僕のことを・・・・。
 
 麗華は、キッと目に力を込めてそれを制した。

---ところがね・・・曹 旺瞬もやがて「上海党」の周 英康に追い詰められて失脚させられることになったの。彼はそれを予知していた
  んでようね、私をアメリカへ亡命させる手はずを整え、先に行かせた。いずれ、自分も亡命するつもりだったんでしょうけど・・・捕
  縛の身となって、この十数年間、牢獄暮らしをしているわ。

---腑に落ちなかったんだが、何故そんなに簡単に亡命出来たのか・・・だけど。
---曹 旺瞬は私に「ある物」を持たせてアメリカに渡らせたの。
---それが・・・今回の件の発端となる・・・情報(ネタ)か?
---そうよ。現「公安部長」の周 英康の大きな政治スキャンダル情報(ネタ)よ。公に出れば、今現在の「中央政治局」の面々にも
   影響が及ぶでしょうね・・・それだけの情報よ。
---何故それが今になって・・・。

 羽田は居住まいを代えて麗華のその先を待った。

---曹は厳しい拷問の末に全て自白してしまったのね・・・。スキャンダル情報を私に持たせたということを周が知った。
   それからは、執拗に私への監視が強まった・・・。
   でもね、それ以上のことはして来なかった。奴らも迂闊には手を出せなかったんでしょうね。

---今回の一件は、そこに端を発しているにしても・・・何で俺が関わることになってしまったのかわからないんだ。
---それはね・・・周が「公安部長」の職に就き、次は「常務委員会」のメンバーに昇進することが決まって、ついに「消し」に掛かったの
  よ、私を。
---そんな危険な目に遭ったのか?
---いえ・・・そこで私は、二つある情報(ネタ)うちの一つを売ったの、アメリカ『CIA』にね。私と家族の身柄の安全保障と引き換えに。
  しばらくして彼らは私達家族から遠ざかったわ。

---『CIA』はどう使ったんだろうねその情報(ネタ)を・・・。

 麗華は薄い笑いを口端に浮かべて続けた。

---違うの・・・。曹が私に託した二つの情報は、本当は「二つで一つ」のネタだったの。見掛けは単独のスキャンダル情報だけど、二つ
   目のそれを開示すれば周英康の政治生命は完璧に絶たれることになる---そういう仕掛けがあったの。

---それを・・・知って奴らは手を出すに出せなくなっていたのか・・・。
  しかし・・・周にしてみれば枕を高くして眠れない・・・そう言うことだね?
   
---その通り。で・・・再び、私からもう一つの情報(ネタ)を奪おうと画策してきたのね。
---・・・・・・・。
---なんで、俺が?って思ってるんでしょ。
---そうだ。わからない・・・なんで俺が此処に誘き出されてきたのか・・・。
 
 麗華は意味深な目で羽田を見据えて尋ねた。 

---羽田さん?私たちの関係を最近・・・そう、ここ半年くらいの間で誰かに洩らしたことはありませんか?
---ん?・・・・・っ!! まさか・・・(野上支店長が・・・)
---心当たりあるんですね? おそらくその人間もきっと「当局」の工作員に違いありません。私にとって羽田さんが弱点だと踏んだんで
   しょうね。それで、まず先に月華に目を付け、そして羽田さんを巻き込んで行ったのよ。

 羽田は、麗華の声が耳に届かないほど狼狽していた。(まさか・・・)---その言葉だけが何度も行ったり来たりしていた。しかし、そうで
   あれば今回の一件が全て繋がってくるのが解り、再び愕然と肩を落とす羽田であった。

---奴らは、羽田さんに危害を加えることで私に圧力を掛けるつもりだった。そうすれば・・・私が墜ちるだろうと。
  ・・・・・以上よ、これでお仕舞い。

---いや、まだ終わってない。二つ目の情報(ネタ)をどう使ったんだ?そして奴らは本当にもう我々に手を出して来なくなるのか?
---どう使ったのかは、聞かないほうがいいわ。ただ、今後二度と、私達家族と貴方に手を出してくることはない・・・それだけは確実。
---いや・・・・・・ソレでは納得できないよ。

 麗華は眉間に深い皺を作り、鋭い視線で羽田を諭した。

---お願い。コレでもう終わりにして頂戴っ。今度・・・こんど貴方にこんなことがあったら・・・。だからもう私や私の家族にも関わらないほうが
  いいわ。ねっ!そうして、お願いですから。

 羽田は、本当は自分が一番知りたかった部分が抜け落ちていることに得心が行かなかったが、これ以上食い下がっても麗華は何も話
   さないだろうと思い、胸の奥へと無理やり黒い霧を押し込めた。

---それなら、これだけは教えてくれ。君はあの時僕にベッドの中で語ってくれた「愛してる」の言葉も全て造り物だったのか?

