ぷろぐれ者がゆく!

2015/11/10(火)06:32

ゴードン・ハスケル氏2015年秋のお返事から

キングクリムゾンメンバーズワーク(789)

 最初に、今までハスケル氏関連のブログを楽天ブログテーマ「キングクリムゾン」に書いてきましたが、ご本人の気持ちを考えると失礼に当たるんじゃないかと考えるに至り、今回から分離した「ゴードン・ハスケル」というテーマで勝手ながら書くことに致しました。コレまでに書いたハスケル氏関連記事も順次移行しようと思います。  ただし記事カテゴリーでは、今まで通り<キングクリムゾンメンバーズワーク>で分類します。  さて本題です。 ツイッターでtmatsushitaさんから「元フィールズのアラン・バリーって今どうしてるのでしょう?」と尋ねられ、そういや2008年に亡くなった元リーグ・オブ・ジェントルメンのティノ・リチニオとのLuckyというバンドでの活動以降、彼の消息は知れません。どうやらボーンマスのホテルで朝食作ったり給仕をしてたらしい形跡もあるのですが、現在の事がさっぱり判りません。  そこで、同郷出身のハスケルさんに他の質問と一緒に聞いてみようと思い立ち、半年振りに連絡いたしました。一緒に70年代後半にハスケル氏がJOE時代に関わったらしいレコードについても質問しております。  毎度毎度のポンコツ意訳でございますが、もし興味がありましたならご覧ください。(Q, )内はコチラの質問です。 ======= Dear XXX (Q,日本でのみレコードを1976年11月25日に発売した、イースト・サイド・シャッフル East Side Shuffleって、Joeの事ですよね?) 「ええ、全て「ジョー」そのものでした。」 East Side Shuffle - Just A Touch Away / Round and Round (25 Nov.1976) (画像上部の日本人が加藤ヒロシ氏、その隣で首だけ出してるのがハスケル氏、後方のトランクにいるのがジム・ラッセル、画面左側に飛び出してるのがマーティン・ラシェント。つまり、Joe+ラシェント=イースト・サイド・シャッフルってな事なのでしょう。ディスコブームに便乗して出されたシングルですがジャケットに書かれた「噂のニューステップ アップダウン」聞いた事がありませんw 酷い邦題ですね。) 「シングルのビクチャースリーヴに写ってる車は私のアルファロメオだよ。」 (下記でシングルジャケットからハスケル氏をアップに) (このシングルに記載された情報では、両面とも作・編曲/プロデュースがマーティン・ラシェント、ジム・ラッセル、加藤ヒロシの連名表記。ハスケルがこのレコードに参加しているのを示す材料は写真のみ。楽曲を聞きこんでみると、曲中ささやき声や一部コーラスがハスケル氏で、メインヴォーカルは声質からしてたぶん加藤氏。) 「私たちは、リックマンスワース(ハートフォードシャー州)にあったジャクソン・スタジオで、マーティン・ラシェントと加藤ヒロシの為に働きました。」 (※マーティン・ラシェント、英国や欧州でエンジニア/プロデューサーとして活躍した人物で、自身もマルチプレイヤーとして様々な楽器を演奏可能だった。70年代にはディスコ作品も数多く手掛けていた。ロック畑でもTレックスやストラングラーズ他膨大な数のレコード制作に関わった。2011年6月没。享年62歳。このシングル盤収録曲でのキーボードもおそらくラシェント氏のプレイかと思い、参加演奏者予想パ-ソネルを添えて質問しましたが、コレには答えが無かったのでたぶんそうなのだと思います。  ジャクソンSt.は郊外にあるスタジオで山口百恵作品のリズムトラック録りやグラフィティ・ハウス・バンド等JOE関連作品で使われてた場所。百恵アルバム「ゴールデン・フライト」ブックレットにもスタジオの全景写真が掲載されている。) (Q,アラン・バリーさんはご健在なのでしょうか?) 「アラン・バリーが今も演奏しているかどうかはちょっと判らないです。私個人としてはまだ彼には演奏していて欲しいと期待しますけどね。」   「私が彼と最後に一緒に演奏したのが、クリフ・リチャード・バンドだったのですが、ツアー終盤の三日間だけでした。」   「彼は節度のあるよい人物で、世間一般に対しても生真面目すぎたんです。 ハンク・マービンがクリフのレコード上で行ってたミスプレイをそのままコピーし演奏する事を求められても拒んだ為、馬鹿なマネージャーによって解雇されてしまいました。」 (※クリフ・リチャードのツアーは完全に指示通り演奏する事が求められるという特殊な事情からか?)  (Q,East Side Shuffleのレコードでサックスを吹いたのはメル・コリンズですか?)   「私の記憶が定かじゃないんですが、メル・コリンズの他に二名サックスプレイヤーを加藤ヒロシは起用してましたね。」  ========= 以上です。  今回もこれまたハスケルさんしか知りえない貴重な証言が、短い返答の中にいくつも拝見できますね。