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カテゴリ:文科省未検定「新しい旅行」
5月14日。
今日から明日にかけてのほっけは忙しい。 まずは知人のいる名張へ行き、そこから夕方までには京都へ向かう。京都は3年前まで赴任していたスタッフとの飲み会である。毎年2回、安くて美味しい山科駅前の飲み屋さんで宴会をやるのが恒例行事になっている。 前日は会社の会議で夜遅くまで名古屋の港区界隈にいたので、いったん岡崎まで戻ってから名張に行くのでは時間が無駄になる。そこで、四日市に宿をとって翌朝東名阪と新しくなった伊勢道を通って久居へ抜け、そこから国道165号線で名張へむかうことにした。亀山から名阪国道でもよかったが、筆者は新しモノ好きなので、あえて伊勢道連絡路を経由する「遠回り」のルートを選択。大型車の事故により大渋滞の憂き目にあったり、覆面パトカーに出くわすこともしばしばな国道25号は、あまり好きではないというのも理由である。 名張に"道草"した理由は、旧知の知人夫妻が以前から欲しがっていた、初販から15年経つAV機器が、地元のハードオフで税別4万円出ていたものを転売してあげたのだが、残念ながら取扱説明書が失念していたのである。当時の希望小売価格は10万円もするほどのものであったが、いまだに中古市場では4万円以上のアイテムである。こちらが参考になるだろうか。そういうわけで、私も愛用している当機のマニュアルをコピーして手渡そうという、それだけの理由であった。郵送で済む話だが、立て替えた代金ももらってなかったし、この"資金"で夜飲めるからちょうどいいのである。 8時半に四日市を出発し、名張に着いたのが11時。なかなか早い。新居建築中とのことで、お邪魔したマンションは仮住まいだそうだが、なかなかのAV機器をそろえている。DIGAもスゴ録もある。私は4年ほどずっとRD派だったが、この春に3in1の こちらを購入も、VHSの画像がイマイチでちょっと気にいらない。3倍モードさえもキレイなVICTOR製のHR-X3を使い込んでいるから、余計にそう思うのだろう。談笑したり食事をゴチになったりして、14時前に名張を出発。 さて今夜は京都で飲み会だが、京都市内での泊まりは直前では予約が取りづらい。そこで以前住んでいたお隣の滋賀は草津にした。草津駅前ながら、一泊素泊まりにクルマ1台の駐車代を含めても5千円台前半であるから、毎度毎度の常宿である。その草津まで名張から移動するには、隘路が続くけれども国道422号線が最短ルートである。名阪国道を横切り、JR伊賀上野駅をかすめて現在の甲賀市を通って大津市へ入る。そういえば伊賀上野駅周辺の「旧上野市」も"伊賀市"に市町村合併された。3月末の稲武がそうであったけど、まさにこの国道の北半分も、まさに"合併街道"といってよい。 昨年11月、上野市、伊賀町、島ヶ原村、阿山町、大山田村、青山町が合併してできたのが伊賀市であり、けさの名張までのルートも旧青山町地区であった伊賀市域である。これから旧阿山町域の山道から県境を抜けるので、さしずめ前半はほとんど伊賀市内ばかりを走ることになる。隘路と急なヘアピンカーブばかり続くが、こんな山中でも三重交通バスが平日8往復もバスを運行している。思わず音羽口バス停で車を停める。 そのあと、丸柱という集落で左折し、桜峠を越えると甲賀市である。 甲賀市。こちらも、旧甲賀郡の土山・水口・甲南・信楽・甲賀の旧5町村の合併体だ。強いていえば、旧信楽町域に足を踏み入れたということになる。 JR伊賀上野駅からおよそ1時間、信楽駅に到着。しばし休憩。 信楽駅前からは、周辺地域との足になる「信楽高原バス」が運行中。 こちらは、もともとあった西日本JRバスの路線が2003年9月いっぱいで全廃されたのを機に運行を開始したもので、 厳密には乗合バスではなく貸切代替バスという形態をとっている。 見た目からその両者の違いは判別しづらいが、その体制からJRバスの廃止前よりもキメの細かい路線網になっているのは事実だ。 