カテゴリ:わたし
今日、翻訳にまつわる出来事が2つありました。
一つは、ずーっと以前に履歴書を登録していたサイトをよく利用しているらしき人材派遣会社から、スペイン語の翻訳をお願いしたいという依頼が届いたこと。 送られてきた原文を見たら、タイプライターで打たれた婚姻証明書。 2ページ以降はフランス語の書類で、最後の1ページだけが簡単な英語の書類でした。 あまり気乗りしないながらも適当な値段を答えてみたら、スペイン語と英語の部分をお願いしたいと言われたので、受けることにしました。 翻訳の見積もりって、やり方がよくわからないので頼まれるといつも困ります。 実は、あるスペイン語の法律事務所のウェブサイトの翻訳も見積もりを頼まれていたのですが、原文から見積もりを出す方法を調べずに放置してあります。 私が普段、知人の下請けで翻訳をやるときは、原文の文字数ではなく、完成した言語の文字またはワード数で支払ってもらっているので、見積もりの経験がないのです。 今後のためにも、早く知人に連絡をとって見積もりの方法、教えてもらわないと。 もう一つは… 私の職場で発行しているバイリンガルニュースレターの最終原稿がついに固まり、編集会社に校了サインを出した直後のこと。 私の職場に、通訳の専門官が現れました。手には、赤の入った校正紙のコピーを持っています。 なんでも、私の同僚が今日の午後に校了前の最終原稿を彼のところに持ち込んで、日本語の翻訳をチェックしてほしいと依頼していたとのこと。 なんでそんな大事なこと私に教えといてくれないの?!と思いながらも、彼のアドバイスをありがたく思い、編集会社に即電話して、校了を一旦取り消し。 この通訳官はこの道のキャリアのものすごく長い方のようで、先日ある翻訳について意見を伺いに行ったときもものすごく丁寧に教えてくださいました。 ニュースレターの原稿にもいろいろ赤で書き込んでくださったのですが、何分、今日中に校了を出さないと必須の納期に間に合わなくなるという事情もあり、今さら大幅にテキストを入れ替えることもままならなかったために、人名の表記や専門用語などをオフィシャルに使用されているものと整合性を保つよう変更したのと、対訳としては間違いではないが、短い記事に書かれている文字の裏にある事実関係に詳しい人から見ると日本人読者に真意が伝わりにくいと指摘された表現部分については多少意訳した表現を最小限取り入れることにしました。 外国語の原文から日本語の文章を起こしたときに、そもそも最初から日本語で書いたならこんな表現はしないだろうにな、と映るような不自然な訳は避けるというのが私の翻訳のモットーですが、このニュースレターの作業の場合、同僚や上司(とくに上司)が、校正が新たに上がってくる度に次々と英文に修正変更を入れるため、日本語の方にそれを反映させるだけで手一杯で、最終的な日本語原稿をそれ自体独立した文章として読みなおす作業を怠っていました。 次回からは、編集のもっと早い段階で可能であれば通訳官にもご協力いただけるようお願いした一方、通訳官のところへ行った同僚に、こういう大事なことは今後きちんと私に知らせてくれるよう伝えました。 しばらくして同僚が私の席にやってきて、私に言い忘れたことを謝り、さらに通訳官のところへチェックを依頼しにいったのは上司の指示で、その目的は私ともう一人の日本人が行った翻訳を信用していないからという訳では決してなく、他の部門が発行する情報との整合性を確認してもらいながら、専門家の太鼓判をもらいたかったのだということを私に話しました。 私は、通訳官のコメントは大変有用でありがたく思うからこそ、それを無駄にしないためにもどうせお願いするならもっと早い時点で行う必要があること、それに編集工程を管理しているのは私なので、勝手に予定外のプロセスを加えないで欲しいことを伝えました。 なお複数の通訳官(専門職員)の中にも色んなキャラの人がいますが、この方は最も(そしておそらく唯一)尊敬できる方なので、今後この方からいろんなことを学び吸収していけたら、と思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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