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実際の「距離」でも御陵駅が最短です。@ Re:京都を訪れる外国人観光客にデフォルメ路線図の罠 デフォルメで間違えてる可能性もあります…
ちずらぼ@ Re[7]:日航ジャンボ機墜落から29年(08/13) 仙台の竹ちゃんさんへ ありがとうございま…
仙台の竹ちゃん@ Re[6]:日航ジャンボ機墜落から29年(08/13) ちずらぼさんへ。 はい、そうです。 因み…
ちずらぼ@ Re[1]:日航ジャンボ機墜落から29年(08/13) 仙台の竹ちゃんさんへ ありがとうございま…
仙台の竹ちゃん@ Re:日航ジャンボ機墜落から29年(08/13) 初めまして、仙台の竹ちゃんです。 あの時…

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災害記録帳

2016.12.21
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カテゴリ:災害記録帳
1946年12月21日、まだ夜が明ける前の4:20分頃、南海トラフ沿いの潮岬南方沖でM8の地震が発生した。昭和南海地震である。
被害は中部以西の日本各地にわたり、死者1,330、家屋全壊11,591、半壊23,487、流失1,451、焼失2,587(いずれも理科年表より)を記録している。

昭和南海地震はフィリピン海プレートがユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震とされるが、南海トラフ沿いではこれまでも繰り返し大きな地震が発生している。
この地震の92年前の1854年12月24日に同じ震源域で安政南海地震が発生している他、昭和南海地震の2年前の1944年12月7日には同じ南海トラフ沿いで昭和東南海地震が起きている。

気象庁(当時は中央気象台)の観測所での最大震度は5(強震)となっているが、震源から離れた福井市や境港市、大分市など広範囲で記録されている。
最大震度5は近年の被害地震と比較して大きくないが、淡路島で「揺れは阪神・淡路大震災より、もっともっと長かった」という証言があるように、長い揺れが被害を拡大させた可能性があり、洲本市に残る史料には「圧死者」との記述があり、大半が倒壊家屋の下敷きになったとみられる。

地震に伴い津波が発生しており、串本町で6.57mの最高潮位を記録したのをはじめ、房総半島から九州まで(瀬戸内海も含め)1m以上の潮位を記録し、津波はアメリカ西海岸にまで達している。

和歌山県の広村では、「稲むらの火」のモデルとなった濱口梧陵が、安政南海地震後に津波から村を守るために私財を投じて建設した、高さ5m、全長600mの堤防が功を奏して、4mの津波に襲われながらも被害は最小限で済んだとされる。
しかしその一方で、堤防にさえぎられた津波のエネルギーが、堤防が途切れた南西側の湾奥に集中、川に沿って遡上し、この地域を襲ったことで犠牲を出している点も認識しておく必要がある。


<広村と堤防(海岸の防潮林がある部分)。この外側(南西側の川沿いに被害が集中した)/地理院地図より1961~64の空中写真>

また高知県を中心に地盤の変動が見られ、室戸岬で 1.27mの上昇が観測された他、各地で地盤沈下も発生している。
高知市や須崎市などでは地盤が低下したところへ津波が押し寄せたことから広範囲で浸水し、では家屋の倒壊に加え、水が引くまで半月程度を要している。
家屋の倒壊も相まって、高知県では多くの被害が記録されている

徳島県でも家屋の倒壊や津波による被害が多く発生した。
徳島市では「昭和南海地震体験談に見る徳島市の姿と知恵」として、当時の体験談を取りまとめており、防災意識の啓発に取り組んでいる。
こうした体験談の取りまとめは和歌山県御坊市でも公開されているなど各地で取り組みが進んでいる。

地震発生が終戦からまだ時間が経っておらず、高知でも徳島など空襲の被害が大きかったと市では追い打ちをかけるような被害であったことも考慮する必要がある。

徳島市をはじめとして、当時に比べると海面の埋立が進んだことや、当時住宅のなかった海岸付近や背後の水田地帯も宅地化した場所が多いことから、今後同様の地震が発生した際には液状化等で被害が拡大する恐れがあることを、専門家は指摘している。






Last updated  2016.12.22 01:39:53
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2016.07.25
カテゴリ:災害記録帳
1982年7月23日の夕刻、長崎県南部が集中豪雨に見舞われ、直撃された長崎市街地では、帰宅途中車など2万台と推定される自動車が被災するなど都市機能がストップし、市内に多く見られる住宅の密集した傾斜地が土石流に襲われ、死者・行方不明者299人という大きな災害になった。

17時から1時間の雨量は、それまで最高とされていた1957年の諫早豪雨をしのぎ、国内観測史上最高の187mmを記録。
どうしてもこの1時間雨量に目を奪われがちだが、19時からの3時間雨量も当時観測史上第3位となる366mmを記録しており、激しい雨が数時間続いたことが大きなダメージとなったことが分かる。
さらに気象庁の資料を見ると、23日以前にも11日以降で大雨洪水警報が4度発表されるなど、雨量の蓄積があったことも見逃せない。

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長崎地方気象台HPより>

長崎市は、山と海が迫る地形が特徴で、山地と谷間の土地を利用して都市域を広げてきたことから、郊外では土砂災害が発生しやすく、市街地を流れる河川も急勾配となるため急激に増水するケースも多く、氾濫の危険性は高かった。

郊外部では同時多発的に土砂災害が起こり(県内で4,457箇所)、多くの死者・行方不明者(262人)が出た。
都市部では長崎市内を流れる中島川、浦上川及び八郎川が氾濫したことで、死者・行方不明者37人という人的被害以外にも甚大な経済的被害をもたらした。

