2010/06/03(木)12:52
マリー・ベル 美しい未亡人役で人気沸騰したフランス人女優
マリー・ベル、「舞踏会の手帖」の美しい未亡人を私はいまだに忘れかねている。初めての舞踏会、甘い想い出が脳裏に去来する。
舞踏会の手帖
気品に満ちた未亡人マリー・ベルは映画を見た人にとって忘れられぬ存在になったであろうことは想像に難くない。
彼女は1900年12月23日、フランス・ボルドー南郊のベーグレ(B?gles)に生まれた。本名マリー=ジャンヌ・ブロン。父はフランソワ、母はマリーであった。
1913年、踊子をしている時、女優のコロンナ・ロマノ(Gabrielle Colonna-Romano)に勧められてコンセルヴァトワール(パリ国立高等演劇学校)(Conservatoire national sup?rieur d'art dramatique)を目指した、と言われる。
1921年 21歳、マドレーヌ・ルノーとともに一等賞でコンセルヴァトワールを卒業し、揃ってコメディ・フランセーズの準座員(pensionnaire)となり、1926年、ミュッセの『若い娘は何を夢みるか』で共演した。
1928年、正座員(soci?taire)に進んだ。1934年から、アンバサドゥール劇場(Th??tre des Ambassadeurs)を監督した。
ナチス占領期のコメディ・フランセーズで、1941年に『フェードル』のフェードル役を、1943年にポール・クローデルの『繻子の靴』のプルエーズ役を、勤めた。
1944年、パリ解放後、コメディ・フランセーズの運営委員会委員となった。1946年、同劇団の改革を不服として退団したが、1949年、名誉正座員(soci?taire honoraire)として復帰し、1954年まで定期的に出演した。
1962年 62歳、ジムナーズ座(Th??tre du Gymnase)の支配人となり、コメディ・フランセーズ時代からのフェードルを当たり役とした。アンドレ・マルローは、『マリー・ベルのフェードルを見る事は、フランスの本質を知る又とない機会だ』と激賞した。(1965年)
1969年、カンヌ国際映画祭の審査員を勤めた。1985年8月15日、パリ西郊のヌイイ=シュル=セーヌに没。モナコの墓地に、夫のジャン・シュヴリエ(Jean Chevrier)と眠っている。
シュヴリエ(1915 -1975)は、コメディ・フランセーズの正座員であった。夫妻で1968年に、映画『フェードル』を撮っている。ジムナーズ座は、『ジムナーズ・マリー・ベル』劇場となった。
ベルは1922年以降、約40本の映画に出演した。日本には、ジャック・フェデーの「外人部隊」、ジュリアン・デュヴィヴィエの「舞踏会の手帖」などの映画によって、知られた。
その他、出演映画には、「熊座の淡き星影」「ルキーノ・ヴィスコンティ DVD-BOX II 」などがある。