情熱のロードレース
今日は1ヶ月に1回、お酒をたしなみながらゆっくり読書する日です。インタビュー記事の目次、どの記事から読んだらいいのか迷うくらいのレジェンドが揃っています。良き時間を過ごさせて頂いております。素晴らしい本を有難うございます。 本の詳細はコチラ↓情熱のロードレース Vol.2 1987年鈴鹿8耐 ☆ ☆以下"80's バイク ”1987 YZF750 (OW89) ケビン・マギー&マーチン・ウイマーより再掲 1987 YZF750 (OW89) #21 ケビン・マギー&マーチン・ウイマーKevin Magee / Martin WimmerSHISEIDO TECH21 RACING TEAM YAMAHASUZUKA 8HOURS ENDURANCE ROAD RACE・Engine type : Liquid-cooled.4-stroke.DOHC 5-valve,in-line 4-cylinder.749cm3・Maximum power output:Over103.0kW(140PS)・Aluminum Deltabox frame市販スポーツモデルFZ750をベースに開発した耐久仕様のTT-F1ファクトリーマシン。1986年型YZF750を細部まで見直し、中低速出力特性を高めるEXUP(可変排気バルブ)や迅速なタイヤ交換が可能な片持ちスイングアームを新たに採用するなど、いっそう熟成・進化させた。1987年鈴鹿8時間耐久レースでは、負傷の平忠彦に代わったケビン・マギー/マーチン・ウイマー組の#21が劇的な逆転勝利。#26ジョン・コシンスキー/カル・レイボーン組も3位入賞を果たした。8耐に参加したヤマハワークス製YZF750の中で唯一の片持ちリアサスペンションがこの1987年製OW89である。実際の1987年8時間耐久レースではライダーの懸命な走りにより、ゼッケン21がトップに迫るもピットインするたびにピットロス。リアタイヤの交換はスムーズに行えるが、フロントタイヤのブレーキパットが閉じてしまうというトラブルにより交換にとまどい、トップに離されるという皮肉なレース展開であった。鈴鹿8耐でタイラが乗る予定だったが、1987年ワールドグランプリ500CC、8耐決勝前週の7月6日、フランスGPルマン・ブガッディサーキット、6速全開の高速コーナーで平選手はエンジン焼き付きがおこり、転倒。鎖骨、肋骨など数箇所の骨折、更に首はムチ打ちとまさに満身創痍の状態であった。しかし1週間後、タイラは淡いパープルのレーシングスーツを身にまとい、真夏の鈴鹿を走っていた。プロとしての意地があった。しかし、”走れない・・。”そう決断せざるを得なかった。上体が起こせないのだ。数百キロの風圧に耐えられない体になっていた。この年、資生堂TECH21レーシングチームヤマハは第3ライダー登録のマーチン・ウイマーを正ライダーに昇格させ、ケビン・マギーとのコンビにマシンを託す事となった。タイラは首に白いギブスを巻いた痛々しい状態でチーム監督としてピットに立った。決勝レースは下馬評どうりガードナー&ドミニク・サロン ホンダRVF750の独走となった。特にこの年、ワールドグランプリでランキングトップで鈴鹿に乗り込んできたワイン・ガードナー、前年までの派手なドリフトは姿を失せ、よりスムーズで無駄のない走りで手がつけられない程の速さを見せる。しかし、パートナーのサロンの2度の転倒で優勝候補のゼッケン1 ロスマンズホンダRVF750は沈黙、2度と息を吹き返す事はなかった。変わってトップはゼッケン45 ヨシムラスズキ ギャリー・グットフェロー&高吉組。確実なピットワークでライダーを送り出すヨシムラ。ピットインしたケビン・マギーはライダー交代をせず、気力の連続走行でトップのヨシムラスズキ、ライダーとしては経験の浅い高吉をジリジリ追いつめてゆく。ラスト5分 暗がりサーキットに悲鳴が巻き起こる。”トップを走っていたヨシムラの高吉、2コーナーで転倒!”TECH21、そしてヤマハワークスの鈴鹿8時間耐久レースの初勝利はこうやって実現されたた。しかし、ライダーとしての平忠彦の心境は複雑だったに違いない。”チームは勝った。しかし・・、俺は走っていない。”1985 FZR750(OW74) TECH21 ケニー・ロバーツ&平忠彦1990YZF750(OWB7) #21 平忠彦&エディー・ローソン80'S BIKE vol.3 ”TECH21復活” ☆1986 YZR250(OW82) #31 平忠彦