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わが街小田急沿線

2017.04.01
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カテゴリ:鉄道
小田急線開通90年(1)
 小田急線の歴史1
 History 1 of Odakyu Line

 小田急線は2017年4月1日に開通90年を迎えました。小田急線敷設の構想が持上ったのは東京の繁華街の中心が浅草、日本橋の辺りであった「大正ロマン」の時代。当時郊外の駅であった新宿を起点に、さらに西の亡漠たる「武相」の地に温泉地箱根を目指して82kmに及ぶ線路を建設し、しかも着工からわずか1年半で完成させるという小田急創業者の情熱は類い稀なものであったに違いありません。
 また、開通直後の大恐慌、その後の第二次世界大戦による荒廃などの艱難辛苦を乗り越え、戦後は乗客数の爆発的な増加に対応した再構築、つまり二度に及ぶ新宿駅の大改良工事、長編成化とホーム延伸、そして立体化複々線工事と、間髪を入れることのできないほどの重責を背負いながら、乗客の安全を守り、速達性を維持してその使命を果たしてきたことは、その過去を知らない現在の利用者にも歴史を掘り起こして示すべきことではないでしょうか。
 かつて純農村であった東京の世田谷から、辺境の地であった神奈川県の伊勢原、秦野にかけての風景は小田急線という大動脈の恩恵により、億万土の彼方の浄土が出現したかのごとく、目覚ましく変貌していったのです。
(本稿は1980年に小田急電鉄から発行された「小田急五十年史」に書かれた史実を参考に作成し、私が撮影した写真を掲出したものです。)


               現在の路線図

開通以前
 小田急は1923年に「小田原急行鉄道株式会社」として創業しました。創業者利光鶴松(1863-1945)は大分県生まれで、23歳の時に弁護士となり、32歳の時には東京市議会議員に立候補して当選し39歳まで務めました。
 その後、実業界に転身し、東京市街鉄道(東京都電の前身)、京成電気軌道(現・京成電鉄)などの創立に加わったのをはじめ、発電会社の鬼怒川水力電気を興したのち、新宿から日比谷を経て大塚に至る地下鉄を計画しました。ところが1923年に起こった関東大震災で東京の中心部は壊滅。地下鉄の建設をあきらめ、新宿から箱根までの鉄道の建設を目指したのです。
 1925年に行なわれた起工式で利光鶴松氏は全線82kmを1年半で開通させると約束しました。これだけの長い距離を着工後わずか1年半で開通させるという例は我が国の鉄道史でも例のないことで、ほとんど不可能と思われましたが、無理を承知で強行しようというのが創業者利光鶴松のやり方であったそうです。
 この82kmの間では多摩川、相模川、酒匂川という大河川に鉄橋を建設し、4箇所のトンネルを掘削するという大工事も含まれ、この工事だけでも大変なことなのに、これだけの長い距離、砂利を敷き、枕木を並べ、レールを敷き、架線の支柱を立て、架線を張るという作業も大変だったでしょう。それに要する資材の調達も大変で、日本全国から資材を集め、それでも足りない場合は外国から輸入するなど四方八方手を尽くして調達したといいいます。車輌は30輌を車輌製造会社に発注し、また、乗務員や駅員の教育も進め、運転士は既に開通していた他の鉄道で実習を受け、開通に備えたそうです。
 そして、請負いの建設会社を含め全社一丸となって開通に向けて突き進んだ結果、起工式から1年半後の開通予定日の前日の夕刻、鉄道省から開業許可が下り、約束通り1927年4月1日に開通させることができたのです。
 開通時の電車は1輌で走り、新宿~小田原間の直通電車が45分間隔で所要時間2時間23分、新宿~稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)間の区間電車が10~15分間隔で所要時間35分でした。運賃は最低が5銭、新宿からの運賃は下北沢まで9銭、稲田登戸まで30銭、新原町田(現・町田)まで58銭、小田原まで136銭と、現在と違ってほぼ距離に比例していました。現在の物価は当時の1500倍ほどと言われていますから、左記の運賃を1500倍すると最低75円(現在124円)、下北沢まで135円(現在154円)と短い距離では現在に比べ安いですが、稲田登戸まで450円(現在247円)、新原町田まで870円(現在370円)、小田原まで2040円(現在874円)と長い距離では高くなっていました。

     
             開通時に登場した電車
      The train which came up when Odakyu Line was in
      augurated in 1927(I photographed it in 1972 used
      as a delivery train.)
   (配送電車として使用されていた1972年撮影(和泉多摩川-登戸))

