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1923年(大正12年)10月14日、トルコ共和国が首都をアンカラに移しました。
トルコの都市といえば、イスタンブールを思い浮かべるひとがほとんどでしょう。 イスタンブールは、人口が955万(2003年現在)でトルコ第一の都市ですが、首都ではありません。 首都はアナトリア半島中央部にある、人口373万のアンカラです。 1923年(大正12年)のトルコ共和国建国までは、オスマン・トルコ帝国の時代であり、その首都がイスタンブールでした。 第一次世界大戦で、オスマン・トルコはドイツの同盟国としてイギリス、フランスの連合国と戦いました。 奮戦むなしく敗れ、トルコの領土は連合国に分割占領されました。 占領に反対、抵抗する勢力が各地で蜂起しました。 その勢力を統合して、連合国に立ち向かった人物がムスタファ・ケマルでした。 第一次世界大戦中の1915年(大正4年)、首都イスタンブールに近いガリポリ半島にイギリス軍が上陸しました。 ムスタファ・ケマルは、そのイギリス軍を巧みな作戦で撃退し、国民的英雄となりました。 大戦終了後の連合国への抵抗でも、ムスタファ・ケマルは真価を発揮しました。 アナトリア半島に上陸し、アンカラに向かっていたギリシャ軍を、1921年(大正10年)8月、サカリヤ川の戦いで撃破したのです。 この勝利を背景にして、1923年(大正12年)7月、スイスのローザンヌで第一次世界大戦の講和条約であるローザンヌ条約を、敗戦国としては有利な条件で調印しました。 同年10月29日、アンカラの国民議会は、イスタンブールのオスマン政府を消滅させ、トルコ共和国の成立を正式に宣言しました。 初代大統領には、ムスタファ・ケマルが就任しました。 ムスタファ・ケマルは、政治と宗教の分離という、イスラム国家では初めての試みを成功させました。 これまでは、トルコ語をアラビア文字で表記していましたが、アルファベットに改めるなどの『西欧化』『近代化』を推し進めました。 1938年(昭和13年)11月10日、ムスタファ・ケマルは57歳で死去しました。 彼は大統領として、独裁的な権力をふるいましたが、『ケマル・アタテュルク(トルコの父)』として現在でも尊敬されているのです。 日本人がアラブ諸国からトルコへ入国すると、目にする掲示がアルファベットであり、意味はわからなくても、読めるため、安心するそうです。 それは、『ケマル・アタテュルク』のおかげなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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