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カテゴリ:映画
1978年に30歳の若さで夭逝した映画監督。 遺作となった『マニトウ(1978年)』は、コンピュータの精霊がのり移った半裸の女性とネイティブアメリカンの悪霊が宇宙空間で怪光線を発しながら戦う、という常軌を逸したイマジネーションが炸裂する大傑作。その年の興行収入でも上位に食い込んだと記憶しています。 他にも、『ジョーズ(1975年)』を熊に換骨奪胎した『グリズリー(1976年)』、動物パニックモノの佳作『アニマル大戦争(1977年)』とヒットを連発し、晩年のガードラーは正にその将来を嘱望されていたのでした。 ウィリアム・ブレント・ガードラーは1947年10月22日、ケンタッキー州の小さな町に生を受けました。1972年には最初の長編映画 "Asylum of Satan" を友人から掻き集めた5万ドルの予算で監督。これがB級映画の代名詞、「AIP」の目に留まり、地元ケンタッキーで計5本の映画を撮り上げます。そのいずれもがホラー、サスペンス、アクションの要素を程よくブレンドし、当時ヒットしていた映画を程よくパクッた、良い意味でのB級作品(あらすじしか読んでいませんが)。興行的にもボチボチといった感じ。 AIPとの契約が切れると、1975年よりハリウッドに拠点を移して "Project Kill" を監督します。主人公はレスリー・ニールセン演じるカンフーの達人。コメディーではありません。純粋なアクションサスペンスです。あらすじを読む限り『燃えよドラゴン(1973年)』のパクりにしか思えませんが、ガードラーのキャリアはここから本格的になります。 続いて76年には『グリズリー』を公開。本物の熊を撮影し、「『ジョーズ』は作り物。こっちは本物だ!」という強引な宣伝が功を奏して大ヒットを記録。 翌77年には、同じキャスト、同じ熊で『アニマル大戦争』を公開。オゾン層の破壊で動物たちが凶暴化!と、気持ちばかりのSFテイストを加え、パニック映画のブームにうまく便乗して、これまたヒット。 間髪をおかず訪れたオカルトブームを踏まえて、上記の『マニトウ』を制作。ガードラーは、脚本を三日で書き上げたと言っています。よっぽど神憑っていたのでしょう。しかし、この作品のヒットを彼が知ることはありませんでした。新作 "The Overlords" のロケハン先のフィリピンで、乗っていたヘリコプターが電線に引っかかって墜落し、若い才能は失われたのです。 デヴィッド・ボウイと同い年。ガードラーがまだ生きていたら、どのような映画を撮っていたのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jul 20, 2005 08:01:44 AM
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