シネマに賭けた青春「夢を追いかけた日々」の想い出

2009/10/16(金)12:57

ジーン・セバーグ 数奇な人生を送った”ヌーヴェル・ヴァーグの花”

サ~ソ(83)

ジーン・セバーグ、彼女は日本で封切られた天才少女作家フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」のセシル役で、彗星の如くセンセーショナルに登場した。公開後、瞬く間に”セシル・カット”が若い女性の間に広まり、巷を闊歩した。 あなたのおかあさんもその一人だったかもしれない。人気スターになったセバーグは、そのままフランス映画界に惚れ込まれ、ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」で、ヌーヴェル・ヴァーグの名声と共に国際女優になったのである。 悲しみよこんにちは勝手にしやがれ 彼女は1938年11月13日、アイオワ州マーシャルタウンで生まれた。父親は薬剤師、マーロン・ブランドの映画を見て女優を志し、アイオワ大学演劇学部在学中、1万8千人の候補者の中からオットー・プレミンジャー監督の「聖女ジャンヌ・ダーク」の主役ジャンヌに選ばれた。 肩までかかる髪をポニーテールに結い上げていた少女は、ポニーテールをばっさり切り落としてハリウッド女優の道を歩みはじめたのだ。だが、「聖女ジャンヌ・ダーク」は興行的には失敗だった。 ハリウッドにはあるジンクスがあった。「ジャンヌは呪われている」と囁かれていた。ジャンヌ役を経験した女優は、決まって不幸に襲われていたのだ。 ”アカデミー女優”の全盛期に「ジャンヌ」を演じたイングリッド・バーグマンも、その2年後、不倫がもとでハリウッドを追われた。 プレミンジャーはジーンに今度は「悲しみよこんにちわ」のセシル役を用意した。「撮影に入るとヒットラーになる」と言われていたプレミンジャーの罵声が容赦なく飛んだ。余りの恐ろしさに彼女は自殺さえ考えたという。 これは女優さんが一度は通らなければならない道だ。大概の監督は撮影現場では”鬼”に変身する。そのオニも半端ではない。大勢のスタッフの面前でコテンパンにやられるのだ。日活にいた当時、”死に場所を探して放浪していた”という女優さんを何人も見た。だが、洗礼を浴びた女優さんは例外なく大成している。閑話休題。 ジーンは「悲しみよこんにちは」と「勝手にしやがれ」で国際スターの地位を得た。だが、ジーンの栄光はこの一瞬で終り、その後は”ジャンヌの呪い”の1ページを付け加えることになった。 彼女の出演作は35本あるが、ヒット作に恵まれず、息子までもうけた2度目の結婚も68年には破局同然だった。この頃、アメリカではベトナム反戦運動や、人種差別に抗議する公民権運動の真っ只中にあった。 「女優ジーン・セバーグ、ブラック・パンサーの子を妊娠」、70年5月19日号のニューズウイーク誌に、こんな見出しが躍った。女優としての焦りを抱えたジーンは、確かに黒人開放運動の急進派ブラック・パンサーの資金調達に協力していた。 しかし、子供は死産、子供の父親は組織とは関係のない白人学生だった。このショックから、以後ジーンは睡眠薬とアルコールに溺れた。 そして、79年9月8日、パリの路上に放置されていた白のルノーの中から、死後数日経ったジーンの遺体が発見されたのだ。 「許して、これ以上、生きられないの・・・」 息子に宛てた手紙には、40歳のジーンの悲痛な叫びが刻まれていた。そのため自殺と断定されたが、真相は不明だ。 しかし、”セシールカット”で微笑むジーンの輝ける姿は、今もスクリーンの中でいきている。 ジーンの作品のごく一部を記しておこう。 リリスペンチャー・ワゴン

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