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なまずのつぶやき

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2009.07.05
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カテゴリ:日本史
昨日の分、今日書きます。飛鳥の寺院の成り立ちについてです。

1 飛鳥寺(法興寺:仏法興隆の法と興から・法隆寺は?) 
物部氏との戦い(丁未の役)の戦勝祈願のため、蘇我馬子が発願。585年刹柱塔が建てられ、588年百済からの援助を受けて、層塔、金堂が建てられた。

塔を中心に配置し、東西に金堂、北に中金堂を置く一塔三金堂という特異な伽藍配置で、我が国では、ほかには下野国分寺以外にない。

中金堂には、丈六釈迦如来坐像(飛鳥大仏:606年完成)が安置されていた。平城遷都の時、当寺も移され、元興寺と呼ばれた。

飛鳥寺は、推古が倭京を飛鳥に造るための第一歩として馬子と共同で進められたものである。

この寺での打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌子が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって二人は親しむようになったという逸話もある。

2 豊浦寺
我が国最初の尼寺。推古が小墾田宮に遷したあとの豊浦宮を馬子に下賜し、馬子がそこに建立した。

3 川原寺(弘福寺)
斉明大王が崩御したのち、その母の冥福を祈るため、天智大王が川原宮跡に建立したといわれる。遅くとも703年には、大官大寺、飛鳥寺、薬師寺とならび四大寺と呼ばれ、平城遷都後も飛鳥に残った。

伽藍配置は、東西に並ぶ西金堂と塔を回廊が取り囲み、北側に中金堂が、さらにその北側に講堂、僧坊が置かれる川原寺式と考えられている。

4 橘寺
尼寺。聖徳太子生誕の寺との伝承を持つが、当時の風習から見てみるとそうとは考えにくい。伽藍配置は、西から講堂、金堂、塔、東門が一直線に並ぶ四天王寺式といわれているが、最近では山田寺式ではないかとの見解もある。

奈良時代には、造東大寺司に最勝大経を貸したといわれている。

5 山田寺(浄土寺)
蘇我倉山田石川麻呂が641年に発願した。伽藍配置は、南から塔、金堂、講堂が建ち、塔、金堂は単廊により囲まれ、その東側に宝蔵が配置されている。

649年、蘇我倉山田石川麻呂は謀反の疑いをかけられ、山田寺で自殺している。これは乙巳の変の立役者孝徳大王による策略によるものといわれる。甘樫の丘にあった蘇我氏本宗家の邸宅からここを見渡すことができ、その一部始終を見ていた蘇我氏一族はなにを感じとっていたことであろう。

 





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Last updated  2009.07.05 15:28:28
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