折り悪く豪雨が帰宅時間と重なったことで、車の中で亡くなったという人もいた(出水12人、土砂5人)ほか、流された車が水や漂流物をせき止める形となり、交通を寸断させたことで被害を拡大させた。
車の被災台数は約2万台ともされる。

naga10.jpg
国土交通省九州地方整備局HPより>

長崎市民病院では中島川と銅座川の氾濫により、地下と1階部分が冠水したことで、自家発電装置も含む電気設備やがストップして、医療機関としての機能が失われた。
長崎市立成人病センターも同様の事態になり、医療施設の水害対策の不備が浮き彫りになった災害でもある。

一方で地理的にも近く、同様の大雨に見舞われた諫早市では被害が少なく、1957年の諫早水害後の河川改修等の水害対策が功を奏した形になった。


多くの犠牲者を出した土砂災害については、市街地やその近郊の住宅密集地域で発生しており、こうした既存の密集地域ハード対策には限界があることから、避難や防災意識の啓発、住民による自助・共助などソフト面の対策が議論される契機ともなった。

なお、中島川に架かる国の重要文化財眼鏡橋の復旧に際して、地域の代表も参加した「長崎防災都市構想策定委員会」での議論を経て、元の場所に保存しながら両側にバイパス水路を設けるという、防災と文化財保存を両立させる形で勧められている点も興味深い。






Last updated  2016.07.25 02:03:14
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2016.07.04
カテゴリ:災害記録帳
里山保全で防災・減災 06年7月豪雨災害から学ぶ(長野日報)
平成18年7月豪雨災害の記録 忘れまじ豪雨災害(岡谷市HP)

2006年7月、いわゆる「平成18年7月豪雨」が各地に大きな被害をもたらした。
中でも長野県の被害は甚大で、諏訪湖周辺で約558ヘクタールが冠水、2,541棟が床上・床下浸水に見舞われた。
影響は諏訪湖の下流にも及び、箕輪町松島地区の天竜川では右岸堤防が決壊、伊那市の殿島橋が落橋するの被害が発生した。

岡谷市周辺では複数の土石流が発生した
諏訪湖南西側の伊那山地はの糸魚川-静岡構造線の断層崖の急斜面が続き、断層崖にはこれを開析する北東方向の急傾斜の谷が多く発達しており、湖岸に扇状地を形成する地形となっている。
土石流や斜面崩壊は稜線部分で多く発生しており、遷急線付近で崩壊することで、谷に沿って大量の土砂を流下させ、諏訪湖湖岸・天竜川谷底平野沿いに発達する扇状地付近で被害を大きくした。

こうした山地災害の要因のひとつが、森林づくりにあるという。
この災害では、水の通りやすい層の下に透水性の悪い層があり、表層土が水分飽和していたところに大量の地下水が噴き出しがことが引き金になったというのだ。
教訓として挙げられたのが人工林の手入れ。
カラマツは、引き倒し実験の結果から「土砂災害防止機能に劣る樹種ではない。適正な間伐が行われれば、根は太く長くなる」のだという。
その上でコナラなど根張りのより強い樹種を山地の弱点(崩れやすい場所)に入れ、適地適木や針葉樹との混交で災害に強くすることが必要になる。
つまりは適切な場所に適切な樹種を配置する森林づくりがされれば山地災害を軽減することが可能ということになる。

また、そのためには里山づくりもカギで、山林所有者だけでなく力を合わせることで、地域を挙げた里山づくりが広がることが重要であるという。
適度に人の手が入った里山の形成は、こうした山地災害の軽減はもちろん、最近問題になっているクマなどの野生動物による獣害にも有効であることが知られている。

そもそも現在の山林は、終戦直後にはほとんどがハゲ山状態であり、そこから針葉樹を植林することで現在に至るのである。
元来の植生である照葉樹林から針葉樹一辺倒に変わったこともあるが、適切な間伐がされていれば状況は変わっていた可能性もある。
高齢化により山林の手入れが人手不足気味なことに加えて、里山もまた過疎化による耕作放棄地の増加など、手つかずの状態が増えつつある。
今後の森林づくりが適材適所を重視した形に変化していくことで、山地災害を軽減する効果が現れることに期待するとことはもちろんだが、山林や里山を(人材の問題も含めて)どう維持していくのかという点についても、もう少し議論が進んでいけばいいが。






Last updated  2016.07.04 01:00:10
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2016.03.03
カテゴリ:災害記録帳
昭和8年(1933年)3月3日の午後2時31分、東北三陸沖日本海溝付近を震源域とする昭和三陸地震(M8.1)が発生している。

三陸沿岸地域では震度4から5の揺れを感じ、それから30~40分後に大津波が襲来、多数の死者や家屋・船舶の流失など壊滅的被害を受け、被害の大きかった岩手県綾里村(現大船渡市綾里)では津波の高さは23.0mに達し、流失家屋は4000戸に及んだ。
明治29年(1896年)の明治三陸地震津波からわずか37年後、三陸地方はまたも大津波に見舞われたことになる。
なお、昭和三陸地震は明治三陸地震の影響を受けた正断層型のアウターライズ地震と考えられている。

津波による死者数は3064人で、明治三陸地震津波の2万1959人と比べると減少している。そもそも津波の規模が異なるので一概に比較することは適切ではないが、それでも深夜2時という多くの人が寝ている時刻に発生しながらも(明治三陸地震の発生時刻は19時32分)死者数が大きく減少しているのは、震度5の強い揺れが感じられたこと(明治三陸地震は揺れそのものは強くなかった)に加えて、37年前のことを知っている人も多く、教訓が生きたのではないかと言われている。