開通直後
 長い間交通機関に恵まれなかった沿線の人たちにとって夢にまで見た鉄道の開通の日。沿線各地では祝賀会を開き、凧を揚げたり花火を打上げたりの大騒ぎで開通を祝い、喜んだといいます。
 しかし、開通はしたものの、隣を走る京王電気軌道や玉川電気鉄道(渋谷~二子玉川)のように主要街道に沿って走る鉄道と違い、小田原急行鉄道は道なき道を進む鉄道。利用客より駅員の数の方が多い駅が目立ち、沿線の人々でさえ客の少なさを我が身のことのように心配していたといいます。そこで、沿線の人口を増やさなければ乗客は増えないということで会社は沿線に住宅地を次々と開発しました。
 開通時は全線82kmのうち神奈川県内の52kmは単線でしたが、開通の半年後には全線複線となりました。これを機に新宿~小田原間に急行列車を新設して1時間間隔で運転し、新宿~小田原間は急行列車で1時間45分となり、文字どおりの小田原急行となりました。電車の運行本数の増加、急行電車の運行開始と相まって乗客は次第に増加していきました。この結果、年5%の配当を支給するまで業績は向上しました。
 ところが、開通から2年後の1929年にニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとして世界金融恐慌が始まり、それが日本にも波及して失業者が増加し、鉄道業界にも打撃となりました。小田原急行鉄道もそれまで年5%であった配当を1930~1935年の間、無配とし、従業員の昇給も停止されました。
 この難局に対し、会社は経費節減に努める一方、沿線の開発をはじめ積極的に各種の増収対策を講じました。箱根の遊覧コースの開発による行楽客の誘致、1929年の江ノ島線開通後の海水浴客の誘致で乗客の増加を図るとともに貨物輸送にも進出し、当時都心で活発になっていたビルの建設のために電気機関車が牽く貨物列車で多摩川や相模川の河原の砂利を東北沢の貯蔵場まで輸送しました。
 また、1925年に経堂に陸軍自動車学校が開設されたのをはじめ、1937年頃から相模原~座間のあたりに陸軍士官学校など多くの軍事施設が続々と建設され、利用客は増えていきました。これらの軍事施設は東海道線が戦争の爆撃を被った場合に小田原急行鉄道を代替路線として利用しようという考えに基づいたものであったようです。

井の頭線が小田原急行鉄道の路線に
 小田原急行鉄道の創業者の利光鶴松氏は現在の井の頭線の前身の帝都電鉄の経営にも関わり、1930年に渋谷~吉祥寺間12.8kmを着工し、1934年に開通させました。帝都電鉄も開通時は1輌で運行し、渋谷~永福町間(6.1km)が5分間隔、永福町~吉祥寺間(6.7km)が10分間隔でした。帝都電鉄は合理化のため、1940年に小田原急行鉄道に合併されました。

   
              元帝都電鉄の電車
       Train of the former Teito Railway Corporation
     (I photographed it in 1972 used as a goods train.)
    (荷物電車として使用されていた1972年撮影(豪徳寺-経堂))

小田急電鉄と改称
 小田原急行鉄道は1941年に発電会社の鬼怒川水力電気を合併し、「小田急電鉄」と改称しました。「小田急」という呼び方は巷ではこれ以前から使われていたようで、1929年の流行歌「東京行進曲」の4番では「シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか 変わる新宿あの武蔵野の 月もデパートの屋根に出る♪」と歌われました。この歌によって「小田急」は全国的に有名になりました。

東急小田原線に
 小田急電鉄は国家の戦時体制への移行により一時、東京急行電鉄に合併され、「東急小田原線」となりました。
 1937年に起こった日華事変で日本と中国の間で戦争状態に入り、1939年には第二次世界大戦が勃発、日本は戦時体制に移行し、産業界にも国家による統制が始まりました。交通界では企業間の競争による国家的不経済を除くため、会社の合併や私鉄の国有化が相次ぎました。政府の交通委員の一人であった五島慶太氏は1918年に目黒蒲田電鉄(目黒~蒲田、大井町~大岡山)を創業しました。そして、1934年から1939年にかけて池上電気鉄道(五反田~蒲田)、東京横浜電鉄(渋谷~桜木町)、玉川電気鉄道(中目黒~渋谷~溝の口など)と、現在の東急の路線を合併したのに続き、1941年に小田急電鉄と京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄、品川~横浜~堀ノ内)、1944年に京王電気軌道(現・京王電鉄、新宿~東八王子)、1945年に相模鉄道(横浜~海老名)を合併、「東京急行電鉄」と改称しました。このように東京南西部から神奈川県にかけての主要な私鉄は全て東急の路線となり、勢力範囲が大幅に広くなったことから、戦後5路線が独立するまでの時期は“大東急時代”と呼ばれました。

 
               “大東急”の路線図
                             (つづく)






最終更新日  2020.12.31 22:51:07
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