「浄瑠璃寺の春」と時の流れ
長かった夏休みも残すところあと一週間程になりました。子供たちがDVDばかり見て時間を無駄にしないように外出を多くするなどしましたが、まだまだ子供たちは遊びたりていないようで、朝一番、いつも「今日どうするん?明日はどこ行くん?」ではじまりますそれにしても「時間」の流れる速さって毎日同じなのだろうか?人によって違う、自分自身でもその日、その時によって違う。朝、同じ手順で家事をしてもあれ?もうこんな時間?とかまだこんな時間?とか。。。「まだこんな時間?」の場合はたとえばサイボーグ009の009の加速装置みたいなものがその時だけ体内でスイッチが入って自分以外の周りの時間がゆっくりに感じられるとか??私の場合、時間の流れを一番よく感じる季節は「夏」。子供の頃はものすごくゆっくり、そしてじっくりと夏の出来事すべてが海辺の白砂のように心と身体にとけこみながら時間が流れていったように感じていたような気がする。その後も夏は特に、ゆっくりと感じたりすることもあれば、夏の終わりになると、儚い夏と感じたり、あざやかな原色の風景や、なまぬるい風から少し冷たく感じる風へと変わる瞬間など。。。そう、夏の終わり頃になると無性に聴きたくなる曲があります。大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」その一瞬の時間の流れをを写真で捉え、そしてそれが何年経っても色あざやかにそのままに時間が止まっていたかのように思えてしまうこの曲が好きです。【YOUTUBE】「大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」この夏のほんの僅かな数ページの読書(笑)堀辰雄の「大和路・信濃路」から「浄瑠璃寺の春」というエッセイの最後部分にもこんな時間の流れの不思議がありました。堀辰雄自身が古都奈良を訪れ、浄瑠璃寺へ。読んでいると、まるで堀辰雄と一緒に大和路への旅を体験しているかのようです。そして浄瑠璃寺から東大寺の三月堂へ。。。もう旅人の足はくたびれ、疲れてしまった頃。。。「僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。 突然、妻がいった。 「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。」「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが」 僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし」 そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い 小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の 自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。