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カテゴリ:『生きること』
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歳のせい? 最近・・・歳のせいだろうか。 死 というものに、敏感になった気がする。 (同時に、涙もろくなってしまった) 人間はいつか死ぬ。生あるものは全て「死」を前提に生きている。 小さい頃、お爺ちゃんが死ぬのを親父の傍で観て、そしてその親父 の今わの際を見届け・・・。 そんな時々は、何も感じなかった。いや、自分の「死」というもの に照らし合わせることはしなかった気がする。 しかし、最近・・・。 死ぬのが怖くなった。 そして、死んだら「どうなるのか」といったことを考えるようになった。 その度に、もっと必死で生きねばと思うのだが、一日を終えて、自分に 問い返しても、答えはネガティブだ。 今日も・・・怠惰に生きてしまった。 普通は、こんなことを感じないまま、日々過ぎて行くわけなのだが、世の中 の無常や、理不尽、耐えられぬプレッシャーに晒されていると、人間は自分 の「生」に敏感になるのかもしれない。 何の為に生き。 誰のために生き。 いつまで生きながらえるのか・・・・・。 よく、宗教関係者が言うのを聞く。 人間は神仏に「生かされて」いるのですよ、と。 それは、人間に「苦悩」も「楽」も「悲しみ」も「喜び」も全て与えること でだと思うのだが、人によってその比率に不平等があるように思えてならな い。 きっと私は未だに人間として「修行」が足りないのでしょう。 そんな罰(バチ)あたりなことを思っているようでは、きっと神仏も「甲斐」 が無いと嘆いておられるかもしれない。 誰だって・・・「苦しい」のとか「悲しい」のばかりは嫌ですよね。 「楽」や「喜び」の比率が多い方がいいですよね。 ただ・・・それを自分に納得させるために、「死」を持ち出すようになった。 死んだら 元もこも無い。 誰が言ったのか、「真理」だと思う、最近。 日々の営みに「苦しみ」、「悲しみ」を背負わされて、それを捨てたくなるの は弱い人間には当たり前のことです。 けど・・・、死んじまったら、何も感じないのだろうから・・・それの方が辛い。 タイ人の馬鹿さ加減に怒り、呆れ、愚痴る自分。 タイ人の能天気な明るさに呆れながらも救われている俺。 娘の彼氏が、娘を泣かしたと知って、拳を握る父親としての親バカな俺。 夜一人で、カップラーメンをススル自分を、侘しいと肩を落とす男。 髪の毛の長い女の後ろ姿に、久しぶりに心躍らせる、男。 テレビドラマを観ながら、涙する---最近、髪の毛が減ったと嘆く・・・俺。 それらを「感じて」ることが、「生きてる」ことなんじゃないかって・・・。 だから・・・もう少しだけ、HAPPYに「生きる」ようにしようと思ってます。 「生かされてる」ことは、何かと「人間的」なのですから・・・。 -------------------- 『子供の日』 子供の笑顔は、お父さん、お母さんの 生きる「糧」です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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