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では、また、昭和19年(1944年)の昔、戦争の時代に戻ります。 昭和19年(1944年)7月18日、東条内閣が総辞職しました。この報道には驚き、それと共に大きな不安を感じました。私だけでなく、国民だれもがそう感じたと思います。 戦争を始めた総理大臣が、戦争の途中に辞める、こんなことは明治の日清戦争・日露戦争には無かったことです。 戦争遂行に重大な障碍となる、サイパン島玉砕の責任をとっての内閣総辞職、といわれました。あとで知ったところでは、東条英機は、なおも首相を続けようとしましたが、海軍側に海軍大臣を引き上げるといわれて、やむなく辞職したとのことでした。 かって、米内内閣のとき、陸軍側が陸軍大臣を出さないとなって総辞職した、その逆手を海軍に取られたのです。 東条英機は、対米英戦争を始めた総理大臣として、国の全権を掌握していたように思われがちですが、日本の国の形からして、そうではありませんでした。 戦前の日本では、総理大臣は行政府の長ではありますが、軍の作戦などへの命令権はありませんでした。軍は天皇に直属し、その統帥権は天皇にありました。 実際には、陸軍は参謀総長、海軍は軍令部総長が軍の最高位にいて、戦時には、天皇のもとに大本営を置き、両軍が協力して作戦を立てて、戦争を進めたのです。 陸軍省・海軍省は軍の事務部門で、陸軍大臣・海軍大臣は、その長官として、軍から政府へ出向していたに過ぎず、戦時に軍を指揮する権限は持ちませんでした。 東条は一時、総理大臣・陸軍大臣・参謀総長を兼任して、東条幕府といわれましたが、それでも海軍を指揮することはできませんでした。 これに対して、ドイツのヒトラーやソ連邦のスターリンは、独裁者として国のすべてを統括し、アメリカの大統領も、戦時となれば、陸海空三軍を指揮する権限を持ちました。 日本で、すべてを統括できるのは、天皇だけでした。天皇の臨席する御前会議(ごぜんかいぎ)には、政府と陸海軍の首脳が出席しましたが、昭和天皇の場合は、それぞれの上申を聞くだけで、自ら指示をするということは無かったと聞いています。 御前会議はたびたび開かれるものではなく、戦時中の軍の統帥部と政府との連絡協議は、大本営政府連絡会議という機関で行なわれてきました。 東条内閣の総辞職を受けて、昭和天皇は、小磯国昭(こいそくにあき)陸軍大将と米内光政(よないみつまさ)海軍大将の二人に組閣の大命を下しました。組閣の大命を二人に下すというのは、今までに聞いたことがなく、どうゆうことなのだろうと思いました。 小磯国昭 米内光政 米内光政は、海軍大臣や総理大臣にもなった人なので、名前は知っていましたが、小磯国昭というのは、始めて聞く名前でした。それまで朝鮮総督をしていた人物です。 どういう話し合いがあったのか、小磯国昭が首相となり、米内光政は、海軍大臣に就任しました。東条が退陣したといっても、軍部内にはまだ東条派が多くいて、もともと和平派の米内では、おさまらなかったのでしょう。 小磯国昭首相は、就任早々に戦争継続を強調し、 「大東亜戦争はこれからが天王山(てんのうざん) !」 と声を挙げました。天王山とは、豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦で、勝敗を左右する拠点となった山の名ですが、小磯首相の天王山は何を指しているのか、分かりませんでした。 小磯首相は、大本営政府連絡会議を廃して、最高戦争指導会議を設置しました。構成メンバーは政府側から、総理大臣・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣。統帥府(軍部)側からは、参謀総長・軍令部総長。必要なときは参謀本部次長・軍令部次長も加えました。 昭和天皇臨席の最高戦争指導会議 重要な議事のあるときは天皇の臨席を仰ぎ、政府と統帥部の連絡を密にしようというもくろみでしたが、昭和天皇が、意見を言い指図をすることは無かったと聞いています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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