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カテゴリ:日本史
蘇我氏滅亡後、飛鳥は大きな変貌を遂げる。斉明女帝によって飛鳥に王都が完成されたが、東アジアの激変などの状況により、天智天皇は飛鳥を離れる。そして古代最大の内乱、「壬申の乱」後、飛鳥は再び歴史の表舞台に登場する。その流れを概観してみようとするのが、本日の講義です。 585年に飛鳥寺の造営が始まって、656年に飛鳥京が完成する。その間、朝鮮半島では高句麗、百済で王位継承をめぐる事件が起こり、643年には皇極大王の下に伝わる。時の倭国は、蘇我蝦夷と、その子入鹿が権勢をほこり、皇極女帝の次の王位承継をめぐる思惑で政治的緊張状態が続いた。大王の権力を凌駕する勢いの蘇我氏の勢力に危機感をもった中大兄達は蘇我氏を滅ぼした(645年・乙巳の変)。 皇極大王は弟の軽王子に史上初の生前譲位(孝徳大王)を行うが、前大王皇極は、飛鳥宮の整備に執着心をもち続けていた。654年孝徳大王が難波長柄豊碕宮で没すると、翌655年前大王皇極は飛鳥板蓋宮で再び即位(斉明大王)。ついに656年飛鳥京が完成する。 663年倭国軍は白村江で唐・新羅の連合軍に敗れ、大陸への足場を失う。668年中大兄王子は、近江大津宮で正式に即位(天智大王)したが、後継者問題や政策への不満の存在を抱えながら671年に没した。大友王子(天智大王の子)は「称制」を開始するが、大海人王子(天智大王の弟)が挙兵(壬申の乱)し、勝利すると飛鳥浄御原宮で即位(天武天皇*初めて天皇の称号を使う)。これによって、天武天皇の独裁政権が確立し、急速に中央集権国家へ進展した。 686年天武天皇が没し、690年その皇后が即位(持統天皇)し、天武天皇の意志を引き継いで、ついに、694年に日本にはじめての条坊制をもった中央集権的国家にふさわしい正都としての「藤原京(新益京)」が完成する。この694年で飛鳥時代は終わり、710年の平城遷都と移る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.06.14 17:23:54
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