また、明治三陸地震津波の後、多くの集落が高台へ移転していたことも大きかった。
岩手県船越村船越(現山田町)や、宮城県唐桑村大沢(現気仙沼市)などでは高台移転がされており、被災したのはその後海岸部に戻った少数の人だけだった。
昭和三陸津波の被害と避難・高地移転の相関については、防災科学技術研究所の資料が詳しい。

一方明治三陸地震津波でも当時あった345戸がすべて流され、人口2248人のうち8割強の1867人が死亡した岩手県田老村(現宮古市田老)は、その後高台への集団移転を検討したものの、結局もとの海岸部に集落を再建して再び大きな被害に遭ってしまう(田老村は1611年の慶長三陸地震津波でも全滅の被害を受けている)。
田老村ではその後高さ10m、総延長2.4kmの巨大な防潮堤を築き、昭和35年(1960年)のチリ地震津波の被害を最小限に食い止める事に成功したが、平成23年(2011年)の東北地方太平洋地震による大津波(東日本大震災)で再び壊滅的な被害を受けてしまう。

明治三陸地震、昭和三陸地震と大津波による被害が続いたことで、三陸沿岸の多くの地域で高台移転が行われるようになる(岩手・宮城両県で98集落、約8000戸が集団または個別に高地に移転)が、その後生活の利便性や経済効果を優先させたためか、またも海岸部に集落が戻ってしまい、結果的に東日本大震災で被災することになる。

津波被害に対して高台移転が有効であることは多くの人が知っている。
その一方で、高台移転は沿岸の暮らしの利点をみすみす手放すことにもなり、多くの人が水産関連業に従事していることを考えれば生活面・経済的で高台移転はハードルが高い選択であることも確かである。
今後は災害時の要援護者や病院・福祉施設を優先的に高台移転ることや、海岸近くに暮らしながらも高台への避難路を整備するなど多角的な対策がされるべきだろう。

過去の津波の教訓を確実に後世に伝えるのは簡単なことではない。
私たちがたった5年前に目の当りにしたばかりの東日本大震災でさえ、風化しつつある。
震災遺構の保存もずいぶん検討されたが、さまざまな事情から撤去が進んでいる。

三陸の沿岸部にはいくつかの津波の教訓を伝えるための石碑が残されている。
私たちは年前のその日を迎えるまで、石碑の意味を省みたことがあっただろうか(もちろん、地元ではあったはずと信じているが)。
繰り返さないためにも多くの人が共有すべき問題なのではないだろうか。

昭和三陸.jpg

<大船渡市越喜来地区崎浜に残されている昭和三陸地震津波の石碑>(筆者撮影)



※この記事は2012年に書いた文章を一部改変したものです






Last updated  2016.03.06 13:14:34
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2016.01.26
カテゴリ:災害記録帳
25日、メリリャ自治都市とモロッコ北部の都市アルホセイマでマグニチュード6.3の地震が発生した。
europa pressによると、人的被害はないとのことだが、建物の被害があり、学校が休校になるなどの影響が出ているようだ。
スペインでもアンダルシア地方を中心に揺れが観測され、問合せが相次いだという。

地震多発国である日本から見ると、ヨーロッパは地震災害が少ないような印象を持つ人は多いだろう。
実際、イギリスやフランスから来日している人が(日本人の基準で考えれば)さほど大きくないような地震でも驚いたり怖がったりしている例は時折目にする。

しかしヨーロッパ全体として地震が少ないかといえば必ずしもそうではない。
特に南欧ではこれまでかなりの頻度で地震災害が発生している。

直近では2009年にイタリアで発生したラクイラ地震が知られている。
この地震は群発地震であり、中でも4月6日に発生したM5.8(Mw6.3)の地震により308人の死者を出した被害そのものはもとより、
地震の危険度を判定する国の委員会が地震発生前の3月31日に、大地震の兆候がないと発表したことで被害が拡大につながったとして裁判になり、一審では委員会メンバー7人(行政官2人、学者5人)に実刑判決が出たことでも記憶に新しい。

イタリアやギリシャなど地中海近辺で地震が多いのは、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境界部分にあたり断層が多いという点で日本と類似しているが、専門家によると地質構造が日本以上に複雑で、単純なプレートの沈み込みなどでは説明できないのだという。

スペインやポルトガルも同様に頻繁に地震が発生している国だが、スペイン国土地理院(IGN)のデータをもとに、スペイン領土及びイベリア半島で発生した地震をプロットした地図が公開されている
これによると1373年から公式に観測された地震は10万件以上を数えるという。

160125.jpg

この地域を襲った地震災害の中で最も有名なのは1755年のリスボン大震災だ。

ポルトガル沖の太平洋で発生したこの地震はMw8.5程度と推定される大きなもので、津波による死者1万人を含め6万2000人が犠牲になったとされる(理科年表)。
なお、リスボンを襲った津波の波高は、6~15mと推定されている。
(東日本大震災の際に、ヨーロッパではこのリスボン大震災が引き合いに出されることが多かったらしい)

大陸貿易で隆盛を極めていたポルトガルがこの地震を機に衰退したとする見方があることや、当時のヨーロッパの思想家に大きな衝撃を与えたことで、その後の社会の宗教感や哲学へ決定的な影響をもたらした点で、歴史的にも大きな意味を持つ。
また、ドイツの哲学者イマヌエル・カントがこの地震をきっかけに、地震を自然現象として捉えてメカニズムの解明を試みるなど地理学に傾倒していった点でも大きなエポックであり、地震学の黎明としての意味も大きい。

