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2014.09.10
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カテゴリ:災害記録帳
前回の古代の地震に続いて、中世の地震についても触れておきたい。

日本列島が古くから絶えず多くの地震に見舞われたことは疑うべくもない。古い地震についての調査・研究は文献の精査と津波堆積物調査の両面からアプローチすることになるが、文献による歴史記録は必ずしも均質なものではないため、どうしても時代や地域による粗密が生じる。古代の地震記録は、多くが当時の政権があった京都や奈良に偏っているが、鎌倉幕府成立以降は関東や東海に関する地震の記録が徐々に見られるようになってくる。


正嘉地震

正嘉元年(1257年)8月23日、鎌倉において正嘉地震が発生している。地震規模はM 7.0~7.5、震央は相模湾で江ノ島の南約 10km と推定され、幕府のある鎌倉の目と鼻の先で発生したいわゆる直下型地震ということになる。

正嘉地震については、幕府が編纂した歴史書である『吾妻鏡』の中に被害状況の記述が見られる。

戌の刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳頽崩し、人屋顛倒す。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋の辺地裂け破れ、その中より火炎燃え出る。色青しと。

現代語訳では「地震発生は20時頃、音を伴い、神社仏閣は無事なものは一つもなく、山は崩れ人家は倒れ、土塀は破損し、所々で地面は裂け水が湧き出し、中下馬橋あたりでは地割れから青い炎が燃え上がった」となる。
音を伴うというのは地鳴りを意味するだろうか。人家ばかりでなく神社仏閣がことごとく倒壊していることから、震度7に匹敵する揺れがあったものと推定される。

地面が裂けて水が湧き出したのは噴砂や液状化と見ていい。地割れからの「青い炎」というのは何らかの可燃性ガス(メタンガス等の可能性が高い)が噴き出したケースが考えられる。ガスに慣れている現代と異なり、「青い炎」というのは当時の人々にとって奇異なものであったことは想像に難くない。
また『吾妻鏡』ではこの前後にも地震の記述があり、前震や余震があったことをうかがわせる。


鎌倉大地震

正応6年(1293年)4月12日、鎌倉は再び強震に襲われる。鎌倉大地震(永仁鎌倉地震)である。
この時の様子は『親玄僧正日記』や『鎌倉大日記』等に記述がある。「山は崩れ地は裂け、さらに津波を伴い、政庁を始め、鶴岡、若宮、大慈寺、建長寺等倒壊し建長寺炎上。特に民家の被害が甚しく、死者2万3020人に及んだ」とされる。また、余震が多かったことも記述されている。

震源や地震規模は不明だが、M7程度と考えられている。また、平成20年(2008年)に東京大学地震研究所が三浦半島小網代湾の干潟で調査を行い、堆積物を解析してこの地震による津波のものと思われる痕跡を発見している。

歴史的に特筆すべきは、この地震に乗じて「平禅門の乱」が勃発していることであろう。
鎌倉幕府の内管領(執事)であった平頼綱は絶大な権力を欲しいままとしており、その振る舞いは徐々に恐怖政治の様相を呈していた。主君である9代執権北条貞時はこの状況を危惧、鎌倉大地震の混乱に乗じて鎌倉は経師ヶ谷の頼綱邸への襲撃を命じ、一族を滅ぼしている。
地震が自然災害にとどまらず、政変までもたらした珍しい例である。なお、この地震を機に正応から永仁への改元が行われている。

鎌倉は南を相模湾に面し、これ以外の三方を丘陵に囲まれ、切通しを経て出入りする形で、外敵の侵入に強い防御力を持っていた。反面、災害が起これば逃げ場がなく、被害が拡大、混乱が起こりやすいというリスクも抱えた土地であったといえる。


正平・康安地震

室町時代前期(いわゆる南北朝時代)の正平16年(康安元年・1361年)6月24日、正平・康安地震が発生する(正平は南朝の元号、康安は北朝の元号である)。いわゆる南海地震であるとされるが、発掘調査からは東南海地震の連動が推定されている。

この地震については『太平記』、『和漢合運』、『南方紀伝』、『阿波志』、『後愚昧記』、『忠光卿記』、『後深心院関白記』など多くの記述があるが、日付に齟齬があることから連動地震あるいは大きな余震があった可能性も指摘される。

