5022946 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ちずらぼのちずらぶ

ちずらぼのちずらぶ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

ちずらぼ

ちずらぼ

Calendar

Category

Archives

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12

Comments

ガーゴイル@ どこのドイツ 大森駅と東急線の蒲田駅の間の桜プロムナ…
人間辛抱@ Re:広島呉道路無料化の明暗(02/14) テーマから外れてしまいますが、 初めまし…
ガーゴイル@ どこのドイツ 三好寿の調査した比較すると低い方が春帆…
Jeraldanact@ Проститутки метро Звёздная Брат замминистра инфраструктуры Украины…
NBBrett@ От этого источника вы будете в восторге интернет сайт под ключ - https://web-th…

Freepage List

2014.09.07
XML
カテゴリ:災害記録帳
防災週間に因んだ過去の災害事例、第7回は明治三陸地震についてまとめてみた。

明治29年(1896年)6月15日、三陸沖で発生したM8.2の地震による津波が沿岸を襲った。この日は旧暦の5月5日。前年の日清戦争の勝利を祝い、凱旋兵とともに端午の節句の日を過ごしていた人々は、長く緩やかな揺れの後、不意討ちのように津波に襲われる。我が国の津波史上最大の21,959人が犠牲となる大惨事は、明治元年(1868年)に成立した「三陸」という行政上の地名が、日本中に知られるきっかけともなった。


不意討ちで襲った津波

地震発生は19時32分頃とされる。長く緩やかな揺れは震度2~3程度であり、人々は特に気にする様子もなかったという。しかしその30分後、突如津波が襲って来る。さらに15分後に第二波が続いた。満潮と重なったことも不運だった。当時の様子が『三陸津波誌』に以下のように記されている。

午後七時頃地震があった。強くはなかったが震動時間が長かった。十数分過ぎてからまた微震があって、それが数回続いた。海岸では潮の引くべき時間でもないのに引き潮があった。それからまた潮がさし、しばらくたって8時20分頃海の方から轟然と大砲のような響きが聞こえた。しかし、人々は軍艦の演習くらいに思い、気に留める者もいなかった。まもなく、すごい音響とともに黒山のような波が耳をつんざくばかりに怒号し、一瞬の間に沿岸一帯あらゆる全てのものを流しさってしまった。

津波は北海道から宮城県にかけての太平洋沿岸に到達した。遡上高は綾里湾奥(現大船渡市)で38.2m(東日本大震災以前の観測史上最高値)を記録したのをはじめ、三陸各地で軒並み10mを越え、北海道の襟裳岬でも4mに達した。
また、津波は国内だけでなく海外へも到達し、ハワイで9.14mを記録し、波止場の破壊や住居の流出などの被害が出た他、アメリカ本土のカリフォルニア州でも2.9mを観測している。

P1010032.JPG
<宮古市田老地区に残る明治三陸地震の津波到達看板(2013年10月撮影)>

P1010301.JPG
<大船渡市三陸町越喜来地区仲崎浜に残る明治三陸地震の津波到達看板(2013年11月撮影)>



壊滅した沿岸部

前述のように、揺れが大きくなかったため、地震そのものによる被害は出ていない。しかし、結果的にそれが災いした。この時点で津波へと意識が向いた者は多くなかった。これが避難行動の遅れにつながった。

死者は、2万1959人、うち1万8158人が三陸海岸のある岩手県に集中した。岩手県の沿岸部では戸数の約半数、住民の4分の1が失われた。流失家屋1戸あたりの死者数が3.78人と多いのは、津波が不意に襲って来たためほとんど避難できていなかった事実を物語っている。

海に出ていて津波を免れた者もいる。はるか沖合でマグロ漁をしていた漁師たちは津波の来襲を知らず、翌朝陸に戻ると家も家族もなく、変わり果てた光景を目の当たりにして茫然としたという。また、中には海に流されて救助を叫ぶ人たちの声を聞き船幽霊と勘違いして怯えていた例もあったという。運よく漁船に助けられるケースもあったが、津波にさらわれた者のほとんどが命を絶たれた。

また、行政、治安、情報伝達、教育などの拠点施設も被災し、行政官や警察官も多くが死亡した。これが災害後の応急処置から復興に至るまで、大きな影響を与えることになる。

限られた地域でこれだけの死者が出たことで、遺体の回収や埋葬も難航した。人出が足りないことに加えて、津波による遺体は損傷が激しく、炎天が続いたことから腐敗や臭気も重なり、過酷な収容作業となった。また海上に流出した遺体も多かったことから捜索は進まず、陸海軍も投入してやっと片付けが終わったのは地震発生から1カ月後だった。

県別被害表.jpg
<県別損害表(内閣府資料より)>

meijitsunami3.jpg
<遺体収容所となった石応寺(釜石市HPより)>


復興と災害教訓伝承

復興にあたり、津波で多くの犠牲が出たことから、壊滅的被害を受けた集落を高台移転する例が見られた。

吉浜村(現大船渡市)は高台移転により、後の昭和三陸地震(P50)の際に津波の被害を最小限に食い止めている。一方、唐丹村(現釜石市)は一旦高台に移転したものの、漁師が多くを占める住民たちは、次第に漁の利便性が高い元の場所へと戻ってしまったことで、昭和三陸津波で悲劇が繰り返されてしまう。

これは豊漁が続いたことが裏目となった面もあるが、移転先の飲料水の不足や海まで遠すぎたことに加え、山火事により集落が焼失するという不運も重なった。
高台移転は住民がそれまで慣れ親しんだ日常の利便性を放棄しなければならないケースもある。これは海の恩恵を受けながら暮らしている漁師にとって、決して簡単ではないことは想像できる。

ところで明治三陸地震以前にも、東北地方太平洋岸、とりわけ三陸地方はたびたび大きな津波に襲われている。貞観11年(869年)の貞観地震をはじめ、知られるところでは慶長16年(1611年)の慶長三陸地震、延宝三陸沖地震5年(1677年)、寛政5年の寛政宮城沖地震(1793年)、そして安政3年(1856年)の安政三陸沖地震と続く。

こうした過去の津波災害から、三陸では様々な教訓が伝承されており、明治三陸地震時も41年前の安政の津波を実際に経験した者も残っていた。しかし安政の津波は緩やかに来襲し、家屋の2階にいた者の多くが助かったとされ、この経験が明治三陸地震津波で裏目に出た。靴も履かずに一目散に逃げた者は助かったが、靴を履こうと出遅れた者は命を落とした。津波災害では常に紙一重のところで生死が分かれてしまう。

減災のためには、過去の災害における経験や教訓を残していくことが重要だ。しかし、例えば津波災害に限っても、それぞれ個性があり、同じであることはない。引き波がこともあれば、いきなりやって来ることもある。

災害の伝承は基本的には失敗から学ぶものである。「あの時仇になった」ことは一つの必然であり、正しく学べば必ず次回に活かされる。しかし「あの時はこうして上手くいった」ことは多分に偶然が伴うものであり、その次に同じ手が通用するとは限らない。過去の成功事例を過信することは禁物なのだ。ここに災害教訓伝承の難しさがある。

唐丹.jpg

吉浜.jpg
<大正2年測図の地形図で見る唐丹(上)と吉浜(今昔マップon the webより)>


※この記事は2012年に書いた文章を改編したものです。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016.03.06 13:23:45
コメント(1) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.