なお、リスボン地震は1531年にも3万人の死者を出したものがあり、繰り返し発生していることも分かっている。

このようにヨーロッパでは決して地震がないわけではない。
もちろん、ヨーロッパ全体としてみれば頻度が高いとはいえないかもしれないが、少なくとも南欧においては「地震が少ない」というのはあまりあてはまらない説と認識しておいた方がいい。






Last updated  2017.01.20 10:55:30
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2015.06.17
カテゴリ:災害記録帳
51年前の今日にあたる昭和39年(1964年)6月16日、新潟県粟島南方沖でM7.5の新潟地震が発生した。新潟県、山形県、秋田県の日本海沿岸で多くの家屋が倒壊した他、最大で4mを越える津波が押し寄せて冠水被害をもたらした。また、新潟市内では液状化現象により県営アパートが大きく傾き、臨海部にあった製油所では火災が発生して12日間にわたって燃え続け、史上最悪のコンビナート火災となるなど、多様な被害をもたらした。
(死者26人、負傷者447人、全壊家屋1,960棟、半壊家屋6,640棟)

日本海東縁変動帯で発生

昼下がりの街が大きな揺れに見舞われたのは6月16日。おりしも4日前まで初の開催となった新潟国体の春季大会が市内の陸上競技場を中心に行われており、新潟の街が昭和30年の大火からようやく復興を遂げた様子を全国に示したばかりだった。
震源は粟島の南方約40km。北米プレートとユーラシアプレートの境界にあたる日本海東縁変動帯で発生している。最大震度5を記録したのは新潟県、宮城県、山形県、秋田県など広範囲に及び、被害は主として日本海沿岸を中心に広がった。
これらの地域では家屋の倒壊が相次ぎ、山形県鶴岡市では幼稚園が倒壊して園児が生き埋めになり3名が死亡、酒田市では中学校のグラウンドにできた亀裂に転落した生徒が圧死する痛ましい事故があった。
新潟市内も騒然としていた。古町から万代橋を抜けて新潟駅へと続くメインストリートはあちらこちらでアスファルトが裂け、逆V字型に折れ曲がっているようなありさまだった。
また、国体に合わせて開通したばかりの、信濃川に架かる近代的な昭和大橋が落下し、古いながらも比較的被害の少なかった万代橋とは対照的な姿をさらすこととなった。

051.jpg

<落下した昭和大橋(1964年新潟地震オープンデータ特設サイトより引用)>

津波

津波は日本海沿岸各地に押し寄せた。波高が高かったのは新潟県北部で、岩船や鼠ヶ関では4mに達している。この他、佐渡の両津市では3mで300戸の家屋が浸水、村上市や男鹿半島南部でも家屋の一部浸水が見られた。また新潟市内では験潮記録は3mとされているが、信濃川を遡上した津波は6m近くに達したと考えられており、漁船が道路に打ち上げられているような光景も見られた。
この津波による浸水は信濃川沿いで広範囲にわたり、栗ノ木川周辺では1ヶ月に及んだ。

液状化

近年では地震の際に液状化が起こることはよく知られているが、日本で初めて液状化現象が災害として注目を集めたのがこの新潟地震だった。
新潟市内の信濃川左岸で液状化に起因する不同沈下と建物の基礎の脆弱さが相まって、鉄筋コンクリート建築の県営川岸町アパートが大きく傾斜して倒れんばかりの光景は衝撃を持って伝えられた。新潟空港では液状化に加えて津波の襲来により、ターミナルや滑走路が冠水する被害が出た。さらに前述の昭和大橋の落下についても、その原因は橋脚の地盤の液状化という見方がされている。
一方で液状化が免震効果をもたらした例や、噴出した水により火災の延焼が食い止められたなど、被害の軽減にも作用していたことも特筆される。

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<液状化で大きく傾く県営川岸町アパート(1964年新潟地震オープンデータ特設サイトより引用)>

コンビナート火災

もうひとつ新潟地震を特徴づける被害となったのが昭和石油新潟製油所で発生した火災だ。地震直後に発生したこの火災は12日間にわたって燃え続け、周辺の民家へも延焼して300戸を焼失するなど大きな被害となった。
当時は石油需要が大きく伸びていた時代であり、生産量の増加に比して防災体制が立ち後れていた。新潟には化学消防車が1台も配備されておらず、油火災へのノウハウも不足していたことが被害を大きくした。史上最悪とも言われるこのコンビナート火災の激しい黒煙は、市内から間近に見えるため多くの市民に恐怖を与えたとされる。
火災の原因は当初は液状化によるものとされていたが、近年の研究から現在では長周期振動によるものと考えられており、東日本大震災でも同じような例が見られた。
新潟地震はカラーテレビの普及期と重なり、多くの貴重な映像が残されている。被害の多様性とも併せて、後の災害研究や地震防災にとって大きな契機となった災害といえるだろう。

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<12日間燃え続けた昭和石油新潟製油所(1964年新潟地震オープンデータ特設サイトより引用)>

新潟土地条件.jpg

地理院地図で見る新潟市中心部の土地条件図。砂丘の背後にある信濃川沿いの盛土地で被害が大きかった>



※本記事は2011年に書いた文書を一部改編したものです

なお、発災50年の2014年、防災科学技術研究所自然災害情報室が「1964年新潟地震オープンデータ特設サイト」を解説して当時の貴重な写真や資料を公開しています。






Last updated  2016.03.06 13:17:42
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2014.10.23
カテゴリ:災害記録帳
今から10年前の2004年10月23日17時56分、新潟県中越地方でM6.8の地震が発生した。川口町(現長岡市)で震度7を観測したのをはじめとした大きな揺れにより山間地で地すべりが多発し、死者68人、負傷者4,805人、全壊家屋3,175戸(いずれも消防庁による)の被害になった。いわゆる新潟県中越地震だ。


