2011/04/11(月)12:52
帰省しました
今日で震災から一ヶ月本当あっという間。私はと言いますと、、3月31日夜行バスにて 実家へと帰省しました。4月1日朝に自宅に到着。運良く 水がその日から出だし、両親は3週間振りの入浴。 翌日 父親が包丁で手をざっくり筋肉丸見えまで切り 20針縫う。父 再び風呂に入れなくなる。日中は ひたすら自宅の瓦礫の片付けをしたり 地元の友達に会ったり、、 帰りは友人と車で石巻松島経由で仙台まで出て 仙台から再びバスで東京に戻る。短い滞在だったけど 家に帰れて良かった。ひとつだけ 父にとって良かった?事は、、20年まえのズボンが入る位痩せて、メタボで悩んでいた本人は大喜び。。宮城の4月上旬の時点での 状況は、、と言いますと 仙台市内、、驚く程普通に機能していました。 勿論 仙台市内でも被害が大きい所はあると思います。ただ ぱっと見た限りでは ビルの倒壊等もあまりなく、ゲームセンターには学生がレストランも人で賑わってて、、3週間経っているからっていう理由もあるだろうけど、 勿論一般家庭は まだ都市ガスが通っていない所もあるので仙台と言えども入浴出来ていない方々が沢山いるようです。 やはり地震都市だけあり、建物の耐震が しっかりされていたのだと思う。 仙台の友人宅はグラス一つ落ちなかった、、と。。耐震です。はい。 備えあれば なんちゃらですね。 本当 東北の中枢の仙台の被害が最小限だった事が せめてもの救いです。 私は 仙台から更に古川までバスに乗り 古川で高速道路を降りました。古川も、古い家屋の被害 道の亀裂 はあるものの、大きい建物の被害は見当たりませんでした。そこから車にて更に東へ進み 旧小牛田へと入ります。小牛田は まず大きな建物自体がないので、、こちらも大きな被害は見当たらずほっとしました。自宅は と言いますと妹には「ショック受けるから見ない方が良いよ」と言われ 想定はしていたので、想定内の被害でした。元々古い家屋なので、しょうがないです。土壁が ゴロゴロ落ちて、家中 ほこりっぽかった。 帰路 石巻 松島を通って帰ってきたのですが、同じ街でも被害は 本当に それぞれでした。石巻で見た光景は 言葉を失う絵でした。次元が違います。 石巻の近くの観光地の松島は、、海が目の前なのに、、浸水だけで済んだようです。昔の人は 色々知っていたのでしょうね。安全な場所とそうでない場所を。 中心の仙台にしろ 松島にしろ、、 石巻 松島と湾岸通りを過ぎると 塩竈です。 塩竈の妹は 自宅が少し段になっていて 自宅の一段下の家まで床上浸水だったようです。海迄数百メートルなので 義理の両親は慣れているらしく、11日も地震直後にリュックを背負って避難したそうです。 先月の本震は 親族が居る震度7の栗原市でさえも、前回の栗駒の(旅館が流された)地震より被害が少なく 体感した揺れもそれほどでも なかったと。。 しかし7日の余震こちらの方が 本震より たちが悪かったようで、、仙台の友人も 両親も「前回より ひどい」と人伝いに実家の周辺が大変な事になっている との連絡を受け、妹に確認したところ「後ろの おばちゃんち が うちにかぶさりつつ 潰れたみたい」と。 道路も塞いで崩壊した様子です。 後ろだけでなく前の家も潰れました。 その後 すぐ今度は近所で火災が発生し全焼。田舎には 消防団なるグループがあり、父は消防団は卒業し、後援会員の為助っ人で消火に当たったようです。58歳にして一番若手なので丸一日消火活動に当たったと。 原因は漏電との事。停電になりブレーカーを落とさなかったのが原因だったらしいので 停電=ブレーカー落とす を忘れないように! 大なり小なり被害はあるものの それでも我が家の周辺は 本当の被災地に比べたら 屁でもない。本当に。 おんぼろの我が家 何処まで耐えきれるか。。余震よ終わってくれ。