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カテゴリ:日記でない日記
今日1/31は祖母の命日である。享年六十歳。1979年没なので、今年がちょうど二十七回忌にあたる(ウチでは法要はやらない)。
その頃の私はまだ小学校中学年ほど。祖母の死というものがとてつもなく寂しかったことを記憶している。半年前に開腹手術を施した時は進行した直腸がんになす術がなく、結局人工肛門を施術して残りの半年を送った。つい最近も中尊寺ゆつ子女史の夭折の報に触れたばかりであり、類似した疾病で命を落とされていることが残念でならない。とにかく一番辛かったのは、当時外科病棟に勤務していた私の母であろう。看護師の立場としてはもちろんのこと、実の娘としても・・。 通夜の夜はほとんど泣き明かしたと思うが、もうほとんど覚えていない。ただ告別式が済んだあと、今後当時の実家のあった佐賀から、私が生まれる直前に亡くなった祖父の遺骨を引き取って、いま住む場所に再度埋葬することになったらしい。 九州へ行ける!っつーことは、新幹線に乗れる!と思ったら、祖母には悪いがすこしだけ小躍りしてしまった。まだまだ子供である。 葬式も済ませ、病室の引き出しに残っていたという封書を母が持ち帰ってきた。どうやら家族一人ひとりに宛てた"遺書"のようだ。もちろん、私へのメッセージも遺されていた。 「○○ちゃん(私の名前)、私は先に逝くけどごめんね。お母さんやおばさんたち(母は6人姉妹の長女なので、つまり下に私の叔母が5人いる)に迷惑かけないように」 といった旨の言葉であったと思う。しかも、他の看護師の目撃談から死の2日前に震える手で鉛筆でしたためたらしいのだ。 九州へ行ける!なんて思って、すごく申し訳ない気持ちになって涙が止まらなかった。それだけではない。悲しいからというより、自分の死期を悟って書いたのだということがわかって悔しかったのだ。家族の誰ひとりとして告知をした者はいなかったはずだが、それでも彼女は死というものすべてを受容したうえで筆を走らせたのである。 その目撃したという看護師にも「遺書を書いている」と言ったらしく、そこでどんな会話がなされたのだろうかと思ったが、「なにバカなコト言ってるの!」とは返さなかったそうである。というより言い返せなかったのだろうか。どちらにせよ、言い返さなかったのは今思えば正しいかもしれない。ガン告知などの論議が盛んではない、今から25年以上前にあったできごとである。余命いくばくもないことを自ら受け入れて達観し、静かに遺書をしたためる。なかなかできることではない。自分の娘が看護師であることで、余計な気遣いをさせたくなかったというのもあるだろう。 その娘であるところの私の母は、すでに祖母の享年以上生きながらえている。病院は退職したが、まだまだ現役さながらに老人介護などのマネジメントに従事している。現役の頃より家の帰りが遅いくらいだ。そんな感じで暮らしにハリがあるせいか、つい最近まで「私は70までだから」と言っていたのが、このごろは「100まで生きる」とかいいだした。周りに生かされるのではなく、自ら積極的に生きるということは素晴らしいことだとおもう。看護師現役の頃は幾人もの人間を看送る側であった。そういった終末医療とは根本的に違うけれど、今も老人介護という立場で、余生わずか(とも限らないが)の人たちをケアしている。 なぜだか"ほんとうは自分より先に逝くもの達によって、自分は生かされているのだ"ということを感じずにはいられないのは、きっと『グリーンマイル』という映画を見たせいだけではないだろうと、改めて思う一日であった。 でも、2ヵ月後の九州への旅行は、一週間前から自らカレンダーにカウントダウンを記し、眠れぬ夜を幾夜となく過ごしてしまった・・。 まさに生かされていた自分・・・。小5の春休みであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 2, 2005 04:44:09 PM
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