広範囲で強い揺れを記録

新潟県中越地震は内陸直下型地震で、震源は小千谷市で深さ13km。周辺は長岡平野西縁断層帯などいくつかの活断層が存在しており、その一部もしくは平行する断層が活動したものと考えられている。川口町で震度7を記録した他、震度6強が小千谷市、山古志村、小国町、震度6弱が長岡市、十日町、栃尾市、越路町、三島町など、また震度5弱は福島県只見町、群馬県高崎市と北橘村、埼玉県久喜市、長野県三水村にも及び、非常に広い範囲が強い揺れに見舞われた。
また余震活動が活発で、本震発生から2時間以内に震度6の地震が3回観測されている。

この地震で道路・鉄道や電気・通信など公共インフラやライフラインも大きな被害を受けた。JRは7区間で不通となったが、このうち東京発新潟行きの上越新幹線「とき325号」が浦佐駅・長岡駅間で脱線したのはこの地震の象徴的な絵として報道された。新幹線営業運転中初の脱線事故であり、10両編成中8両が脱線したが、車両が軌道を大きくは外れず、脱線車両が豪雪地特有の排雪溝にはまりこんだまま滑走して止まるなどして、大事故は免れている。


インフラの被災

道路関係では高速道路が関越道の六日町IC・長岡JCT間、北陸道の柏崎IC・三条燕IC間の広範囲で、大規模崩壊を含む多種多様な被害が発生し、被害箇所は大小約2000ヵ所に達した。市町村道では約2200ヵ所が被災した。
ホンダが通信ナビによる フローティングカーデータを使用して「通れた道マップ」として通行可能ルートを可視化した最初の事例が新潟県中越地震だった。

インフラではこの地震では、電気・ガス・水道に加え、携帯電話網も含めた通信インフラの被災による問題が表面化した初めてのケースでもあった。発災直後新潟県への通信が輻輳したため、固定電話・携帯電話とも通信規制が実施された。NTT東日本では、通信施設の障害等により約4,500回線が不通となり、このうち山古志村の約1,200回線は長期間不通の状態が続いた。当時災害に強いと期待されていた携帯電話も、設備の破損等により5ヵ所の基地局で電波が止まり、今後の災害対策に課題を残すことになった。停電によりアンテナが機能しなければ携帯電話は使えないという今思えば当たり前のことが多くの人に認識された災害でもある。


土砂災害と河道閉塞の多発

この地震の大きな特長として山間地域での土砂災害の大量発生がある。
長岡市妙見町の旧国道17号では、ワゴン車が土砂崩れに巻き込まれ、母子3人が閉じ込められた。懸命の救出作業によ
り、地震発生から4日(92時間)ぶりに、母親と長男の2人が救出されたが(母親は病院に運ばれたのち死亡が確認
された)、その様子はテレビ中継され、この災害としての大きなインパクトを与えた。

1myouken.jpg
<長岡市妙見町でワゴン車が土砂崩れに巻き込まれた現場(関東森林管理局HPより)>

もともと地すべり多発地域であった山古志村(現長岡市)は村内の全域が地すべり被害に見舞われ、国道・県道・主要地方道が20ヵ所余りで通行止めとなり、14の集落すべてが孤立する事態になった。全14集落の690世帯、2,167人に避難指示が出されたものの避難手段がなく、自衛隊のヘリコプターなどによる避難を余儀なくされ、全員の避難完了は4日後の27日のことだった。

また、崩れた土砂が川をせき止める河道閉塞が多発し、閉塞した土砂が崩壊すれば大規模な土石流が発生するため、二次災害を避けて全村避難の措置が採られた。特に雪解け時には河川の増水で閉塞の崩壊が懸念され、全村避難が解除されたのは翌年の夏、また全集落の帰村が実現したのはさらに翌年の2006年4月だった。

ところでこの地震では地震そのものだけでなく、二次被害による犠牲も多かった。特に避難や避難所生活でのストレスや持病の悪化、エコノミークラス症候群などが問題になったことは記憶にとどめておきたい。


地すべり地形の恩恵と災害

2005年、合同調査があり全村避難が解除されていない旧山古志村を訪れた。そこここの斜面が崩れている様はこの災害の恐ろしさを十分に知らしめるものだった。
その一方でそこは棚田や棚池が美しい山村だった。この棚池ではニシキゴイの養殖が盛んに行われているのだが、この棚池、そしてニシキゴイの養殖こそが、実は地すべりを象徴する景観でもある。棚田の形成には緩斜面かつ地下水位の高いという条件が必要で、この地下水位の高さは地すべりの要因ともなる。ニシキゴイの養殖に最適の環境を提供してくれるのが地すべり地形なのである。実際に村の集落のほとんどが、古い地すべり堆積地に位置しており、どの家も総じて大きく、そこには地すべりの恵みの部分も感じさせた。
日頃は村にとっての恵みをもたらしていた地すべりが、時に牙をむく。自然が表裏一体であることを認識させられた地震でもあった。

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<国土地理院による当時の山古志村の写真図>

2004年は豪雨や上陸台風も多く、新潟県中越地震も加えて災害が多い年として記憶されている。
実はこの年、個人的に7月に発生した新潟・福島・福井の豪雨について、災害状況図やハザードマップに関する共同研究に参加しており、現地調査やヒアリングを行っていた。そんなさなかにこの地震が発生して、共同研究のテーマに急きょ新潟県中越地震も加えられたことが印象に残っている。

なお、国土地理院から新潟県中越地震の災害状況図などが公開されている






Last updated  2016.03.06 14:31:16
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2014.10.06
カテゴリ:災害記録帳
14年前の2000年(平成12年)の今日10月6日、鳥取県西部でM7.3の地震が発生した。震源は米子市の南約20kmで深さは9km。いわゆる直下型地震で1995年阪神・淡路大震災以来の震度6強を記録したが死者・行方不明者は出ず(負傷者182人)、同じM7.3だった阪神・淡路との対比で注目を集めた。


地震の空白域?

