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2017、5、9
入学して最初の中間試験を5月の中頃に体験した。 約一ヶ月半授業で進んだ部分だが、まさかそれ全部が範囲なんて思っていなかった。 が、もちろん進んだ分が範囲となるのが普通である。 一教科だけみても恐ろしい量で、それが幾つもの教科に渡る。 これを全部頭に入れるなんて人間業ではない、とまで思えた。 今から思えば、それぐらいどんどん進まなければ三年間でこなすべき量は達成できないのだ。 しかし、学期初めでいろんな紹介や説明に日を取り、授業の進んだ量としては三年間で一番少ない範囲の試験であることを、不幸にもその時は知りようもなかったのである。 その時の生理学ではDNAや細胞の話が出て来て、それらの基本的な知識は高校の理科の授業で習ったはずなのだそうだが、例によって僕にはなんの記憶もない。 考えてみれば中学高校の六年間に習う内容を何も覚えていないのなら、その六年間ずっと机の前に座って日々を送ったことは、全く無駄な六年間であった訳で、貴重な十代に狩りの方法を憶えて食料を手に入れることを身に付けたり、槍の砥ぎ方を教わったり、住処の作り方を覚えたり、森の恐ろしさを理解したりする方がどれだけ意味のある十代だろう。 DNAや細胞のことを勉強しなければ上の学校に進めず、進めなければ思い通りの仕事に就けず、そうでなければ充分なサラリーが取れないというこの世界の成り立ちが根っこから間違っているのだろう。 しかし今の僕はDNAと細胞のことを知らねばならないのだ。 本当にそれを知らねばならない時に、本当の勉強が始まるのかもしれない。 初めての中間試験が終わったとき、出来るはずないと思ったその膨大な範囲の勉強が意外に出来、成績もそんなに悪くはなかった。 中学高校でも、またその後の人生でも出せたことのない集中力が発揮できたような気がした。 何故か。 それはどうしても手に入れたい目標が前にあるから。 ここから振り落とされる訳にはいかない、という石にもかじり付く必死さがあるからである。 それから考えると、義務教育というものに意味があるのだろうか、という疑問も生まれる。 僕のように落第する危険の極めて少ない盲学校で、義務教育として中学部を卒業し、その六年間の内容は全く頭に残っていないことと、明治時代のように義務教育のない厳しい試験制度で振り落とされ中学を中退せざるを得ないこととの間にどれほどの違いがあるというのだろう。 まあそれはいい。 とにかく求むるところに勉強あり、なのだろうということを知った。つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.05.09 23:22:38
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