おせっかい教育論
相愛大学人文学部解説記念シンポジウムとして、大阪大学総長の鷲田清一氏、神戸女学院大学教授の内田樹氏、浄土真宗本願寺派如来寺住職で、相愛大学教授の釈徹宗氏、大阪市長の平松邦夫氏によるトークセッションに行きました。 とても面白い笑いの多いトークセッションでした。 2009年10月に、大阪市中央公会堂において、『ナカノシマ大学キックオフ記念セミナー』という名で行われた座談会がもとになって、『おせっかい教育論』という一冊の本になっています。 大阪の文化は、宗教から商業が中心となり、江戸時代から明治時代にかけて懐徳堂や適塾という私塾ができて、文化・芸術の発展と共に市民の手によって教育がされてきたといいます。ところが、経済が発展し工業都市となり市場原理が教育にも表れ、教育をサービスの一環として、受ける側は支払った代価を要求し、満足がいかなければクレームをつくるといった具合です。『教育は商品ではない』のです。 教育、医療は、ビジネスモデルにしてはいけないのです。 今の教育の目標の一つに、競争的人材の確保、イノベーションの出来る人材の育成とうたっているが、リーダーばかりを育てても意味がない。大事なのは融通のきくことです。今の子どもたちは、社会に出ても社会は育ててくれません。私たちの世代は高度成長期で、社会が育ててくれていました。 教育投資に対するリターンを期待して、それを高等教育に求める実学は、「勉強すると金になる」というロジックとして間違っているという内田氏の発言に鷲田氏が、「阪大憲章の中に実学が入っている」とユニークに反論、本来の実学は、福沢諭吉が机上の学問に対して、現実の学問に向けて実学といったのだというと、内田氏が福沢諭吉は一貫して反時代性を論じていたと福沢諭吉についての逸話を紹介されました。 幕末に、福沢諭吉たちが学んでいたころは、オランダ語と医学の二つの学問しかなかったが、彼らの半分は郷里に戻って医師になり、半分は様々な仕事の役に立てているのは、教える側ではなく、受ける側がどう学ぶかということです。 教師が全て同じになったら、一方向だけの教育しかできません。夏目漱石の『坊っちゃん』のように色々な先生があって、色々な接し方があっていいのです。その中から、こどもたちが学ぶのです。とはいえ、教育現場には、朝ごはんを食べていない子やお昼ごはんを食べるお金がないという子のいる現状があると平松市長が行政の立場から発言されました。生活保護の問題も絡んで、大阪にとっては深刻な課題です。 今回は、司会進行役をされていた釈氏が、日本の教育システムのよさをパレスチナの例をあげて話されました。60年間、教育熱心に続けた結果の歪に、日本人が行って日本が昔からしている教育をしてよい成果をあげているといいます。日本は外国のものを取り入れることばかりに目をむけず、もともと日本にあった文化を大事にしなくてはいけないと思いました。 日本には、通過儀式があって、子どもから大人になってゆきましたが、近代社会において、はっきりした儀式がなくなり、いつから大人になったのかわからない通過期間がとても長くなってしまいました。学ぶことは大人になることで、学生はがむしゃらに学ぶ。学びの中から自己をみつけてゆくのです。そして、「私は誰のために何をすべきか」ということを考えて仕事をするのです。今の就職活動は、「自己実現のために自分にしかできないことはなにか?」というとてつもなく間口の狭いネガティブな目的でもって行っているから仕事がない。そんな中で、回り(人)にあわせることのできる自分をよしとする教育が必要なのです。 おせっかい教育論著者:鷲田清一価格:1,260円(税込、送料込)楽天ブックスで詳細を見る