シネマに賭けた青春「夢を追いかけた日々」の想い出

2010/03/17(水)10:42

アドルフ・マンジュー サイレント時代からトーキー時代にかけて活躍した名優

ア~オ(62)

アドルフ・マンジュー、彼の名はおかしな名前だなと思い、一発で頭の整理棚に収納された。最初に見た映画はトーキー初期の名作「モロッコ」だ。 モロッコ この映画はハリウッドに進出し、第1作で世界の映画ファンを席捲したマレーネ・ディートリッヒの映画史に残る名作である。 アドルフ・マンジューはマレーネ扮する歌姫アミーの楽屋で、クーパーが顔を合わせる恋敵、富豪の紳士ラ・ペシェールに扮していた。 中年紳士の中々の色男という風貌だなと思ったものだ。クーパーは砂漠の戦いに出陣するときにアミーをマンジューに譲って出て行く。 有名な鏡に置いてあったアミーの口紅でアミーへ別れの言葉をクーパーが書き残す場面を思い出した。そして、出陣となるなだが・・・。 マンジューは1890年2月18日、フランス人とアイルランド人の血を引き、ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれた。 彼はカトリック教会を信仰する一家に育てられ、Culver Military Academyを出て、 コーネル大学でエンジニアリングの学位を取得して卒業する。 その後、ヴォードヴィルの魅力に引き付けられ、1916年The Blue Envelope Mysteryで俳優デビューを果たす。 当時は第一次世界大戦のさなかで、彼は救護班のリーダーとして活躍した。1947年、マンジュー はハリウッドで赤狩りが猛威を振るった時、非米活動調査委員会と手を組み、Motion Picture Alliance for the Preservation of American Idealsという、ハリウッドにおける共産主義対策の自己流パトリオティズム団体の主要メンバーを務めていた。 この団体には1939年に「ゴールデン・ボーイ」で共演した バーバラ・スタンウィックとその夫 ロバート・テイラーもいた。 政治的信念のためにキャサリン・ヘップバーンとは対立していた。マンジュー は「ステージ・ドア」と「愛の立候補宣言」に、 スペンサー・トレイシーと共に出演したが、へプバーンが共産主義者と疑われた際、彼女は激怒、マンジューとはほとんど口を利かなかったそうだ。 彼はサイレント映画からトーキーの移り変わりに活躍を開始し 「シーク」、「巴里の女性」、「モロッコ」、「スタア誕生」と言った作品に出演した。また、1931年に「犯罪都市」に出演したことでアカデミー賞にノミネートされた。 巴里の女性 その他、主な作品には、「勝利の朝」「武器よさらば」「ロイドの牛乳屋」「突撃」「結婚哲学」など多数ある。  彼は1963年10月29日、肝炎のため死亡。天国への道を辿った。享年73歳であった。私生活は不明である。

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