鳥取県西部地震はいわゆる地震の空白域とされている地域で発生した。しかし同地域では前年の10月に日野町で発生したM5.3の地震以降M5程度の地震が群発しており、断層活動は活発で実際には決して空白域ではなかったことが分かっている。

地震規模や震源の深さ、さらに実際に震度6強を記録している地域(日野町、境港市)があることを考えれば死者・行方不明者ゼロ(何人か生き埋めとなったが救助された)というのは意外にも思えるが、これは震源は山間部で人口密集地でなかったことや地盤が比較的強固であったこと、さらには雪国であることから建物のつくりが頑丈なものが多かったや発生時刻が13時半と深夜でも食事時でもなかったことなどがが要因として挙げられる。また、砂丘地帯では砂による免震効果があったともされている。

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<鳥取県西部地震における震度分布(鳥取県HPより)>

しかし被害そのものがなかったわけではない。山間部では多くの土砂災害が発生してJR伯備線は運休、2万戸が停電した他2000人が避難を強いられた。日野町、米子市などでは住宅の倒壊、損壊などもあったが、それでも全壊・半壊家屋の数は阪神・淡路大震災の1/20以下であり火災も発生しなかった。

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<鳥取県西部地震の被害の様子(消防庁HPより)>

実は鳥取県ではこの地震の2か月前に震度6強の震災が鳥取県西部で発生することを想定して「鳥取県災害図上訓練」を実施しており、これが見事に当たった形になった。
訓地震発生から10分後には行政および消防当局が対応を始めていたのは訓練の成果が現れたものといえるかもしれない。

ただし境港市や米子市で液状化の被害が発生している。境港では埋め立てられた工業団地が液状化して道路が波打ったり、工場の床が傾いたり盛り上がったりした。漁港も被害を受けて漁獲に打撃をもたらした他、米子空港も液状化により滑走路が4日間閉鎖された。

「地震空白域」といわれながらも前述のようなM5クラスの地震は起こっていたし、1925年の美保湾における地震(M5.8)でも米子市で液状化被害が出ている。また1943年には県東部で鳥取地震も発生している。
鳥取県西部地震も市街地の直下で発生していればもっと大きな被害になった可能性もあり、地震空白域という神話を少なくとも日本では信じてはいけないことが阪神・淡路大震災に続いて実証されたといってもいい。

地震は今日自分の足下で起こるかもしれないのだ。

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<鳥取県西部地震における地表地震断層位置図(産業技術総合研究所HPより)>






Last updated  2016.03.06 14:30:01
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2014.10.01
カテゴリ:災害記録帳
1910年(明治43年)、関東大水害が埼玉や東京に大きな被害をもたらしたことをきっかけに、荒川は大規模な河川改修を行うことになる。その目玉が荒川放水路の建設だった。この事業は1911年(明治44年)に始まり、岩淵水門から22kmにわたり、幅500mの幅の放水路工事が行われた。しかし放水路は難工事で、ようやく岩淵水門からの注水が開始されたのは1924年(大正13年)、そして工事が完全に終了したのは1930年(昭和5年)のことだった。幾度か工事を阻んだのが自然災害だった。一つは1923年(大正12年)の関東大震災、そしてもう一つがその6年前に東京湾を襲った「大正六年大津波」だ。東京湾で大津波?いったい何が起こったのか。


江戸を水害から守る

東京の下町に広がるゼロメートル地帯。その名の通り標高が満潮時の平均海水面よりも低い土地であり、当然のように洪水や高潮などの水害を受けやすい場所だ。このリスクが大きい地域が150万人もの人口を抱えている。なぜこのような土地にこれほどの人が暮らすようになったのか。

現在より海面が高かった縄文時代には、東京の下町は海の底だった。その後徐々に海面は後退し、それまで海中にあった土地が沼や湿地として地上へと現れた。弥生時代にかけては稲作の技術が持ち込まれたため、やがてこうした低湿地は水田として利用されるようになっていく。ただし人々が住んでいたのは主として自然堤防の上などの微高地だった。

平安時代には荘園が拡大、さらに鎌倉時代に入ると地頭が置かれ、未開地の開拓が徐々に進んだ。室町時代から戦国時代にかけて太田道灌が江戸を開城する段になっても、現在の下町地域は低湿地として残っており、こうした土地は物資の輸送などで通行するにもなかなか困難であった。

この当時鎌倉方面から房総へ向かうには、湿地が広がる陸上を通るよりも、三浦半島から房総半島へと船で渡ることの方が主流であったとされる。このことを示すのが房総半島における上総と下総の位置関係である。本来都に近い方が「上」となるのにも関わらず、半島の奥の方が上総、つけ根が下総となっているのは、人の流れの主流が陸路でなく海路であったことを表している。

江戸時代になり幕府が江戸に置かれると、この地域は飛躍的な発展を遂げることになる。河川の付け替えを盛んに行い、物資輸送のための舟運路を整備すると同時に、人口が増えた江戸の街を水害から守るための様々な治水対策がとられる。その一つが堤の建設だった。