『太平記』では「山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千萬と云数を知ず」とある。畿内では摂津四天王寺や唐招提寺、薬師寺など多くの寺社が被災、紀伊でも熊野神社が破損した他、湯の峯温泉の湧出が止まったとされる。

また「海は傾て陸地に成しかば」とあるように津波の被害も甚大だった。
法隆寺に残る記録によると、大阪湾では津波が海岸から4km以上ある天王寺まで達している。また、津波の前に潮が引いたため、干上がった海で魚を拾い集めようとした漁師が多く飲み込まれたとされる。

また、阿波の雪湊(現在の美波町由岐)において「家に居た僧俗男女、牛馬鶏犬。一つも残らず海底のもくずとなった」とあるのを始め、阿波や土佐で大きな被害が出たことが記述されている。

また、『太平記』には「俄に天掻曇雪降りて氷寒の甚き事冬至の前後の如し」「被閉雪に臥て凍へ死る者数不知」と地震後に夏雪に見舞われたとする記述がある。

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<徳島県美波町に残る貞治の碑。正平地震の犠牲者供養のために地蔵尊を刻んだ石が1854年の安政南海地震の際に異様な光を放ったとされ、移し祀られたもの(徳島県防災・危機管理情報)(位置図は地理院地図より)>


明応地震

15世紀末の室町時代、明応7年(1498年)8月25日には東海道沖を震源とする明応地震が発生する。紀伊半島から房総半島にかけて強震に襲われ、内陸の甲斐でも強い揺れだったとされる。紀伊では熊野本宮で社殿の倒壊し、遠江では土砂災害や地割れが発生している。

津波の被害は甚大で、波高は志摩半島で15mに達し、鎌倉では10mの津波で高徳院の大仏殿が倒壊して流され、以降鎌倉大仏が露坐になったとされる(それ以前に1369年の応安地震による倒壊から露坐であったとの説もある)。

また、淡水湖であった浜名湖が太平洋とつながり汽水湖となったのはこの津波により砂堤が決壊したことによる。現在に至るこの湾口は今切と呼ばれ、後に今切の渡しとして交通の要衝になった。

沼津市の戸田地区にある「平目平」はこの津波の際にヒラメが打ち上げられた伝承に由来する。平目平の標高から津波の遡上高は36mに達したと推定されており、これは後の宝永地震や安政地震の際の津波よりも高く、明応地震津波が歴史的に見ても非常に大きなものであったことが推測できる。

津波の犠牲者は伊勢大湊で5000人、伊勢志摩で1万人、駿河湾岸では2万6000人、全国では5万1000人といわれる(当時の日本の人口は約1200万人)。特に伊勢の安濃津(津市)や遠江の橋本(静岡県新居町)、加えて紀伊の和田浦(和歌山市)などの港湾都市で大きな被害出たとされる。

波高が15mに達したとされる志摩半島の鳥羽市国崎町の大津集落でも、1万人の犠牲者を出したことで高台移転し、以降500年に渡り低地に戻っていない。これは日本最古の津波による高台への集団移住とみられるが、住民の多くが漁師であることを考慮すると、これは画期的なことといえる。

被害分布から明応地震が東海・東南海連動地震であったことは間違いないが、同時期に連動すると考えられている南海地震の記録はない。しかしこれは当時が応仁の乱後の混乱期にあったことと少なからず関係している。政治が機能せず、中央も地方も乱れていた時代であり、南海地震の貴重な記録が欠けている、あるいは消失している可能性も否定できない。

実際に四国各地で15世紀末の噴砂の痕跡が発見されており、新居浜市では『黒島神社文書』に「明応7年の震災」とあり、被害に関する記述が残っていることが確認されている。また、これより早い6月11日に九州における家屋倒壊の記録があり日向灘地震と推定される他、同日紀ノ川での津波や中国でも揚子江など河川の水面振動などが見られ、同日の地震が日向灘地震でなく、南海地震が東海・東南海地震に先行して発生していた可能性も指摘されている。

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<明応地震以前の浜名湖(「1498年明応東海地震の津波被害と中世安濃津の被災」矢田俊文,歴史地震
第20号(2005)9-12頁より引用)>

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<明応地震の津波が遡上した伝承が地名に残る沼津市戸田地区の平目平(地理院地図)>



※本記事は2012年に執筆した文章を一部改編したものです。





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Last updated  2016.03.06 13:24:46
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