5013493 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ちずらぼのちずらぶ

ちずらぼのちずらぶ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

ちずらぼ

ちずらぼ

Calendar

Category

Archives

2024.03
2024.02
2024.01
2023.12
2023.11

Comments

ガーゴイル@ どこのドイツ 大森駅と東急線の蒲田駅の間の桜プロムナ…
人間辛抱@ Re:広島呉道路無料化の明暗(02/14) テーマから外れてしまいますが、 初めまし…
ガーゴイル@ どこのドイツ 三好寿の調査した比較すると低い方が春帆…
Jeraldanact@ Проститутки метро Звёздная Брат замминистра инфраструктуры Украины…
NBBrett@ От этого источника вы будете в восторге интернет сайт под ключ - https://web-th…

Freepage List

2015.06.17
XML
カテゴリ:災害記録帳
51年前の今日にあたる昭和39年(1964年)6月16日、新潟県粟島南方沖でM7.5の新潟地震が発生した。新潟県、山形県、秋田県の日本海沿岸で多くの家屋が倒壊した他、最大で4mを越える津波が押し寄せて冠水被害をもたらした。また、新潟市内では液状化現象により県営アパートが大きく傾き、臨海部にあった製油所では火災が発生して12日間にわたって燃え続け、史上最悪のコンビナート火災となるなど、多様な被害をもたらした。
(死者26人、負傷者447人、全壊家屋1,960棟、半壊家屋6,640棟)

日本海東縁変動帯で発生

昼下がりの街が大きな揺れに見舞われたのは6月16日。おりしも4日前まで初の開催となった新潟国体の春季大会が市内の陸上競技場を中心に行われており、新潟の街が昭和30年の大火からようやく復興を遂げた様子を全国に示したばかりだった。
震源は粟島の南方約40km。北米プレートとユーラシアプレートの境界にあたる日本海東縁変動帯で発生している。最大震度5を記録したのは新潟県、宮城県、山形県、秋田県など広範囲に及び、被害は主として日本海沿岸を中心に広がった。
これらの地域では家屋の倒壊が相次ぎ、山形県鶴岡市では幼稚園が倒壊して園児が生き埋めになり3名が死亡、酒田市では中学校のグラウンドにできた亀裂に転落した生徒が圧死する痛ましい事故があった。
新潟市内も騒然としていた。古町から万代橋を抜けて新潟駅へと続くメインストリートはあちらこちらでアスファルトが裂け、逆V字型に折れ曲がっているようなありさまだった。
また、国体に合わせて開通したばかりの、信濃川に架かる近代的な昭和大橋が落下し、古いながらも比較的被害の少なかった万代橋とは対照的な姿をさらすこととなった。

051.jpg

<落下した昭和大橋(1964年新潟地震オープンデータ特設サイトより引用)>

津波

津波は日本海沿岸各地に押し寄せた。波高が高かったのは新潟県北部で、岩船や鼠ヶ関では4mに達している。この他、佐渡の両津市では3mで300戸の家屋が浸水、村上市や男鹿半島南部でも家屋の一部浸水が見られた。また新潟市内では験潮記録は3mとされているが、信濃川を遡上した津波は6m近くに達したと考えられており、漁船が道路に打ち上げられているような光景も見られた。
この津波による浸水は信濃川沿いで広範囲にわたり、栗ノ木川周辺では1ヶ月に及んだ。

液状化

近年では地震の際に液状化が起こることはよく知られているが、日本で初めて液状化現象が災害として注目を集めたのがこの新潟地震だった。
新潟市内の信濃川左岸で液状化に起因する不同沈下と建物の基礎の脆弱さが相まって、鉄筋コンクリート建築の県営川岸町アパートが大きく傾斜して倒れんばかりの光景は衝撃を持って伝えられた。新潟空港では液状化に加えて津波の襲来により、ターミナルや滑走路が冠水する被害が出た。さらに前述の昭和大橋の落下についても、その原因は橋脚の地盤の液状化という見方がされている。
一方で液状化が免震効果をもたらした例や、噴出した水により火災の延焼が食い止められたなど、被害の軽減にも作用していたことも特筆される。

086.jpg

<液状化で大きく傾く県営川岸町アパート(1964年新潟地震オープンデータ特設サイトより引用)>

コンビナート火災

もうひとつ新潟地震を特徴づける被害となったのが昭和石油新潟製油所で発生した火災だ。地震直後に発生したこの火災は12日間にわたって燃え続け、周辺の民家へも延焼して300戸を焼失するなど大きな被害となった。
当時は石油需要が大きく伸びていた時代であり、生産量の増加に比して防災体制が立ち後れていた。新潟には化学消防車が1台も配備されておらず、油火災へのノウハウも不足していたことが被害を大きくした。史上最悪とも言われるこのコンビナート火災の激しい黒煙は、市内から間近に見えるため多くの市民に恐怖を与えたとされる。
火災の原因は当初は液状化によるものとされていたが、近年の研究から現在では長周期振動によるものと考えられており、東日本大震災でも同じような例が見られた。
新潟地震はカラーテレビの普及期と重なり、多くの貴重な映像が残されている。被害の多様性とも併せて、後の災害研究や地震防災にとって大きな契機となった災害といえるだろう。

005.jpg

<12日間燃え続けた昭和石油新潟製油所(1964年新潟地震オープンデータ特設サイトより引用)>

新潟土地条件.jpg

地理院地図で見る新潟市中心部の土地条件図。砂丘の背後にある信濃川沿いの盛土地で被害が大きかった>



※本記事は2011年に書いた文書を一部改編したものです

なお、発災50年の2014年、防災科学技術研究所自然災害情報室が「1964年新潟地震オープンデータ特設サイト」を解説して当時の貴重な写真や資料を公開しています。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016.03.06 13:17:42
コメント(4) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.