2006/12/01(金)16:57
過去からみる現在と現在から見る過去
「あの時代に俺がいたら、スーパースターだぜ」バンドなりカラオケなり、音楽を楽しんでいる時にそんな発言をする人間を見たこと、皆さんはないだろうか?この50年における大衆音楽の劇的な変容は、振り返れば凄まじいまでの多岐多様な進化となって現在に至っている。
作曲・演奏・歌唱などにまつわるテクノロジーの進化、日々細分化する楽器や音楽理論を学ぶためのメソッドの充実、 それらを知らしめる新たなメディアの浸透。5年前10年前には不可能だったことが実現可能になっていくさまは、隔世の感を否応が無しに感じさせる。
70年代から見つめた50年代60年代の音楽は、ひどく単純でローテクに感じられるし、80年代から振り返れば以前のモノは緩慢に思えたりもしたかもしれない。ただ、音楽の表現の多様化は、その無数の人々の星の数ほどの思いの上を乗り越えて、今の状況に至っている。仮にその時代になんの先入観もなく同じ状況下へ行けたとしても、冒頭の言葉を吐けるほどの活躍など望むべくも無い。飛行機の無い時代に1日で大洋を渡れというようなものだ。私達の今享受する音楽は、その時代時代に積み重ねられた有名無名の無数の人々の思いから生み出されている。無論、事音楽に限ったことでもないが。80年頃、某音楽雑誌では往年の名盤について語るページがあった。 近田春夫氏がタルカスについて「運指なら音大生のほうがマシ、インテリヤクザのイカサマ」と表したり、YMO時代の高橋ユキヒロ氏が宮殿について「このドラマー嫌いなんだよね。だからこの作品も嫌い」と言っていた。個人の感想としては自由なのだが、なんかピントの外れた評論にしか思えなかった覚えがある。音大生はロックミュージシャンを志してるわけではないからである。当時はセッショワークも多い彼ら評論家のキースやクリムゾンのオリジンへの逆説的な嫉妬にしか読めなかった。私個人、当時は音大生の知り合いも多く、クラシック奏者とジャズやロックを標榜するものの目指す地平の違いくらいわかっていた。クラシックの演奏は技量を磨き、いかに譜面に命を吹き込むか精進する分野である。だが、彼らから見るとつたないながらオリジナル曲でアドリブを演奏したりするロック畑の私達を「何でそんな風に演奏できるの?」と不思議がられたこともあった。そう、ジャズやロックは譜面に沿って表現していくものではないからだ。そもそも音楽へのスタンスの違いと思うべきか。現代からみればビートルズも単純に聞こえがちかもしれない。しかし60年代当時の視点からみれば、現代は全てオーヴァープロデュースな手垢まみれの音になるのかも。ただし、いつの時代であっても音楽に憧れ、自ら欲して歌い・演奏する気持ちはプリミティブな欲求そのものだ。60年代のビートルズのクリームのストーンズの当時のライブを見ると思う。表現者の欲求が画面いっぱいに素のまま炸裂する光景。事あるごとに、過去の作品を軽んじたり、恥ずかしがったりする傾向は、世の東西を問わない。批判をするなと言うのではない。だが、今のそのアーチストがその場所にいるのも、その自分の積み重ねの上なのだ。