■水戸徳川家藩主覚書■

初代■頼房
慶長8年(1603)生 寛文元年(1661)没
家康の11子。治世53年間。家臣団の統制。城整備拡張。領内総検地。水利事業。鉱山開発。儒学・神学振興。
2代■光圀
寛永5年(1628)生 元禄13年(1700)没
治世29年間。隠居後も藩政関与。頼房の3子。殉死禁止令。社寺改革。笠原水道建設。「救民妙薬」刊行。「大日本史」編纂開始。「釈万葉集」「礼儀類典」「花押藪」。文化財の修理保存。那須国造碑保存と付近の侍塚発掘調査。学術的な古墳発掘は日本初。生類哀れみの令を批判。
3代■綱條
明暦2年(1656)生 享保3年(1718)没
讃岐藩主松平頼重の二子。治世28年間。藩財政窮乏に直面し「宝永の新法」と称される藩政改革を実施。松浪勘十郎登用。「新川普請」(涸沼ー北浦を結ぶ紅葉運河と、大貫海岸-涸沼川を結び大貫運河との開削)農民の大一揆を惹起。
4代■宗尭
宝永2年(1705)生 享保15年(1730)没
讃岐高松三代藩主頼豊の長男から養子に入る。14歳より治世12年。「享保の改革」にならい藩政刷新。節約し、二汁七菜→一汁三菜とし範となる。役人の綱紀粛正。先例・先格・家風にこだわらず道理をもって実行。農民の負担軽減。学問武芸奨励。風俗粛正。26歳で急死し改革は頓挫。
5代■宗翰(むねもと)
享保13年(1728)生 明和3年(1766)没
宗尭長男。3歳で就任。治世38年。前半は重臣藩政。無為無策で財政難深刻化→1749年藩政改革。目安箱設置し下情上達。農政刷新着手。勧農役選任農事振興。いずれも効果なくして終わる。
6代■治保(はるもり)
宝暦元年(1751)生 文化2年(1805)没
宗翰の長男。16歳で就任。治世40年。深刻な財政難との戦い。藩士からの半知借上実施。献金郷士制。物産会所、鋳銭座設立などの産業経済策を試みたが流通経済が混乱し失敗。寛政の改革に歩をあわせて緊縮政策を試みるが効果あがらず。付家老中山信敬「江戸仕掛」水戸城下繁栄策も一年余で失敗。学問奨励、「大日本史」編纂再活性化。
7代■治紀
安永2年(1773)生 文化13年(1816)没
治保の長男。33歳で藩主に治世10年余。藩政に積極的に取り組み家臣に封事(意見書)献上奨励。献金郷士策廃止。大阪の富商からの借金やめる。農村の荒廃対策で風俗矯正・堕胎間引禁止。異国船の出没に対し群生改革武備充実。海防詰所建設、火砲常備、先手物頭在番。藩政窮迫は解消されずに改革気運後退。
8代■斉脩(なりのぶ)
寛政9年(1797)生 文政12年(1829)没
治紀の長男。20歳で就任。治世13年。保守門閥派登用。幕府助成金、御用金徴収。献金郷士制復活。正室峯姫は将軍家斉娘。一万両の助成金の永続給付を得ることに成功。賄賂横行。士風衰退。無嗣のため門閥派(家斉の二十男、清水恒之丞支持)と改革派(弟敬三郎(斉昭)支持)でお家騒動。
9代■斉昭
寛政12年(1800)生 万延元年(1860)没
治紀三男。30歳で就任。改革派の下志層抜擢。天保改革推進。民生安定、文武奨励、神儒一致思想鼓吹、全領検地、藩校弘道館創立。社寺改革。1844(弘化元年)謹慎処分。安政期に復活。軍備充実、海防強化、海防問題の幕政参与。攘夷主張。井伊直弼と対立し安政の大獄で国許永蟄居。1860年8月水戸城で没。
10代■慶篤
天保3年(1832)生 明治元年(1868)没
斉昭の長男。13歳で就任。治世25年。前半は斉昭が実験を揮う。戊午(ぼご)の密勅返納問題で混迷のさなかに就任。文久三年(1863)上洛。将軍目代として攘夷決行の朝命を受けて帰幕するが実行せずに辞任。諸生党と天狗党の紛争にも手を打てず。
11代■昭武
嘉永6年(1853)生 明治43年(1910)没
斉昭の18男。明治元年に16歳で藩主に就任。就任前の1864年(元治元年)には禁裏守衛として上洛。ナポレオン3世に謁見し、パリ博訪問するなど慶喜の名代として外交担当した。パリ留学中に帰国を命じられ水戸藩藩主に。殖産につとめる(北海道天塩五郡開拓、多賀郡大能村牧場振興、植林事業)


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