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ちずらぼのちずらぶ

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2014.09.26
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カテゴリ:災害記録帳
今から55年前の今日、すなわち1959年(昭和34年)9月26日、午後6時過ぎに紀伊半島に上陸した伊勢湾台風は直径700kmに及ぶ広範囲を暴風雨に巻き込みながら本州を縦断、伊勢湾岸を中心に死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名
住家全壊40,838棟、半壊113,052棟、床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟(消防白書より)という戦後最大の災害になった。


戦後最大の被害をもたらした高潮

上陸時の中心気圧は929hPaと勢力が強く暴風域も広かったため、広い範囲で強風が吹き荒れた。伊良湖で最大風速45.4m/s(最大瞬間風速55.3m/s)、名古屋で37.0m/s(同45.7m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測した。

最も深刻だったのは高潮による被害だ。
熊野灘から知多湾・三河湾・伊勢湾では台風が西側を北上したため、非常に強い南寄りの暴風が吹き続けた。この強い風による吹き寄せと気圧低下による吸い上げの影響により高潮が発生して、名古屋港で観測史上最高の3.55mを記録、過去最高だった室戸台風時の大阪港の2.9mを上回った。
名古屋港でのそれまでの最高潮位を1m近く上回る潮位となり、暴風波浪の影響も加わって堤防を寸断、住宅団地を土台だけ残して洗い流すなど大きな被害が出た。

伊勢湾が奥行き深く遠浅でその吸い上げの影響を受けやすかったことに加え、地形的な要因も大きかった。伊勢湾とその湾奥部は低平な沖積平野が広がっており、さらに干拓によって陸地化された土地も多かった(鍋田干拓地では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、133名が犠牲となった)。こうした土地は水害に対して極めて脆弱な土地ながら、戦後の復興・発展の過程で防災対策が不十分なまま市街化されていたばかりか、急速な工業発展に伴う地下水のくみ上げで地盤沈下が進行している地区もあった。

高潮は河川を遡上し、堤防を決壊させ、内陸部の低平な土地まで浸水させた。
地形的な要因もあり、湛水期間は長期化した。名古屋市南区付近は、1ヶ月以上も水が引かなかった地域があった他、干拓地(海面下-3mという場所もあった)では復旧にあたり堤防を完全に作り直した後にポンプによる排水を行うため、浸水が完全に解消したのは被災から半年後のことだった。
また、当時は水洗トイレが普及していないため、汲み取り便所の汚水があふれ出たことに加え、孤立した人々の排泄物も滞留して公衆衛生が著しく悪化した。

伊勢湾干拓.jpg
<伊勢湾岸の干拓地。朱が1600~1699年、茶が1700~1799年、黄が1800〜1899年に干拓された土地(内閣府HPより)>

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<伊勢湾台風の被害状況(内閣府HPより)>


被害を拡大させたいくつかの要因

被害を拡大させたいくつかの要因もある。
この台風で最も多くの犠牲者を出したのは名古屋市の港区と南区だった。これは名古屋港の貯木場から20万tものラワン材が流出し、直径1m、長さ10m、重量にして7~8tにもなる木材の塊が高潮に乗って住宅地を襲ったことによる。南区のおよそ1,500人の犠牲者の大半が流木によるものと考えられる。さらには流木によって流された家屋が他の家屋に衝突するような形で被害が広がった。

また、当時は住民の台風に対する意識が希薄だったことに加え、行政の防災体制もまだ不十分だった。
例えば、気象台などからの警報や台風情報の住民への伝達が十分に機能しなかった点が挙げられる。行政機関を通しての伝達はどうしてもタイムラグが生じやすく、防災無線などのインフラも乏しかったとこを考えれば伝達手段としての確実性はなかった。
最も確実なのは放送による伝達だった。実際に伊勢湾台風はそれまでの「被害報道」から台風情報の伝達を目的とした「防災報道」に初めてシフトしたものだった。しかし、当時はまだ電池式ラジオの普及率が低かったことも影響して、停電のために折角の報道が届かなかったのだ。このことで人的被害が拡大したのは不運だった。

また、各市区町村からの避難命令も徹底されていなかった。
気象台からの高潮警報は名古屋港での潮位が最高位に達した26日21時35分の約10時間前にあたる11時15分に発令されていたが、市区町村によって対応が大きく異なった。
最も早かった美浜町は13時に避難命令を発令したが、避難命令が発令されないまま被災した市町村もある。

知多半島から三河湾にかけての碧南、美浜、武豊、内海の市町村は、この6年前の1953年に13号台風によって大きな被害を受けていた経験から発令が早く、これら4市町村全体での犠牲者も26名に留まった。これに対して13号台風の被害が比較的小さかった伊勢湾奥部の市区町村では発令が遅かった。
特に、大部分が干拓によって陸地化された長島町などでの避難命令が19時を過ぎて出たことは致命的だった。発令された時点で既に停電のために真暗闇の暴風雨となっており、避難には無理がある状況だった。長島町では381人の犠牲者が出ている。

避難命令.gif
<避難命令発令時刻(内閣府HPより)>

こうした被災経験の有無が避難行動に如実に反映されるのは現在でも変わらないだろう。
さらに、ラジオで「昭和28年の13号台風に、勝るとも劣らない大型台風」というフレーズが盛んに繰り返されたのだが、その受け止め方が当時被災した地域では「あの時と同じなら大変だ」となるが、被災していない地域では「あの時と同じ程度なら大丈夫」となってしまったことも一つの要因であるとの指摘がある。

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<伊勢湾台風による決壊箇所と浸水状況図(中部地域づくり協会HPより)>


防災の大きな転換点

伊勢湾台風は日本の防災の大きな転換点でもあった。
2週間後には臨時台風科学対策委員会(委員長:中曽根康弘科学技術庁長官)が設けられ、現地を視察した結果防災のための立法の必要性を示唆、1961年1月に「災害対策基本法」が公布された。
また、河川の治水も見直され、いくつかのダムがこれをきっかけに計画・建設されている他、干拓地の堤防もより強固なものに造りかえられた。

また、当時濃尾平野の地形分類図は既に作成されており、(浸水)被害状況が地形に対して従順な結果であったことから、新聞では「地図は悪夢を知っていた」という見出しが打たれ、地図がきちんと利用されていれば被害は軽減できたのでは、という意見が見られた。
こうしたことが後の土地条件図、あるいはハザードマップの整備へと繋がるきっかけであったことは間違いないだろう。


国土地理院HPで当時の災害状況図を閲覧可能





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Last updated  2016.03.06 14:27:43
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