幕府は洪水が江戸の街に流れ込むのを防ぐため、隅田堤と日本堤という二本の堤を建設した。堤は荒川(現隅田川)に狭窄部を設ける形で上流側に開くV字型でつくられた。これにより洪水は江戸の街へ流れ込む前に、上流部へと溢れることになる。これは上流部の水田地帯を遊水地として利用する治水の方法であり、家屋は浸水を避けるため微高地に作られていた。

余談だが、日本堤の先には吉原遊郭があった。これは遊郭を訪れる者が堤の上を盛んに歩くことで地面を踏み固め、堤を強固にする狙いがあったとされる。遊郭が江戸の治水に貢献していたことはあまり知られていない話かも知れない。

明治期になると、殖産興業政策が推進され、それまで遊水地として使っていた地域にも多くの工場が建設された。これに伴い人口も増加したことから、従来のように遊水地に洪水を逃がすような治水はできなくなってしまった。遊水池が生活の場所になってしまったことで、それまでの(ある意味計算された)「洪水」は「水害」へと形を変えることになる。

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<隅田堤・日本堤と吉原(東京地形地図より)>


「大津波」の襲来

東京都から江戸川を挟んだ千葉県浦安市や市川市の行徳地区は旧江戸川の河口付近に位置しており、典型的な低湿地帯である三角州が広がるり、現在では埋立地が続く。東日本大震災では液状化に襲われた地域でもある。なお、1919年に江戸川下流を洪水から守るために江戸川放水路が開削され、これに伴いそれまでの行徳の街は放水路で二つに分断されている。

浦安市の古い集落である猫実に左右天命弁財天という小さなお宮がある。一角に浦安市教育委員会の解説看板が立てられており、その中に「大正六年(1917年)の大津波で堂宇が流失してしまった」という一節がある。

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<浦安市猫実にある左右天命弁財天の解説看板。「大正六年(1917年)の大津波」というくだりがある(2011年に筆者撮影)>

大正時代に東京湾を大津波が襲ったのだろうか?実はこの大津波の正体は、今から97年前の今日1917年9月30日に発生した、東京湾台風による高潮災害のことである。

台風は関東の西側をかすめたが、東京や横浜では気圧が上陸時よりも低い950hPaまで下がり、折しも満月の夜であり台風接近時には満潮を迎えようとしていた。午前2時頃と3時半頃には気圧低下による海水の吸い上げと暴風による吹き寄せの影響で2度の高潮が発生し、町は壊滅状態になった。
船橋での潮位は通常の満潮時より2.5m高かったとされ、川を遡上して内陸部まで浸水させた。観測された水位は籍宿で4.8m(大雨による浸水も重なった)、流山4.5m、浦安で4.1m、行徳で3.9mとなり、死者行方不明者は千葉県だけで313人(市川市史による)、全国では1324人(千葉県気象災害史による)を数えた。また横浜港では3100隻以上の船舶等が風浪により転覆、多数の犠牲者が出ている。


伝統の行徳塩田も壊滅

行徳にはかつて広大な「行徳塩田」があり、製塩が盛んな場所だった。
行徳の製塩は戦国時代から行われていたが、江戸時代になると幕府の保護のもと、輸送のための街道や水路の整備が行われ、全盛を極めた。しかし、江戸時代後半になると赤穂産など西国からの塩も入って来るようになり、明治期には台湾から安価な台湾産の塩も市場に流入、さらに塩の専売制度が始まると行徳の塩は競争力を失っていった。そして1917年の高潮で行徳塩田は壊滅、その後戦時中に一時復活したものの、1949年のキティ台風の高潮被害で完全に幕を閉じた。

かつての行徳での塩づくりは塩田と海との境に堤を築いて海水を導く入浜法により行われていた。この方法は堤が生命線だったが、堤は台風・高波によってこわれやすく、人々は風雨水害と戦いながら堤の維持に努力していた。それだけに高潮は致命傷になった。

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<当時の浦安の集落と行徳の塩田(今昔マップon the webより)>

東京都では高潮の甚大な被害を受けてこの翌年に「非常災害事務取扱規程」を策定、非常災害時の各課の任務分担を定めた。そしてこの規定は後の関東大震災で生かされることになったという。

中央防災会議の「大規模水害対策に関する専門調査会」が2010年に東京湾を巨大台風が直撃した場合の高潮による被害想定を公表したが、過去の国内最悪の高潮被害である伊勢湾台風時をも上回る死者約7600人と試算されている。
「大正六年大津波」から100年近い月日が流れたが、当時とは比べ物にならないくらい居住者が増えた東京湾岸の低地は高潮に対して無防備に近い。

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<当時(左)と現在の下町低地の比較。荒川放水路が開削され、かつての水田地帯は都市化されている(今昔マップon the webより)>


※本記事は拙著『地名は災害を警告する』『首都大地震揺れやすさマップ』等の記述を改変してまとめたものです。



9月は防災月刊にちなみ1ヶ月にわたり多様な災害事例の記事を集中連載しました。今後は通常記事に戻す予定ですが、時折こうした災害事例記事も取り上げていきたいと思います。






Last updated  2016.03.06 14:29:22
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2014.09.30
カテゴリ:災害記録帳
平成5年(1993年)7月12日22時17分、寝入りばなの奥尻島を北海道南西沖地震(M7.8)が襲った。震度6(推定。当時奥尻島には地震計が設置されていなかった)、死者202人、行方不明者28人。被害を大きくしたのは発生直後に来襲した大津波だった。第1波がやってきたのは地震からわずか3分後。津波警報の発令よりも早かった。島南端の青苗地区は特に被害が大きく、火災と津波で潰滅、住民の1/3にあたる70人の死者・行方不明者を出す惨事となった。


