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千茶庵の日日草

千茶庵の日日草

2005年05月11日
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テーマ:戦争反対(1183)
カテゴリ:戦争反対
 前回千葉県館山市かにた婦人の村を訪ねたときの従軍慰安婦H氏の証言について書きましたが、ようやくその人の本”マリヤの讃歌”城田すず子著:日本基督教団出版局を図書館を通じて手にすることが出来ました。市の図書館にはなかったので国立国会図書館から借りてきてくれました。

 大正10年6月30日に東京深川のパン屋さんに5人兄弟の長女として生まれた。とあります。(1921年の生まれです。)
 父が自分の店を担保にまた保証人にもなり、母が死んだ年にすべて差し押さえられ差し迫った生活に陥ったそうです。
 17歳の年の2月か3月に芸者屋さんに子守さんが欲しいとのことで行ったそうです。(1938年になるでしょうか。)
 その年の11月頃、「旦那さんを取らないか、弟にもお金をあげたいだろうから」との話があり、父が借金をしていることもあって、60歳過ぎの旦那さんを取ったそうです。そこで淋病を移されました。
 翌年2月頃(1939年でしょうか)、芸者やさんは大変だから遊郭に住み替えないかと勧められ、1800円の借金で横浜の「芸娼妓周旋業大和屋」に行きました。台湾や沖縄に女の人を世話していました。楽天地で働きました。そのうち台湾に行かないかとの話でまだ17歳の若さで台湾澎湖島、馬公の常盤楼に行きました。
 馬公の遊郭は、城内の北のはずれにあり、そこには「海軍御用」という看板をかけた店が20軒ばかりずらっと並んでいました。
 馬公市庁で娼妓の鑑札をもらい、名実共に奴隷の生活が始まりました。
 鑑札をもらうとき、海軍の軍人に病気を移すと大変だというので、検査をされました。検査は軍医がしていました。

 (どなたか「海軍」には従軍慰安婦はないといってましたが、「海軍」にも慰安所が設置されてたのが事実のようですね。)

 軍艦勝力が入港してきました。海軍指定地は沸き返るような始末。
 半年位働いても借金は全然減らず。ゆっくり働ける場所=南洋諸島に行くべくいったん東京に帰りました。
 弟は満蒙開拓義勇少年団に入って、茨城県内原訓練所で満州に行く準備をしてました。(1939年か1940年頃の話だと思います。)

 そうして熱帯地方、南洋に渡りました。
 サイパンに行きました。
 軍艦勝力の宮内という若い(21歳)2等兵と台湾で色恋抜きで仲良くなりましたが、サイパンで他人でなくなりました。

 軍艦勝力がサイパンに来なくなるというので、宮内をおもいトラックに行きました。サイパンの3分の1もない小さな島でした。美晴帝に主人は沖縄県人でした。純粋の東京っ子はお品(当時の名前)だけであとは九州、朝鮮、沖縄の人で、海軍将校の慰安所には横浜近辺の人もいて、お品さんをわざわざ尋ねて来たそうです。
 品物もだんだん不足してき敵の潜水艦のため御用船、輸送船がトラック島に入らないということで東京に一旦戻りました。

 東京に仕事はなく、父も弟もどうにかこうにか暮らす状態の中、もう一度トラックへ帰りたいと南洋庁を行ったりきたりしました。
 「どこで死んでもいい気持ちなら、パラオに行く船がある」というので24歳ぐらいになっていたでしょうか船に乗りました。(1945年頃でしょうか)

 パラオの紅樹園という特別料理屋で海軍の特要隊の女の子の世話をする仕事をしました。特要隊の女の子は、朝鮮と沖縄の人ばかりでした。そこでは20人の女の子がそれぞれ番号がきまっていて、マッチ箱のような部屋が並んでいました。お客は「何番をください」といって切符を買うのでした。

 パラオとコロール島と本島をむすアルミズ水道が爆撃された。
 防空壕でご飯も炊くようになった。
 避難してるところに爆弾が落ち、3人が即死し、城田すず子も傷だらけになり埋もれたままになったが助け出された。

 30~40機編隊でパラオが攻撃されました。
 全部がやかれたのに紅樹園の防空壕だけ残りました。
 洞穴の上は陸軍の高射砲陣地でした。
 そこが爆撃されたとき、大きな樹がちりじりに飛び散り、洞穴の外に出ると山の形がすっかり変わってしまい、道には兵隊さんの肉がばらばら散らばっていました。

本島にアルミズの飛行機があり、その傍らのジャングルに陸海軍の生き残った兵隊さんや、高級な技術を持った軍属さんが皆避難をしていました。
 その人たちの慰安のために慰安所を開こうという話が部隊から出ました。そうして紅樹園の支店のようなものができることになりました。

そのうち戦争が終わりました。
 その後、戦後の厳しい時代の中から、以前書いた”かにた婦人の村”の施設に行き、「噫 従軍慰安婦の碑」の設置に至るわけです。

 過去の嫌な思いや経験は誰でも記憶から消してしまいたいと思うのは当然です。
 しかし、それで解決するわけではありません。
 事実は事実として認めるところから、新しい出発がはじまります。

 戦争というものがなかったなら、こういう悲劇は生まれなかったでしょう。
 私たち、戦争を体験してこなかったものたちには、同じ過ちを繰り返さないようにすることが、歴史への償いとなるのではないでしょうか。
 
 
 






Last updated  2005年05月11日 18時35分16秒
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