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2014.09.24
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カテゴリ:災害記録帳
1888年(明治21年)7月15日、会津磐梯山が噴火し、水蒸気爆発による山体崩壊が北面で周囲の地形を一変させ、死者477人という大きな被害になった。近代国家としての体裁を整えつつあった明治政府が初めて直面する大規模な自然災害だった。


予兆から噴火、そして山体崩壊

噴火の1週間ほど前から磐梯山周辺では鳴動と遠雷音が発生し始めた。磐梯山にはいくつかの当時場では、鳴動や発煙を受けて当時客が避難するなどの騒ぎになっている。
住民も不安を感じたものの、こうした現象が噴火の前兆であることは分からなかった。磐梯山が活火山であるという科学的認識もなかった時代の話であることを考えれば仕方のないことかもしれない。

現在であればこうした現象を捉えれば噴火の前兆として避難等の措置がとられるだろう。しかし当時は科学的知見もそれに見合う観測体制もない。
その後も鳴動は続いていた。

7月15日7時30分頃、鳴動と共に強い縦揺れの地震活動が活発化した。地震は断続的に発生、その揺れも徐々に大きくなっていくと、7時45分にとうとう噴火した。
噴火は小磐梯(現存しない)山頂部で、噴煙は上空1300mに達して東南東方向へ流れて広範囲に降灰をもたらした(降灰は太平洋岸のいわきでも観測されている)。

噴火地点に近い山麓では火山弾が降り注ぎ、直接肌に触れると火傷をおう熱をもった火山灰も降り、死傷者が発生したことが記録されている。大きな爆発が15回から20回くらい引き続いて起こり、最後の爆発が北に横向きに抜けたことが目撃されている。

この最後の爆発が小磐梯山と北面の斜面を崩壊させ、山津波状の岩屑なだれとなって北麓へと流れ下っていった。北麓にあった5村11集落はすべて埋没して477名の犠牲を出した。
爆風、ブラスト、水蒸気爆発サージを伴った疾風は木々をなぎ倒し、家屋を破壊した。

bandai2.jpg
<白木城小学校舎暴風ノ為ニ破潰ノ図(福島県立図書館デジタルライブラリーより)>

また、北麓を流れていた長瀬川水系は多くの場所で山体崩壊による土砂等で河道閉塞を起こし、桧原湖、小野川湖、秋元湖といった堰止湖を生んだ。
河道閉塞で不安定になった長瀬川ではその後融雪時等に繰り返し洪水や土石流を発生させて下流を襲うことになった。この状態は大正時代に3湖で築堤工事が実施されるまで続いた。

一連の噴火はその日の夕刻には治まっている。20日にも小規模な地震が記録されているが、噴火そのものはわずか1日で終息したことになる。
現在、裏磐梯から磐梯山を望むと、山体がえぐれたような形になっているが、その部分が当時の噴火による崩壊部にあたる。

bandai.jpg
<磐梯山北面の山体崩壊の跡と堰き止めにより形成された湖沼群(地理院地図より)>


近代国家として初めて直面した大規模災害への対応

この噴火は明治維新を経た近代国家としての日本が直面する初めての大規模自然災害であり、その対応においても様々な試みがされている。

その一つが科学的な調査だった。現地入りしたのは帝国大学理科大学教授関谷清景、農商務省地質局の和田維四郎と大塚専一、内務省地理局技師の和田雄治ら。また、工科大学の外国人教師ウィリアム・バートンも写真技師として同行したことで、磐梯山噴火は初めて写真に記録される災害となった。
当時黎明期にあった新聞メディアも積極的に報道し、災害現象の科学的解明に対する興味が社会全体に広がった。

噴火による被災者には凶作のための農民救済制度であった備荒儲蓄金が支給されたが、これは充分なものではなかった。これを天皇からの恩賜金と国民からの義援金が補うことになる。義援金は新聞などのメディアによる社会事業活動のさきがけで、54新聞社の約6万人から、総額約3万8千円が集まった(現在での約15億円に相当する)。災害の応急対策に適応しきれない場合の恩賜金、義援金の意義を示した事例といえる。

まだ統一規格の地図がない時代ながら、噴火後に農商務省地質局により「磐梯山之図」という詳細図が作成された点も特筆される。

結果的に1888年磐梯山噴火は我が国における大規模自然災害に対して近代科学のメスが入った最初の災害であり、官民あげて復旧にとりくんだ最初の災害でもあった。政府や社会の対応は当時の状況としては評価されるべき水準であり、その後の災害対応のあり方への前例となっている。






Last updated  2016.03.06 14:26:48
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