 麗華は俯いたまま身動きせずひたすら羽田の詰問に「黙って」耐えようとしていた。

---ふっ・・・やっぱりそうだったのか。何も抗弁できないのは、『全て』が作りものだったということなんだな・・・。
---違うっ・・・。
---何が違うって言うんだ?ん・・・?教えてくれよ、どう違うんだ!!

 羽田の強い言葉は華奢な麗華の身体に容赦なく突き刺さり痛めつけた。

---俺はこの十数年間ずっとその呪縛から逃れられずにいたんだ。嵌められたことはいい、俺が不注意だったんだ。ただ・・・俺にはどうしても
  信じられないんだ。全てが「ウソ」だったってことが・・・。

 それでも麗華は黙して語らなかった。

 (今更・・・真実を見つけ様たって、もう遅いのよ!) 
 そう目で訴えた。

 ただ、今にも口を付いて飛び出しそうになる心の叫びを、溢れる涙に溶かしこんで流すしかなかった。
 
 (私はアナタを愛して・・・そして、あの子、桂林を生んだのよ。私の宝物よ・・・)


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 ほどなく、羽田はアメリカの病院を退院してバンコクに戻った。
 その年の瀬、朱麗華が死んだ。

 死因は「心臓麻痺」とだけしか伝えられなかったが
 それが果たして真実なのかどうかは定かではない。
 アメリカの警察当局はそれを日常の闇へと流し込んで重い蓋をした。

 羽田はその訃報を知らない。
 朱麗華が死んでも隠し通した「真実」を、知らずのままで居たのが、幸か不幸か、それでよかったのか否か・・・。
 それを知るには今暫くの時を要するのであった。


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---どうだ?『京都』の冬は。寒いだろっ!
---ええ、すっごく、さっむい。
---相変わらず、達者だな、ティックの日本語は。
---そりゃそうよ、アレからまた勉強しはじめたんだもん・・・。だって『京都』でアナタと一緒に暮らすんでしょ?
---いいのか?こんな寒いとこで、本当に平気か?
---平気っ! それに独りぼっちのアナタをそのままには出来ないでしょ?私が、ずっと傍に居てあげないと・・・ね?
---ふっ・・・お互い様だろ?
---私は独りぼっちには慣れてるもん。
---ほぉー、井川君はそんな風には言ってなかったけどな・・・。ん?・・・飯も喉に通らなかったって?
---ああああ・・・・あの男(ひと)っ!喋りなんだから!
--- はっはははは・・・。


 京都『八坂神社』の「おけら詣」。

 羽田とテイックは火縄をぐるぐる廻しながら、東山の小路を肩を並べて歩いている。


---ねぇーコレで何をするの?
---これでね、元旦の朝のご飯を炊くんだよ。それを食べると一年が無病息災で暮らせるんだ・・・。
---ムビョウソクサイ?
---ああ・・・えっと・・・・なんだっけっ。 そそ、サバーイサバーイね。一年が「サバーイサバーイ」に暮らせるってことだ。
---そっか・・・。で?どこでご飯炊く?

 むろんホテルに『釜』なんかないことは承知していたが、ティックの問いかけが思いがけず可笑しかった。

 東山の何処かの寺の鐘だろうか、除夜を告げる鐘の音が、しんしんと胸に響いた。
 羽田は、火縄が作る丸い灯火の軌跡の向こうに、新しい年が自分たちにささやかな幸せを運んできてくれることを祈った。

 そして、何かの「知らせ」だろうか、ふと傍らを流れる蹴上浄水のせせらぎに目をやると、季節はずれの蛍かと思わせる淡い灯が舞って
  いた。それは、二つ、三つ意思のある舞を羽田に見せて闇に消えた。


---さっ、早く帰ってご飯炊かなきゃ! 帰ろうっ!

---・・・・・・うん、帰ろう。

 羽田圭一郎の「恋歌」、第一章が終わった。

 

                                                             --完--


 『クルンテープ・恋歌』 一年の長きに渡りご愛読頂きました読者様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

  12月28日 に当ブログに『エピローグ』をUpの予定です。
  その後の、羽田とティックは・・・そして?                    

                                                         作者: 只野乙三


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