わが家の戦争体験 岡崎市・和歌山市 空襲
30年近く、仕事やその他もろもろ、の忙しさから、腰を落ち着けて両親と話をする機会がありませんでした。(機会があっても、その気にならなかった?)幸いにも2人とも健在。今回、和歌山に帰って、NHKの朝の連続テレビ小説で、愛知県岡崎市の空襲が描かれていた事がきっかけで、両親の戦争体験に触れることができました。両親とも紀州で生まれて紀州で生活して現在に至っています。 テレビを視ていた母親が突然『岡崎の空襲のとき、岡崎市で飛行機の操縦桿を作っていた。『空襲になって、私らは、横穴式の防空壕に逃げたが、働いていた工場が空襲を受けて、朝、防空壕から出てくると、死んでいる人がたくさんいた。』『なんちゅう工場で働いていたんや?』『針崎工場。結構、手先が器用で、ボール盤の穴あけなどうまいとほめられた。』母親は和歌山の師範学校に行っていたが、そのときは岡崎の三菱重工の工場に学徒動員されてたらしい。 まとめると昭和20年3月に戦争に必要な理科のみの『岡崎高等師範学校』が設立された。当時はすでに日本はメロメロ状態であったため、高等師範学校とは名ばかりで航空機の生産を行なっていた。テレビで放映されたように、昭和20年7月20日に、岡崎空襲があり、校舎がほとんど焼失した。校舎を三菱重工針先工場を仮校舎として、7月30日に入学式を実施。『わしは、和歌山市にいたが、せっかくつくった農作物が盗られるんで、和歌山市から離れた農場(現在の岩出市)で和歌山市の空襲を見た。和歌山の空襲はいつだったんか調べてくれ。』と父親が言い出した。両親は、2人とも師範学校へ行っていたが、片方は、操縦桿を作っていたし、もう一人の方は、野菜が盗られないように、夜中、見張りをしていた。戦争と言うものは、殺し合いで、人が死に傷つく。それは最も悲惨なことですが、学校へ行っても勉強できない、あるいは、その学校そのものが、勉強する目的以外に設立される。それが当然で誰もおかしいとは思わないし、思っても言えないし、言ってもどうにもならない。なんちゅうこっちゃ!とあらためて実感した有意義な一日でした。 (参考)和歌山空襲 昭和20年7月9日 死者1300人昭和17年4月に本土初空襲があり、昭和19年終わり頃から激化し、昭和20年3月東京大空襲・・・・・・昭和20年8月15日まで続く。