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昭和16年(1941年)7月から、全国的に、”隣組(となりぐみ)” の活動が始まりました。”隣組”とは都市の町内会、農村の集落会の下部組織として、10戸くらいを単位とした、官主導の住民組織です。
内務省は、すでに前年9月に「部落会町内会等整備要領」を、各道府県に通達していました。戦争の激化にともなう総動員体制を、末端まで整えるための組織作りでした。いわゆる”銃後(じゅうご)の護り”のいっそうの組織固めです。 銃後とは、戦場の銃のうしろ、の意味です。戦時中の国家総動員法下の日本では、兵士を除く日本国民全員や、日本国内全土を指す言葉でした。 隣組の実際の活動としては、毎月、班長の家に集まる常会で、さまざまな通達を伝えられるほか、出征兵士の見送り、遺族・留守家族への救援活動、食料増産、貯蓄推進、物資の供出、国債の割当、防空演習の実施、などの取り決めをしました。 大東亜戦争戦時国債 政府が”隣組”の組織を作った一番の目的は、戦争に必要な資金を調達する戦時国債を、国民に半ば強制的に買わせるためだったと、私は思います。国債を消化し切れない町内会や隣組は、戦争非協力だといわれたのです。 私の家の2軒東隣りに、個人営業の証券屋さんがありました。私と同じ年頃の子がいて、よく遊びにゆきました。その店に坐っていると、ときどき国債を売りに来る人がありました。 7円ほどで買ったはずの、額面10円の割引国債を、この店では、5円ほどで買い取っていた、と記憶しています。私は、みすみす損をして国債を売る人があるのを見て、不思議に思いました。 私の父は、国債を次々に買わされて、持っていました。「国債を売る人があるよ」と話しても、「そんな人もいるやろ」と言うだけでした。 隣組制度を宣伝する歌もできました。岡本太郎の父・岡本一平の作詞、飯田信夫の作曲ですが、歌詞もメロディも低俗なものでした。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 戦後、ずっと後年、ザ・ドリフターズが、テレビのお笑い番組”ドリフの大爆笑”で、この”隣組”の替え歌をオープニングに歌ってましたね。元歌とともに、 YouTube で聴くことができます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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