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2014.09.16
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カテゴリ:災害記録帳
1947年9月15日、カスリーン台風が関東地方を襲った。関東北部では土石流などの土砂災害を、南部では河川の氾濫による大規模な浸水被害をもたらし、死者1,077人、行方不明者853人、負傷者1,547人、住宅損壊9,298棟、浸水384,743棟(いずれも理科年表より)で罹災者の数は40万人以上という甚大な被害になった。


かつては湿地帯だった旧利根川沿いの低地

6000年前の東京湾の海岸線は、いわゆる縄文海進により現在の利根川近くまで入り込んでいた。その時海の底にあった場所はその後陸化したものの、通行に苦慮するほどの湿地帯だった。
房総半島の旧国名は半島の付け根が「下総」奥が「上総」となっているが、都であった京に近い方が通常は「上」となるルールに合わない。これは当時の房総へ入る際に関東平野南部の湿地帯を通行することが困難であったことから、三浦半島から海路房総へ向かっていた名残だという。

荒川はもちろんのことだが、現在は千葉・茨城県境を太平洋へと流れる利根川や、その支流となっている渡良瀬川も、江戸時代以前は東京湾に注いでいた河川である(これらの河川沿いに湿地帯が広がっていた)。これを江戸幕府が、江戸の街の洪水対策と舟運のために「東遷」と呼ばれる付け替えを行った結果が現在の流路だ。

こうしてかつての湿地田は水田地帯に変わることになった。
また1783年の浅間山の天明の大噴火による土砂の流入で利根川の河床が上昇したことをきっかけに幕府は江戸の街を守るための治水に本腰を入れ、中条堤を建設して右岸を強化した。しかし皮肉にもこのことで本来水害に脆弱な土地に人が住むことになってしまう。

中条堤.jpg

その後明治期の関東大水害では中条堤が決壊して守っていた右岸でも大きな被害が出たことで、中条堤のように氾濫を前提として要所のみ守る治水は限界とみて荒川放水路の建設が始まり、堤防による治水が本格化する。
これが脆弱な土地への人の流入をますます進めることになる。
幾度となく水害が繰り返された旧利根川沿いの低地はそれでも広大な平地であり、交通の利便性も高いことから、その後の国土の有効利用政策により、この地域は集中的に開発が行われてきた。そしてカスリーン台風では、まさにこの低地がそっくりそのまま大水害の舞台となった。


発端は利根川の決壊

大水害の発端となったのは、利根川の堤防決壊だった。決壊した場所は埼玉県加須市(当時の東村付近)で、現在はカスリーン公園が整備されている。ここの地名は「新川通」で文字通り、かつての利根川の流路を変えて人工的に直線化されたことが分かる場所だ。
このすぐ下流には渡良瀬川との合流地点があるため、流れが停滞しやすい。加えて、かつては上流部にも、あえて水を溢れさせておくための遊水地帯が豊富にあったが、川を堤防で固めてしまったことで、こうした遊水地が機能しなくなっていた。この地点が破堤したのは偶然ではない。

それまでの利根川は現在の加須市の埼玉大橋上流あたりから南下しており、現河道は旧利根川と渡良瀬川を直線的につなぐ形で建設された。旧河道は埋め立てられて加須・大利根工業団地が整備されており、現在の地名は旧河川の存在を示す「古川」、そして新造成地であることが分かる「新」地名である「新利根」となっている。

破堤.jpg

そもそもこのあたりはかつて洪水のたびに川の流路が変わるような湿地帯で、ところどころ自然堤防が分布するような土地だった。古利根川、権現堂川、庄内古川、中川、元荒川など多くの河川や水路が網の目状に流れており、これら河川の堤防が各所で決壊したことで浸水が拡大した。洪水は東へと広がり、江戸川にまで達するが、特に大きな被害を出したのが最初の破堤地点に近い栗橋から幸手にかけてで、水深は2メートル以上になり、この地域で多くの家屋が流失している。

洪水は幸手、春日部、越谷、吉川、三郷、八潮、草加と埼玉県東部を南下した。三郷市は中川と江戸川に挟まれた低地帯で、ほぼ全域が浸水しており、湛水期間も二週間に及んだ。この地域は1958年の狩野川台風においても長期の湛水を記録している。


水没した下町低地

カスリーン台風による氾濫は、埼玉県と東京都の境界にある大場川の櫻堤に阻まれて一旦食い止められた。利根川の決壊から二日後のことになる。
櫻堤はと大場川の小合溜井と呼ばれる遊水地(現在の水元公園)にある堤防。ここが破堤した場合、氾濫流が東京の下町に流れ込むため、東側の江戸川の堤防を爆破することで氾濫流を江戸川に排水することが試みられたが失敗に終わる。
翌朝未明、ついに櫻堤は崩れて濁流が葛飾区を浸水させた。葛飾はそれまでも何度となく水害に悩まされていたが、カスリーン台風では浸水家屋54,128棟、罹災者218,251人という甚大な被害になった。
足立区では東部の低地が水没、また江戸川区もほぼ全域が浸水に見舞われた。

桜堤.jpg

最終的にカスリーン台風による浸水は、破堤した利根川から東京にまで広がり、氾濫の流下距離は60キロに達した。
江戸の水害を回避するために利根川は付け替えられ、かつての氾濫原に広がっていた低湿地は新田開発が進んだ。当初人々は自然堤防上に集落を形成していたが、都市化が進むと徐々に旧河道や後背湿地にも住宅が建てられるようになってきた。そこには大きなリスクがあることをカスリーン台風の事例が示している。

破堤により流れ出た氾濫流は自然の理に従って、低い土地へと流れていく。それはあたかもかつての利根川の流れを再現するかの如く、地形をなぞるように古利根川沿いを南下していった。
大量の氾濫流が流れ込んだ中小河川の堤防も次々と破れ、埼玉東部から東京都にかけての低地はほとんど浸水することとなった。氾濫流は江戸川河口から東京湾へと排水された。しかし、もともと水はけの悪い低湿地であったことに加えて、葛飾区や江戸川区の荒川沿いの地域は地盤沈下の進行で標高が海面下であり、排水はなかなか進まず、この地域では湛水期間が半月を越えた。

氾濫流下.jpg

この大災害をきっかけに「利根川改訂改修計画」が策定され、利根川水系8ダムを建設することとなり、ダムによる洪水調整を主とした治水が本格化する。

カスリーン台風では荒川放水路が決壊することはなかった。にもかかわらず、東京でも一部地域で浸水深が2メートルを越えた。もし荒川も決壊したらどうなるのか、という想像も必要なことだろう。水害が繰り返されることは歴史が証明している。カスリーン台風と同等かそれ以上の水害も長いスパンで考えれば必ず起こるだろう。荒川放水路は完成してまだわずか100年程度であることを忘れてはいけない。

もちろん、堤防などの防災対策は当時とは比べ物にならないくらい強化されている。それでも大雨で容量を越えれば水は溢れる。大河川を守るために水門が閉じられれば今度は中小河川や排水・下水が氾濫することは必至だ。
浸水地域は地形に依存するものだ。カスリーン台風で東京の下町低地の大部分が浸水被害に見舞われたことはしっかり認識しておきたい。



※本記事は自著『地名は災害を警告する』をはじめとして過去に執筆した文章を一部改編してまとめたものです






Last updated  2016.03.06 14:18:50
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