写真(前)のバスは多羅尾地区の温泉と信楽駅を結ぶボンネットバスの改造車。 詳細は、個人ページであるがこちらを。 そういえば、今日は5月14日。 旧信楽町民には忘れられない日である。 この信楽を走る第三セクターの鉄道で、列車同士が正面衝突事故を起こし多数の死傷者を出した悲惨な事故から、ちょうど今日が14年目の日である。 あのショッキングな事故から、まだ3週間足らず。尼崎まではさすがに御線香を手向けにゆく時間はないのだが、こちらの慰霊碑に寄って行く時間はありそうだ。 その前に、信楽駅に立ち寄ったらかかさずのぞくことにしているのが、こちらである。 駅待合室奥に展示された事故車両部分とその説明。 計器盤、ヘッドマーク類が、今も物言わぬ証人として我々に語りかける。 「鉄道安全宣言の町」決議文も掲示されているが、まさか決議当時に今年4月の事故は予想だにできなかっただろう。 ちょうど、貴生川からの列車も到着。 「14年前の忌まわしい過去は、実はなかったのでは」と思わせるほどの長閑な空気が流れる。 休憩所から改札口をはさんだ向こう側には、地元の陶器などもそろえたお土産店も。 ちなみに乗車券の自動券売機は、食券販売機を思わせる。 さて、次は事故現場に設置された慰霊碑へむかう。 右奥が慰霊碑。左手奥には第二名神の工事現場が広がる。 さすがに、慰霊碑を接写することなどこの私にはできない。 午後3時半、現場に到着。 ここは、第二名神・信楽IC(仮称)の取り付け道路の入口の目の前である。 未来の交通の要衝といえるこの場所が、奇しくもヒューマンエラーで起きた鉄道事故現場とほぼ同位置にあるということは、なんという仕合せであろうか。 事故は紫香楽宮跡駅と小野谷信号場(当時)の間で起きた。詳細は京都新聞のコラム赤信号で走った列車 <リポート・信楽高原鉄道事故の真相>に譲ることにする。 向かって右が事故現場の碑、左が「安全の碑」である。 安全の碑の全文(拡大画面)はこちら。 すでに、午前中に行われた追悼式の後片付けの最中であったが、甲賀市の関係者であろうか、係りの方が近づいてくる。 よかったら、お参りしてあげてください。 失礼なことに、お線香も、献花の用意も、していない。 こんな私でもいいですか、と尋ねると「どうぞどうぞ」と碑の前へ出て焼香を勧める。 当時のマスメディアの論調も事故当時はかなり厳しいものであったが、その後に起きる雲仙普賢岳の自然災害とその報道により、信楽の鉄道事故の報道は徐々にトーンダウンしてしまう。確かに日テレの記者にも殉職者がいて、当時「きょうの出来事」のメーンキャスターであった櫻井よしこアナも涙を浮かべながらブラウン管に映っていたのが印象的ではあった。 それでも、やはり「人災より、やはり天災か・・」と報道偏重を恨んだりしたものだ。 そして忘れ去られた今ごろになってJR福知山線脱線事故である。 これこそ、信楽の遺族にとっても、古傷が癒えるどころか逆に疼きだす悲劇だ。 そんなことを思いながら、いしぶみの前で祈りを捧げた。 私は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、涙が止まらなかった。 慰霊碑に立ち寄り、どうしても見ておきたかった小野谷信号場へ向かった。 国道307号の快走路の途中に、その信号場はある。 そして、横を向いた信号機も、当時と同じままに佇んでいた。 小野谷信号場付近の場内信号機。 すでに線路に背を向け、業務の用を為していない。 私には、この信号機さえも事故を想起させてしまう。 「彼」が事故を悔いるあまり通過車両を直視できず、後ろめたそうにしているように見えて、いみじく惨めなのである。 個人的には撤去して欲しいと願っているのだが・・。 (2)へ続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jun 5, 2005 10:49:16 PM
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