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続きは、球場で。

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民族のアイデンティティ

民族のアイデンティティ


学びというものは、常に新たな疑問を生むものだ。

アイヌと倭人の関わりを学ぶうち、おのずと他国の先住民族、マイノリティが視野に入ってくる。
先日講演会があったマオリもそうだ。

マオリとはマオリ語で“人間”のこと。
彼らにとっての「マオリ」も、アイヌ民族における「アイヌ」のように一人前の人(今風に言えば「社会人」だろうか)を指すのだろうか?

その日、観衆の目前で神に祈りの言葉を捧げた2人のマオリは、今の日本の若い人はアイデンティティを失っている、と言った。

アイデンティティとはそもそも何か。

辞書的には、同一性とか自我とか、そういった言葉が並ぶ。
要するに、我とは何者かを認識するということだろう。

かつて侵略者たちが先住者たちにアイデンティティを失わせる常套手段として用いたのが、父祖伝来の言葉の使用を禁じることだった。
先祖から受け継がれてきた言葉を奪うことは、先祖から受け継がれてきた命の繋がりを否定し断ち切ることに等しい。

振り返って我がヤマト民族はどうか。

今の日本人の中で、国文学に精通している者以外でやまとことばを的確に使える者が一体何人いるだろう。
それどころか、日本語の美点だった筈の敬語、特に尊敬語と謙譲語がめちゃくちゃになっている現状。

テレビにどこかの大手学習塾の代表者が出演し、「拝見する」と言わねばならない場面で「見させていただく」などというめちゃくちゃな言葉遣いをしているのを聞いた時には苦笑するしかなかった。

教育に携わるものが公共の電波に誤った日本語を乗せるようでは、日本からまともな日本語が消えるのも時間の問題といえるだろう。

ヤマト民族の中からやまとことばが消えるということは、ヤマト民族のアイデンティティが崩壊するということだ。

いや、崩壊するどころではないか。既に崩壊し、あとは風化するのみといったところだろうか。

大昔は略語、隠語もみやびやかだった。

例えば「ひもじい」。これはもともと空腹をあらわす「ひだるし」という形容詞を、直接的に言うのははしたないということで「ひだるし」の「ひ」、「ひ文字」と表現したもの。「しゃもじ」もそうだし、時代劇で人の名前を「○の字」と呼んだりするのも同じ流れだろう。いずれも言葉の当たりをやわらかくしている。

それが現代では、キモい、ウザい、KY…短い言葉で気軽に他者の心に裂傷を与えるような言葉が並ぶ。
そして、人の心も言葉と同じように小さく縮み、脆く壊れやすくなり、外向きのトゲをまとって人を傷つけることで自己防衛するしかなくなっている。

ヤマト民族は、やまとことばを粗末にしすぎた。
それがどれだけ致命的なことか、多くのヤマト民族は気付いていない。

モドル



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