日本盤だけで出されたディスコバンド「イースト・サイド・シャッフル」は、やはりハスケル、ラッセル、加藤、三氏のバンド、ジョーのアンダーネーム、つまり変名だったわけです。  シングル画像左で扉から飛び出ている編曲担当のラシェント氏。ディスコナンバーなのにメロトロンを弾くとか、かなりマニアックなアレンジをしております、このお方w  プログレディスコかっ!なんてねw 冗談です。  そして、このレコードにもメル・コリンズが関わってる事が確定。確かにレコードを聴けば聞くほど、ずば抜けたサックスプレイが彼の存在を音から浮かび上がらせます。曲自体はたいした曲でも無いのですが、サックスソロやサックスセクションの切れ具合はチョイト聞き物です。  翌1977年にJoe名義で出たシングルでもメル・コリンズはソロを吹いてましたが、シングルA面だけでした。しかし76年11月のシングルでは両面で彼のサックスがかなり目立っています♪ メルファンなら中古屋巡りしてでも買って損は無いでしょう。  ちなみにこのシングルのA面曲は、テイチクが1976年秋に出したディスコソング集のサンプラーLP「DISCO HITS SPECIAL DIGEST '76 AUTUMN(E-11-3)」にも収録されていました。 ヒットして無い曲や発売前のもたくさん収録されてる奇特なサンプラーLPでしたがw  あと、意外だったのがKing Harry後のアラン・バリーがクリフ・リチャード・バンドに在籍した件をゴードン・ハスケル氏から直接証言して頂いた点。コレも驚きました。以前から一時バリーさんがクリフのバンドにいたとは海外サイト情報で知っていたのですが、まさかハスケルさんと一緒だったとは。コレも驚きの情報でした。どうやらバリーさんもアンディ・マカロック氏同様、70年代は不運な時期が多かった人物なのでしょうね。以前ハスケル氏が91年のインタビューでバリー氏を「世界的な腕前なのに成功できなかった」と述べてましたが、実はその裏にはこんなエピソードが隠れていたのですね。  ハスケル氏がクリフ・リチャードのバンドにいた期間は合計で約12週間。Youtubeで確認できるそのバックバンド時代の映像は1977年10月24日。  という事は、バリー氏が三日間だけこのバンドにいた時期は、77年秋から78年春にかけてのいすれかの時期で、King Harry後すぐに参加したものと推測できます。  バリー氏の後任には、ピンクフロイドのサポートメンバーやシン・リジィでの活動で知られるスノウィー・ホワイトがクリフのバンドで79年ツアーまでリードギターを務めてたようです。 ※余談、ハスケル氏らJOEは翌1977年、山口百恵さんの英国制作アルバム「ゴールデン・フライト」に参加したことでも知られていますが、「百恵が来るなら僕の車を貸してあげる」という申し出があり、ハスケルが車を持って来たという話が、レコードプロデューサーの川瀬さんの証言で残されてますね。 http://www.geocities.jp/kayochronicle/kayo-momoe-djpart1-6.html  この車で百恵さんはロンドン中を回り、アルバムで数多く使われてる写真が撮られたそうですが、上記リンクの中の川瀬さんは「ゴードンのミニクーパー」と仰られています。  と言うことは、前年乗ってたアルファロメオから77年夏にはミニクーパーに乗り換えてたのでしょうか?それとも二台持っていた? でも、百恵さんが乗ったときはシフトレーバーが折れてたそうですからw 買い換えたとしたら中古なのでしょうね。  ※記事中Rushentを当初ルシェンテという読みで書いてましたが、その後日本ではラシェントと紹介されていたのを見つけたので読みの訂正をいたしました。 ※11/10追記、最初の質問は「イースト・サイド・シャッフルとディスコ・エクスプレスはJoeのことですよね」と尋ね、「全てジョーそのものでした」お答えを頂いていたのに、記事ではちょっと端折ってしまいましたw(制作体制が全く一緒の作品)  Joe+ラシェントのコンビネーションは1976年にThe Disco Express名義でディスコソングカバー集アルバムFunky Stuff (Get Down Tonight) も制作しておりました。だいぶ以前Joeのブログ記事を書いた際にもこのアルバムについて触れましたが、時期的にこのアルバムはEast Side Shuffleと同時期と見てよいでしょう。今でも安価で買えるアルバムですが、AMAZONやiTune、GooglePlayミュージックではダウンロード販売もされています。オーケストラも起用したサウンドで出来のよいカバー集といえます。イギリスの他にもフランス、イタリアではジャケット違いで出されていました。他にもユーゴスラビアやインド、オーストラリア盤が発売されていたようです。

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