恐るべき高速津波

地震の震源は日本海で、新潟地震や日本海中部地震と同様にユーラシアプレートと北米プレートの境界で発生している。プレート境界であることから元来歪みがたまりやすい条件にありながらも地震空白域となっていた地域だった。

この地震に伴い発生した津波は初速が時速500kmといわれ、地震発生からわずか3分で奥尻島に、7分で北海道南西海岸に到達した。津波は秋田、新潟、舞鶴、隠岐と日本海に広く伝わり、韓国の鬱陵島で3m、江原道三陟でも1mの高さになり、港に係留中の漁船15隻が沈没、11 隻が破損する被害が発生、ロシアでも行方不明者が3人出ている。

奥尻島での津波の高さは藻内地区で21m、発松前やホヤ石付近で11m、青苗地区で5~10mとされる。大学等の調査では藻内地区で30.6mに達したという報告もある。

第1波は島の西海岸に到達したものが最も早かった。また、津波は1波では治まらず、翌朝にかけて4波、5波の大波が島を襲ったとされる。これは島を回り込んだ波や、北海道本島で反射した波が繰り返し押し寄せたことによる。最大波は第2波で、これは島を回り込んで大きくなったものだった。
特に被害が大きかった青苗地区は島の南端に岬上に張り出していることから、西からの波を受け、さらに東からも襲われるという悪条件が重なっていた。

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<奥尻島の被害状況(奥尻町HPより)>


被害が集中した奥尻島

被害の多くは津波によるものだ。津波での死者・行方不明者は奥尻島で198人と人口の4%に及び、北海道本島でも島牧村で7人、北檜山町で4名、瀬棚町・大成町(いずれも現せたな町)ではそれぞれ10名・6名の犠牲を出している。

津波の到達が早かった奥尻島では、津波が避難途中の人々を容赦なく飲み込んだ。助かった人の多くは着の身着のままで高台に駆け上がった人たちで、逆に犠牲になった人たちの多くは、車で避難しようとして渋滞にはまったり、家族と一緒に避難しようと留まったり、近所の人たちに避難を促して回っていたり、あるいは一度避難したものの何かを取りに戻るなど、避難行動に躊躇が見られたケースがほとんどだった。

中には歩けないお年寄りを避難させようとリヤカーに乗せて一人で曳いていたところを津波に飲まるという悲劇もあった。「津波てんでんこ」の精神が守られていれば、防げたかも知れない犠牲だったが、同時に高齢化が進む過疎地における共助の難しさを示す例でもある。

また、10年前の日本海中部地震の際も奥尻島を津波が襲っているが、その時は津波到達まで17分とやや時間があったため、その経験が災いして避難が遅れたケースも報告されている。同じ災害は二つとない。過去の災害教訓の逆作用については今も変わらぬ課題である。

逆に引き波に家ごとさらわれながらも屋根の上に上って漂流していて漁船に発見されて助かった例もあった。生死は常に紙一重のところで明暗を分ける。

津波の被害が大きかった奥尻島青苗地区では火災が発生し、延焼拡大して189棟を焼く大火となった。これは住民が津波からの避難を優先したことや、消防隊が津波により道路が通行不能となったことから火元に近付けなかったため、有効な消火活動ができなかったことが大きな要因となった。

また、奥尻地区では大規模な斜面崩壊でホテルが下敷きになり、宿泊客など28人が亡くなるという被害もでている。
一方、この地震の被害の特徴として、地震動による建物の被害がそれほど多くなかったことが挙げられる。これは北海道の住宅特有の強固な基礎がひとつの要因であると考えられる。

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<津波に襲われた青苗地区(奥尻町HPより)>

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<青苗地区の被害状況(建設技術研究所資料:奥尻町HPより)>


津波警報のあり方

この地震で気象庁とNHKは地震発生5分後に大津波警報を発表した。日本海中部地震では発表まで14分を要していることを考えれば大きな進歩だったが、それでも奥尻島では津波到達に間に合わなかった。なお、奥尻町では独自の判断で、地震の3分後に大津波警報に先駆けて防災無線で「津波の恐れあり」として避難を呼び掛けていたが、これも生存には直結しなかったとされる。

津波警報が第1波に間に合わなかったという事実は、災害に対する技術の限界を示すものであり、重く受け止める必要があるだろう。そして、例え間に合っていたとしても、3分間でどれだけの避難行動がとれるのか、今をもってなお解決できない様々な課題を突き付けた地震であった。
政府の有識者検討会が2014年8月に日本海を震源とする大規模地震について初の調査報告書を公表したが、その中で地震発生から津波到達までの時間は最短1分という地域もあった。今後様々な対策が検討されるだろうが、ハードとソフトのそれぞれの強みを生かした複合的な対応が必要になってくるだろう。

また、当時の大津波警報は予報文をそのまま流すものだったのだが、予報文は「高いところでおよそ3m以上に達する」となっていたため、避難しなかった住民も多かった。このことから気象庁とNHKではその後予報文をそのまま発表するのではなく、「場所によっては予想より高い津波が襲う」「津波は第1波よりも第2波以降が高くなることもある」「津波は何回も襲う」といった文言を追加することとなった。しかしそれも東日本大震災における津波で効果的に生かされたとはいえない。

この地震のようなケースを考えると、「地震即津波」と考えていち早く高台へ避難することを徹底する以外、有効な対策はない。



※本記事は2012年に執筆した文章を一部改変してまとめたものです。






Last updated  2016.03.06 14:29:02
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